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精霊のシジル  作者: 染料
六章
110/135

第百九話 自由

 血濡れた手の平から白い小鳥が飛び立つ。

 角張り彫刻じみた翼を懸命に羽ばたかせ、鳥影が夕闇の空に吸い込まれ星の一つに紛れてしまうまで見届けたベルティオは、腹を庇いながら止めていた歩みを再開した。

 一歩一歩に鋭い痛みを返す傷からは絶えず命が赤々と流れ落ちる。白衣が吸いきれなかった分は落葉の堆積した地面に滴り、暗闇の中でぬるりと残光を弾いていた。

 霞む目で血痕を見下ろして思わず勿体ないと呟く。これほどの量があればいい媒介になっただろうに。

 そう考えたベルティオは笑みを零す。

 死に瀕してもこんなことを考える。やはり自分は生来の魔術師であったのだろう。それが何より誇らしい。

 真理に至るには未だ遠い。しかしそれでも自分は誰も見たことのない高みへ辿り着いた。誰よりも偉大な功績に語り部は居らずとも世界は、消えた愛しい女は知っている。

 シリューシュはわかってくれた。

 だからこそ崩れ行くあの部屋から自分を助けたのだ。そうに違いない、と断じることで生きる気力が湧き上がる。

 ベルティオは懸命に重い足を引き摺った。しかし意に反して血は重たく地面を濡らしていく。

 早くこの場を逃げ延びて治療をしなければならないと頭で理解していながらも体は言うことを聞かず、ベルティオは木に背中を預けずるずると座り込む。飛びかけた意識を叱咤して傷口を鷲掴み治癒を試みるが出血の勢いを抑える程度にしか効かない。

 血を流し過ぎた。少し休まなければ。

 浅く速い呼吸を整えていると耳が枯葉を踏み砕く音を拾った。

 薄暈けていた意識が疾風の勢いで体に戻り、次の瞬間悪寒が全身を駆け巡る。

 足音は近付いてきている。冷や汗がどっと噴き出す。

 あれは――死神の足音だ。

 直感した脳裏に不気味に光る双眸が掠めて体の芯から震えが走った。

 ようやく理解した。理解していたが目を逸らしていたと言うべきか。

 シリューシュは自分を生かしたのではない。自らの手を汚さず他人の手で裁かせようとしているのだ。

 ――彼女は私に死ねと言っているのか。

 否、それ以下だ。もはやシリューシュは自分に興味の欠片も抱いていなかったのかもしれない。自ら止めを刺すことなく他人の手に終わりを委ねたのがその証拠だ。

 血に濡れた両手を目の前に掲げる。

 何も残っていない。

 ――このままでは何も残らない。

 底知れない空虚に愕然とするベルティオを、怪物のように佇む黒影の木立ちは冷ややかに見下ろし、時折風と一緒になって体を揺すって嘲笑う。お前もここでお終いだ、と。

 見付からぬよう殺した息も虚しく、暗闇から浮かび上がるように金色の目が現れる。

 それは永遠の死をもたらすものに相応しく透徹した温度のない眼差しをしていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「――いた」


 そう遠くない場所にベルティオは座り込んでいた。

 遠目に生死は分からず、間近に近付いてようやく呼吸の起伏が確認できる。死相が浮いた顔で上目にアルクゥを睨む様子は幽鬼のようだ。

 もう何もできまいと近付こうとしたアルクゥをサタナが制し、小石を拾い上げ軽く茂みに投げ込む。血の臭いに惹かれ潜んでいた小さな魔物たちは泡を食って逃げ出していった。獲物を逃した悔しさからかしばらくの間キャンキャンとかん高く吼える声が聞こえていた。


「捕まえますか」


 ベルティオは罪人だ。

 殺して全てが終わるならそうするが、多くの人間を唆し国を引っ掻き回した禍根は残り続ける。それらを一掃するには情報が必要だろう。特にこの捕縛が容易な状況に置いては一個人が私情で裁いていいとは考えられず、アルクゥは苦く思いながらもサタナに伺いを立てる。


「捕らえておくには不安要素が多すぎます。それに、手遅れでしょうから」


 意外に思いながらサタナの治癒魔術ならと口を開きかけたアルクゥだが、すぐに思い直して同意の言葉に換える。頭の良い人だ。その明と暗を引き比べての判断ならば何も言うまい。

