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精霊のシジル  作者: 染料
六章
112/135

第百十一話 果たすべき責務

 薄暗い夜明けに浸かる談話室で冷えたソファに沈み込む。

 アルクゥはその氷のような温度に身を任せ虚脱した。

 半日と約束したテネラエはそれに満たない時間で情報を持って帰ってきた。

 フルクトゥアト領が擁するエルザ港一帯は不可思議な霧に包まれ外部と切り離されている。港は三日前より機能を停止、しかし内部の状況は依然として不明であるため国は手をこまねいているのだと言う。

 霧の境目を越えた商船は一隻たりとも戻らなかった、と陰気な影を落としたテネラエは商人らが囁く噂も付け加える。実際の目撃者を捕まえて話を聞いたそうだ。船尾が完全に境目を超えた瞬間霧の先に薄く見えていた影すらも消え、まるで別の世界に誘われてしまったかのようであった、と。

 先はデネブ、そしてラジエル魔導院。二つの霧が黒蛇という魔術師集団に関係していることは知っていても、内部の出来事までは知らないテネラエは進展があればまた報せると言って去った。

 反射的に追い掛けようとしたアルクゥは説明を不要とする幾多の異議に立ち止まり額を手で覆う。

 人が乗っ取られる。もしくは人知を超えた怪物がいる。或いはその両方か、新たな別の脅威か。

 テネラエは有能だ。理解してくれるだろう。だとしても、それが何になる。

 ガルドの作った結界魔具の予備はもうない。例え見えたとしても対処できるのも聖人だけだ。高名な魔術師ならば、何かしらの手立てを講じるのかもしれないが。

 しかしアルクゥが対処法を話し、テネラエがグリトニルに伝えたとしても、そこに確証を示せない。グリトニルが貴重な人材を得体の知れない状況に向かわせるとは思えない。

 エルザ港が自力で回復する目があるとするならそれは一つだ。

 アルクゥは母の姿を思い浮かべて腕の鱗を撫でる。事態を収める力は充分にあるはずだ。だがあの儚い人に戦いなんて血腥い行為が可能だろうか。

 それ以前に、母はまだこちら側にいるのだろうか?

 自分が誘拐された時点でも母は強く幽世に引き寄せられていた。一時は危険な状態となりそれを脱したと伝え聞いたが、最悪ハティやシリューシュのように先に・・行ってしまったことも考えられる。

 そうだとすれば――ケリュードラン公爵が哀れだ。

 アルクゥに湧き上がったのはかつて父であった男性に対する憐憫だった。

 そしてヒルデガルドの例を鑑みれば、その公爵すらも無事であるかは分からないのだ。

 いつの間にか明と暗の割合が反転し薄明るくなった談話室の中で、アルクゥの苦悩だけは汚く澱んだままだった。

 じきに夜は朝に塗り替えられ空気は白々と輝きを宿し青空を照らすのだろう。光明の一筋すら見えない自分が理不尽ですらある。

 ――文句のつけようがない置土産だ。

 見事とベルティオに喝采を贈るべきだろうか。タイミングと手口を考えればあの男の仕業であることは疑いようがない。

 出会ったときベルティオはグリトニルに拠点を欲していた。

 様々な国から船が訪れるエルザ港は都合の良い場所だ。逃げるにも、何かを用意するにも事欠かない。

 ティアマト内での活動に限界を感じて、あらかじめエルザ港に備えをしてあったのだとすれば。そうでなくとも自身に心酔する部下を送り込んでいたとするならば。死に際に報せを飛ばすだけでいい。

 組んだ両手に力を込める。両方の手の甲に赤い爪痕が彩る。

 ――お前に厄があらんことを。

 最期に放たれた何の力もないはずの無声の呪いが何度も耳の奥で蘇った。

 呪縛されたように動き方を忘れてしばらく、小鳥の声が弾み始めた頃、アルクゥは廊下を歩む硬い足音を耳に拾う。だらしなくソファに沈んだまま扉口を見詰めていると、早朝に似つかわしくない黒尽くめの魔女が顔を出した。