 一息に終わらせてしまおうと黒錆びの短剣に魔力を込めたときサタナの腕がベルティオに近寄ろうとするアルクゥを差し止める。気が変わったのかと振り仰ぐとサタナは冷淡に言い放った。


「放っておけば死にます」

「それは……でも」


 アルクゥは困惑してベルティオを見下ろす。

 喉を切らんばかりに浅く速い呼吸は今にも途切れそうで、失血のせいか体は小刻みに震えている。

 罪人の末路には相応しい。

 束の間アルクゥの胸中に暗い愉悦が滲み、すぐに自分に対する不快感に変わる。

 サタナの腕を体で押し遣るように除けて短剣を握り直すと、制止の手は更に追い縋った。


「死に際の魔術師は危険です」

「このような状態で?」

「貴女のその性格は好ましく思いますが、今は止めておきなさい。じきに彼は死ぬ。それまでに苦しむ時間など、殺された者たちのそれと比べるとほんの些細なものでしょう」


 サタナは割り込むように前に出て、自身の背中で返す言葉に窮するアルクゥの目からベルティオを隠した。今更、誰かの死を見届けることが辛いわけがないだろうに。


「私たちも」


 アルクゥは短剣を収めて深く息を吐き出し、サタナに言うのは酷だろうと先の言葉を紡がず捨てる。

 ――私たちも沢山殺したでしょう。

 それならやはり最期には苦痛が待ち構えているのだろうか。

 つまらない想像に震え上がるほど幼くはない。だがベルティオの有様はその実現を約束しているかのように生々しい。


「卑怯な女だ」


 サタナの向こう側から聞こえた声に肩を揺らした。顔どころか姿さえ見えないのに死体に見詰められたような冷たい感覚が背筋に落ちてくる。

 風が追い打ちのように体を撫でた。林の奥では夜と闇が手を取り合いひとつ数えるごとにこちらに向かって忍び寄ってくる。


「同情を装い、憎たらしい敵を自らの手で討って安心したいんだろう。素直に殺しておきたいと言えばいいものを、つくづく女は外面を保たねば呼吸さえ出来ないように作られているんだな。まあ、いいさ。私を殺して満足しても、殺さなくて苦痛を与えても、どのみちお前が最低の生き物であることに変わりはない」


 死人の無責任な言には何の価値も重みも感じられない。罵倒がアルクゥの心を暗くすることはないが、血が泡立つ異物音の混じった声音だけは寒気立つ。ベルティオとの距離は大きく歩いて五歩程度、前にいるサタナはもっと近い。その位置関係が気になって服を引こうと手を伸ばすも、サタナがベルティオに応じたことで宙を彷徨うだけに留まった。


「恨み言を向ける相手が違うでしょうに。それで一人で死ぬ気分はいかがですか」

「は、は……お前はいつもと変わらず下衆だな。安心したよ」

「では見捨てられた気分は?」

「……黙れ」

「全て自分の身に跳ね返ってきたということですか」


 感慨の籠った呟きを攫うように風が吹き抜け、僅かに残る空の残照を追い立てていく。寂寥を呼び覚ます黄昏の風はしばらくの間吹き荒び、彼らが一時息つくように静まり返ったとき、ベルティオはその間を縫ってこちらに弱った声を絞り届けた。


「お前たちにも返ってくる。必ず。近いうちに」


 速かった呼吸が初めて止まる。以降は途切れがちになり、風の音にも似た音に変わっていく。


「心に留めておきますよ」

「そうした、方がいい。この世では、何が……起こるか、分からないからな。

 ――こんなふうに」


 不吉な宣告に嫌な予感を覚えベルティオを見ようと体をずらしたその時、溢れた閃光に目が眩む。

 咄嗟に目を瞑り首と胸元を腕で庇いながら後ろに下がるアルクゥの耳に何度か魔術の行使音が響く。数秒後、復帰した目に大きく踏み込むサタナの姿が映った。

 大きく袈裟に振り下ろされた白刃の行き先はサタナの背中に阻まれ見えない。

 ただ静かに散った赤い飛沫が終わりを告げていた。


 アルクゥは大きく息を吸って吐き出し肩の力を抜く。ようやくこれで終わったのだ。

 しかし下りた幕の内側にも些細な疑問は残る。

 特に最後の反撃は弱り切った体のどこから魔力を捻出したのか首を傾げるところだが、ベルティオを調べれば諸々の疑問の一部なりとも解決するのだろう。そしてそれはサタナたちの仕事であってアルクゥは以降関与することはない。

 にしても、とアルクゥは気まずくなってサタナの背から目を逸らす。

 反撃があったのは忠告通り、その上最後の詰めを任せてしまった。

 声を掛けられないまま血の滴る剣を提げたままベルティオの死体を見下ろしているらしいサタナの様子を窺う。

 風が夜の訪れを哭いている。

 空はすっかり藍に覆われていた。

 立ち込める冷気に外套の襟元を掻き合わせて体を縮めたアルクゥは、堆積した枯葉に重みのあるものが落ちた音を聞き目で出所を探す。


 サタナの足元、やや手前側にぽつりと黒が転がっている。


 枯葉や夜の陰りに決して入り混じることのない光沢を放つそれに近付き、死体が発しているらしい鼻を覆うほどの死臭に顔を顰めながら覗き込んだ。透き通った黒の表面は削られたように荒く、拾い上げると荒々しい部分は断面だとわかる。指で触れた裏側はつるりと滑らかな半球形をしていた。宝石だろうか。ほんの僅かだが魔力が感じられた。

 感触を覚えるように指で遊びつつ別の破片を探す。

 同じ形のもう片方があれば――美しい黒色の珠になるだろう。

 アルクゥはふと珠の欠片を手の平に乗せ直して見下ろした。よく観察する前に強く吹き渡った風が手から欠片を奪い去る。

 落ちたそれを拾い直す気にはなれなかった。これだけ風が強いのに、気付けば辺りには耐え難いほどの悪臭が立ち込めている。

 サタナが振り返る気配があった。アルクゥは視線をゆっくりと上げていく。

 黒一色の聖職衣を下から辿って見上げていき、その表情を目にしたとき、アルクゥはたった一歩の距離を詰める間に短剣を抜き払い柔らかい首に狙いを定めていた。

 切っ先が突き刺さる寸前に止め得たのは一拍遅れて追いついた理性が制止をかけたからである。その結果としてアルクゥはサタナを殺さずに済み、殺されずに済んだサタナはアルクゥの腹を蹴り飛ばした。

 息をしようとして激痛が走ったことで一瞬飛んでいた意識が戻る。

 胸部は酸素を求めて痙攣じみた動きを繰り返すのに僅かにしか空気を吸えない。服の内側に提げていた首飾りが投げ出されている。横たわるアルクゥはそれを強く握り込み、地に顔を擦り付けるようにして方向を変えサタナを、正しくは彼に寄生するものを睨み付ける。

 アルクゥの尖った瞳孔に映り込むサタナに重なる薄い影。唸り声と共に口から火がこぼれた。


「ベル、ティオ……!」

「嫉妬でデネブの魔女を乗っ取った女のくだらない研究と侮っていたが、ここに来て役に立つとはね。本当はこれよりキミの方が具合が良かったんだけど」


 結構痛んでいるな、とサタナの声でベルティオは言う。アルクゥは腕に力をこめ体を持ち上げようとして失敗し、強かに顔を打つ。喉から尋常でない低い威嚇の音が漏れた。


「シリューシュにやられた傷か? よくもまあ……私ではまだ上手く動かせないな。しばらくは療養か。その間に時間を掛けてこいつの頭の中でも譲り受けることにしよう。破綻した人格まで受け継ぐのはごめんだけど……何だ?」


 何を見つけたのかベルティオは目を丸くし、堰を切ったように笑い始めた。酷く下品な笑みだ。外面はサタナのままでも人格が違うとこうも印象は変わるのか。


「そうか、こいつ……はっ、あはははっ! 血の通っていない司祭様も人の子だったか! はは、可哀相な奴、本当に可哀相な奴だよこいつは!」


 ひとしきり笑い終えたベルティオは弓なりを描いたサタナの目でアルクゥを眺め、ゆっくりと回り込むように歩きはじめる。視界から姿が消え爪を立てて上体を持ち上げようとして再び失敗に終わる。地面を掻き毟る爪が音を立てて剥がれた。


「ああ、恐ろしいな。早目に潰しておこう。小娘が芋虫のように転がっている内にねえ」


 声が背後に回り、手で庇っていた脇腹に足が掛かる。

 その振動ですら激痛が走り体を丸めるアルクゥをしばし弄ぶように足先で突き、やがて飽きたのか体重を乗せた。

 目の端で剣が振り上げられていく。歯を食い縛り無理やり痛みから顔を背けたアルクゥは生じた違和を目で追い掛けた。

 左手で振り上げられた剣は、真っ直ぐサタナの喉へと向かう。

 それを右腕が受け止めた。

 刃は腕半ばまで深々とめり込んでいる。薄暈けた影のベルティオは痛みよりむしろ滴る血に辟易している様子だ。血は力を含んでいる。幽世の住人となってはその一滴すら猛毒だろう。