「おや、暗い顔をしているね。何かお悩みかな」


 愛嬌を振り撒く顔に放っておけと不穏な視線だけを投げさっさと正面に向き直る。

 しかし足音は去るどころかアルクゥを回り込むように近付き、ガルドは対面に腰を下ろした。

 これ以上の不作法は見苦しいだけだとアルクゥは軽く挨拶を返し立ち上がった。手も足も冷えで痺れている。


「用事かな?」

「ええ。失礼します」

「そう急かずとも霧は逃げないよ」


 動きを止めたアルクゥに「雨が降ろうが風が吹こうが」とガルドは謳い三日月に口を歪ませる。


「何の力もない魔女と侮ってくれるな、ワタシの価値は途方もない生に寄り添う数多の繋がりだよ。耳を澄ませば色々なことが聞こえてくる。遂に他国にまで魔手が及んだようだね」


 ガルドは頬杖を突き人差し指でこめかみを叩きながら訝った。


「もしかして。行くつもりだとか、言うのではないだろうね?」


 見返す瞳に返事を読み取りガルドは肩を竦めた。


「とんだお人好しだ。コルネリウスと被るよ。流石は師弟だ。けれど止めておきなさい。他国の事情だ、あちらはあちらで片付ける。わざわざ出向いてやる必要はないさ。お誂え向きにもエルザ港には聖人が……ええと、確か名前は」


 名の類似、令嬢が死んだとされる時期、アルクゥが頑なな顔をしている理由。アルクゥの素性に至るガルドの思考は手に取るようだった。何かに気付いた様子で口を閉ざし探る視線を寄越すガルドに別に隠すものではないと頷いた。


「前の貴女はご存じだったはずです」

「まったく意地悪を言う。そうか、キミが……でも母君がいるじゃないか」

「戦いとは無縁の人です」

「ふうん、母娘で随分気性に違いがあるのだね。キミが表向き死んでいることと関係があるのかな」


 軽く目を細めると「詮索は止そう」と両手を体の前に出して苦笑する。


「だとしてもキミは既に身内ではない。黒蛇のまとめ役を殺した後で、深読みしたくなる気持ちもわからなくないが、キミのせいだとは決まっていない」

「それは……」

「行かなかったとして、誰かが責めるわけでもないよ。それは即ち、誰もキミに期待を寄せてはいないことを示している」

「それでも」

「英雄であるがゆえに?」

「私はそんな大層なものではありません」


 ゆったりと背凭れに寄り掛かったガルドは足を組み膝頭を両手で包む。


「キミは英雄の呼称を否定する。ならば、キミはワタシやパルマのような一介の魔術師にすぎないのだろうよ。華々しく大衆を助ける義務は負わない」


 ガルドは行くべきではないと繰り返す。端から無視すれば良いのに足と止め耳を傾ける自分に嫌気が差し八つ当たりのように唸る。


「何を企んでいるのですか」

「企む?」

「貴女は善意で人を引き止めるような人間ではないでしょう」


 数度瞬いた紫色の目は苦笑に彩られた。


「どうもキミの中でワタシの評価は最悪らしい。その……参ったな。これでも恩義を感じているのだよ。代わりに復讐を、ありがとう」

「代理で動いたかのように言われるのは酷く不愉快です」

「わかっている、わかっているから。そうやって年寄りを脅すものではないよ」


 ガルドは疲労気味に溜息を吐いて立ち上がった。


「転移の目印アンカーは? 船で渡るわけじゃないだろう。ケルピーは海面を走れないし」

「あります」

「それなら水晶をあげよう。血の媒介には劣るけれど純度は高い。転移に必要な魔力は白墨で書いた場合と比べて三十分の一ほどだ。ついでに老いぼれ隠者でも呼び出すかね。陣を書く手伝いをしてもらえばいい」


 恩義は他人に返させるに限る、とアルクゥを手招く。態度の転身に戸惑いながら大人しく後ろに続いた。


「手助けしてくださるとは、思っていませんでした」

「代わりに戻ってきたら精霊の話をしておくれね。ラジエルでのことはマニの小僧っ子に喋らせたけれど今一抽象的で」


 道具を受け取ったアルクゥはひらひらと手を振るガルドに一礼して建物の裏手に向かった。

 何事かと近付いてきたケルピーを観客に黙々と作業を始める。雑草を払い小石を除け地面を均して陣の土台を作った辺りで空に陽が満ちる。胸が痛くなるほどに澄み切った朝だった。

 几帳面な円を書き終えたとき、身なりをきっちりと整えたメイが到着した。それでもガルドから叩き起こされたのは目の端に溜まった涙から察せられる。メイはアルクゥと挨拶を交わすと砕いた水晶が入った袋を一つ手に取り陣の書き込みに加わる。


「朝早くから申し訳ありません」

「構わないよ。どこに行くつもりだい?」

「故郷にやり残したことがあって」


 いざ口にしてみると酷く後味の悪い言葉だった。

 ――与り知らぬところで起こり、終わればよかった。

 そうすれば後に知って悲しみ後悔するだけで済んだ。ガルドの言った通りだ。アルクゥはエルザ港を故郷としているが、そこにアルクゥが求めるものは何も残っていない。この拠点だけが帰る場所だ。

 知れば引き返せないものがある。善意のテネラエを恨む気はないが少しだけ憎たらしい。


 朝日が熱を持ち始め、術式の書き込みが粗方終わる。一度体を伸ばして固まった筋肉を解したアルクゥにメイは思い出したかのような相槌を返した。


「ふうん。故郷かあ」


 仕上げを書き込む片手間のように言った。


「じゃあ、そんな顔をするものではないね」


 ネリウスから引き継いだ目印の座標を書き込んでいたアルクゥは手を止めてメイを見る。隠者は手元に集中しているせいかどこか散漫に続けた。


「錦を飾るんだろう。堂々と胸を張って郷里の地を踏みたまえよ。アルクゥくんは強くて美しいのだからね。歓迎されるに決まっている」


 茫然としているとメイは視線に気付き顔を上げ、ふふっと口髭をそよがせて笑った。


「口説いてないよ。僕ももう歳だからね」

「……わかっていますよ」

「そう? 事情は知らないけれど、やりたいようにやればいい。キミやマニくんみたいなのは走るだけで勝手に道が開くものだから」


 無責任な言葉なのにメイが妙に自信を持って言うものだから顔を顰めるべきか笑うべきか分からない。折衷案として軽く眉を寄せていると不安定な間隔での足音がのっそりと近付いてきた。


「俺が……なんだって……?」


 ほとんど瞼を閉じたマニはメイを見て少しだけ目を開く。


「何してんだァそのオッサン」

「マニはまだ寝ていていいですよ」

「なーんか、騒がしくってよォ……これ、何だ?」

「旅支度です」

「あー……おう、旅か。旅な。気ィつけて行って来い」


 そう言って覚束ない足取りで行ってしまった。間を置かずパルマが顔を出す。恐らくガルドから事情を聞いてマニを叩き起こしこちらに誘導したのだろう。お陰で送りの言葉が聞けた。


「ありがとうございます」

「アイツは連れて行かないのね」

「はい。護りを任せてもいいでしょうか」


 拠点を囲む結界の主はヴァルフが不調の現在アルクゥに譲渡されている。手を差し出すとパルマは思いの外素直に了承してくれた。


「長くは任されてあげないわ。さっさと戻りなさい」


 不器用で優しい言葉に笑みを零すと、それを不服そうにしながらも毒突きはせず転移陣を見下ろした。


「最低でも夕方までは魔力を込めなさい。マニを頼らないのなら貴女は一人だもの。動けなくなっては意味がないわ」

「わかりました」

「私は一緒に行ってあげられるほど強くはない。足手纏いになる。それに貴女の為に全てを投げ出せるわけでもないもの」

「今でも充分助かっています。それに私は一人で大丈夫ですから」

「恋人の一人や二人作っておくべきだったわね。貴女に全部を捧げるような」


 「悪女」と呟いたメイをパルマは射殺すように睨み付け、その視線を横にずらす。ケルピーが静かな水面の瞳でパルマを見返した。


「ケルピーを連れて行きなさい。アレは賢いわ。いないよりましでしょうから」

「頼んでみます」

「命令しなさいよこの甘ったれ。じゃあもう行くわ。見送らないわよ」


 言いたいことを言い終えたのかあっさりと踵を返す。


「あの、ヴァルフには」

「馬鹿ね。ばれてるわよ」

「え?」

「紆余曲折の果てにお師匠様が眠らせたわ。騒ぎそうな護衛もね。弱ったヴァルフなんて……ちょっと危なかったけれど。その程度よ」

「そう、ですか。……いってきますと伝えておいてください」


 会えば行きたくなくなるのは目に見えている。せめて言付けをパルマに託そうとしたが、パルマは鼻で笑って拒否した。


「嫌よ。戻ってきた後に行ってきましたって伝えれば? それで一発殴られてあげればいいのではないかしら」


 その時は治療してあげる、と完全に背を向け立ち去って行く。

 メイもまた転移陣の完成後、物言いたげな目を隠すように笑って帰っていった。パルマとのやり取りでアルクゥが何をするのか漠然と察した様子だったが、それを口にせず、引き止めずにいてくれたことはありがたい。


「ネロ。私と一緒に来てくれる?」


 たった一匹、傍に残ったケルピーに尋ねる。目印があるのはエルザ港の南方の町だ。それに加えてエルザ付近には魔物が集まっていると予想できる。怯えずに立ち向かえる速い脚がアルクゥには必要だった。

 ケルピーは一度否定するように大きく頭を振り、何事もなかった様子で蹄を鳴らして近付きアルクゥに顔を寄せた。

 連れ合いがいるというだけで、どれほど心が軽くなったかわからない。

 アルクゥは眉を下げてケルピーを抱き締め、そして転移陣に魔力を注ぎ終わる夕刻を待ちグリトニルへと跳ぶ。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 時はしばし遡る。


 ぐんと意識が持ち上がる感覚にふっと目を開ける。

 覚醒は唐突だった。眠気を遥か遠くに置き去りにする目覚めは、たいていは良くないことが起きる前触れだ。

 重たい腕を持ち上げて頭を掻き毟ると部屋の空気がぎくりと揺れた気がした。そこでようやくヴァルフは誰かの気配に気付く。本調子であれば扉のノブに手が掛かった時点で起きるのに、辛うじて歩行かのうな体たらくの今は感覚すら駄目になっているらしい。

 妹弟子か、それともマニか。

 どちらかだと決め付け顔を向けたヴァルフは、鶏を持つ手付きで小さな翼竜を抱えているガルドを目にしてしばし呆然とした。


「ババア……お前、俺の部屋で何して」


 不味いと叫びだしそうな顔をしたガルドはいそいそと窓辺に走って鍵を開ける。大人しく運ばれる小翼竜の脚に装着された筒を見付け、何となく嫌な予感がしたヴァルフは思わずサイドテーブルにあったナイフを取り投擲する。ガルドの細い足に牙を剥いた切っ先は直前で叩き落とされた。パルマの操る小さな氷のゴーレムが白い冷気を発しながらヴァルフに圧し掛かる。

 もがくことが無為に思える重さに小さく呻いたヴァルフの目の前で、小翼竜はガルドの手を離れ飛び立った。

 一向に返事を書かないヴァルフから解放された喜びで、瞬く間に青空の黒点となり雲間に消える。ティアマトを端から端まで翔けても二日かからない最速の郵便屋は何者かへの手紙を携えて行ってしまった。

 ヴァルフは歯を食い縛り手になけなしの魔力を集めて思い切り殴りつける。

 砕け散ったゴーレムはガルドに突き刺さる前に空気に溶けて消えた。パルマが激昂する。


「何なの貴方! お師匠様を殺す気なわけ!?」

「テメェらこそ何のつもりだ。物取りみてぇにこそこそしやがって」

「物取りですって? よくも言ったわね……!」


 パキパキと氷が膨張して新たなゴーレムが形成される音が室内に満ちる。

 ガルドが慌てて二人の間に割って入った。そこだけ切り取って見ると喧嘩を収める年長者の図だが事態の発端である張本人だ。


「待て待て、二人ともどうしてそんなに血の気が多いかね。冷静になって話し合おうじゃないか」

「テメェのせいだろうが」

「ワタシの非はちゃんと自覚しているよ。事情を話そう。ほらパルマ、下がりなさい」


 渋々ながら下がったパルマに満足げに頷いたガルドは手近な椅子を引き寄せ、気楽な様子で鍔の広い魔女帽子を脱ぐ。指先で帽子を遊びながら「手紙はね」と口火を切った。


「王都に急用があってね。ゴーレムを使っても良かったけれど、翼竜の方が遥かに早いから悪いけど貸してもらった」

「お前が王都の人間に用事? 何を企んでいる」

「やれやれ、キミたちは本当にワタシが嫌いなのだね。大丈夫さ。悪い内容ではない。聞きたい?」


 人差し指に帽子を引っ掻けくるくると回しながら揶揄する紫眼を向けてくるガルドに、ヴァルフは苛立ちながらも頷いた。真実を話すとは限らないが、判断の材料にはなる。

 焦らすようにたっぷりと時間を取ってから、いざ口を開いたガルドの指から帽子が飛ぶ。視界を塞いだそれを反射的に受け取ったヴァルフが顔を顰めたとき、

 

「キミの失った部分を知る人間が戦地に向かった。喪いたくなければ急ぎたまえ」

「は?」

「哀れな同類に対する勧告のようなものさ」


 瞬間、真っ黒な帽子が髪のように解けてヴァルフをベッドに縛り付ける。


「っヒルガルド……!」

「分かるかな。宛先はこの司祭殿だよ。キミに手紙を送った人間だ」

「アルクゥはどうした!」

「旅支度の最中だ。本人の希望により……ということではないけど、邪魔されたくなさそうだったから、キミに干渉はさせないよ」


 ガルドは指先を動かして帽子の拘束を操りヴァルフの口を塞ぐ。

 机を探りサタナからの手紙を取り出して小首を傾げた。


「おや、真名と姓まで記してある。誠実な手紙だね。キミと司祭殿との関わりは薄かったのだろう? なぜ記憶を戻す手伝いをしてくれなんて、わざわざ手紙なんてしたためたのだろうね」


 拘束を噛み切ろうとしても口の中で不快に擦れるばかりだ。

 視線で人を殺したいと思ったのは初めてだ。今ばかりは石の聖女の魔眼が欲しい。

 ――アルクゥはどこに行くつもりだ。ようやく穏やかな暮らしに戻ると思ったのに。

 怒りの中に混じる怯えを察したのか、ガルドは僅かに憐れみを込めて目を伏せた。


「エルザ港で霧が出たらしくてね。責任感の強い子だ。止めようとはしたんだ。本当だよ。何と言っても恩人だから。耳を貸してはくれなかったけど」


 徒労を知った眼差しで壁を透かした先を見遣る。方向は拠点の裏手だ。以前そこに転移陣を書いた覚えがあった。ヴァルフはネリウスがアルクゥをグリトニルに送っていったときのことを思い出す。


「記憶を失った者の気持ちは痛いほどに知っている。司祭殿は来るだろうさ。それが何の慰めになるのか、役立たずで終わるのか、ワタシにはわからないけれど」


 アルクゥを酷使して抜け殻にまで貶めた男だ。ヴァルフは永劫サタナを許す気はない。

 ――しかしアルクゥを幾度となく助けたのも事実なのだ。


「とは言え、来たとしても取引を持ちかけられたら、こちらは頼むばかりで有利に運べる材料がない。キミが司祭殿の鼻先にぶら提げられる餌を持っているというのなら別なのだけれど……」


 ガルドは物憂げに息を吐き、そろそろ眠りたまえよとヴァルフに暗示を掛ける。魔術に対する抵抗力は体に眠る魔力そのものだ。ほとんど枯渇した状態にあるヴァルフには暗示を跳ね除ける力はない。

 意識を睡魔の暗闇が覆っていく。


「必ず、起こせ」


 ヴァルフは緩んだ拘束の隙間から精一杯の声で唸る。呂律は怪しく、言葉になったかどうか分からないが、瞼が閉じる寸前にガルドが頷き返したのをヴァルフは確かに見届けた。


 

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