 アルクゥは熱い呼気を吐き出し、金色の目を滾らせる。地面に鋭利な藍色の爪を食い込ませ足の下から抜け出した。血にかまけていたベルティオは一瞬引き比べるようにアルクゥと意に沿わぬ左手を見る。決定的な隙だった。

 飛び掛かったアルクゥの手がベルティオに届く。

 頭を鷲掴みにして一気に引き寄せた。獲物を捕らえた昂揚に脇腹の痛みは頭から吹き飛び、犬歯を舌でなぞって笑う。

 憑代から剥がされまいとするベルティオはアルクゥの腕を掻き毟るが鱗の前では無意味だ。頭、胴体と離れていき、最後の指先が抜ける段になって最後の抵抗とばかりにサタナの頭を抉るように掴むも、完全に離れる。サタナは糸が切れたように倒れた。

 アルクゥはベルティオに目を移す。

 怨念の全てを込めた澱んだ目でこちらを睨みながら唇を動かした。

 憑代を失った死霊に声はない。ただ口の動きから言葉を推察するのみだ。

 ――お前にわざわいがあらんことを。あちら側から祈っている。

 アルクゥは首を傾げ本心からの疑問を投げた。


「あちらに行けるとでも?」


 瞬間、意味を悟ったベルティオの顔が恐怖に歪む。


「これは返します。貴方のものだ」


 そして初めて人を殺したときのように首に短剣を突き立てた。

 裂けた傷口を夜明けに似た炎が縁取り、影を鮮やかに塗り替えていく。音も立てずに燃え上がったベルティオは、灰すら残さず世界から消えていった。




 龍の残滓が右腕の鱗を残して消え、煮え滾った怒りの中から戻ってきたアルクゥは痛みに呻きながらサタナの傍に跪く。

 右手の傷を力一杯握り血止め程度の治癒を施してから、倒れたままの無理な体勢を仰向けに直す。白皙の顔は彫刻のように眠っている。口元に手を翳して息を確認してアルクゥはようやく不安を和らがせた。

 自身の傷には手を当て痛みを緩和する応急処置を取る。しばらくの間体を丸めて治療を続けていると、深く息を吸い込む音が聞こえた。

 どうやら起きたようだ。アルクゥは考えながら重たい瞼を引き上げる。


「大丈夫ですか」


 第一声は足に向けて言う形になる。

 衣擦れの音すらなく立ち上がっていたサタナを難儀しながら見上げると、琥珀色の目が感情を窺わせない色で落ちてきていた。

 アルクゥは痛みに深く息を吐き出し、顔を下げて再び瞑目してその言葉を受け入れる。


「――貴女は誰ですか?」


 果たしてどうしたものかと瞼の暗闇で思案に暮れるふりをした。

 見知らぬ他人と状況を前にサタナが痺れを切らさない程度の時間を使い自分を誤魔化したアルクゥは、目を開けて体を労わる速度で立ち上がる。

 上から下まで観察する視線を感じながらベルティオの死体を指さす。


「あれを魔物に食べられないように保護してください。それから移動しましょう」


 薄い笑みを張り付けた表情の中にある疑り深い眼差しに溜息を吐く。


「ヤクシさんはご存じでしょうか」

「私の護衛ですが……貴女は彼の知人なのでしょうか」

「護衛。それは良かった」


 ヤクシに説明してもらうべきだとアルクゥは背を向けて体を引き摺るように歩き出す。

 来た道を半分程度引き返したところで死体の保護を終えたのかサタナが追い付いてきた。何度か質問があったが全て黙殺する。喋る気にはなれなかった。

 じきに明かりが見えほっとしたアルクゥは足を速めるが、急な動きに痛みが走ってしばし体を曲げて堪える羽目になった。首飾りが首筋を滑り外れそうになる。


「その首飾りは?」


 宝石に興味を引かれたのか、近付いてすら来なかったサタナが急に寄ってくる。答えることすら億劫だったが、今までの質問とは違い自分の口からでも信じられるものだろうと返事をした。


「いただいたものです」

「誰から?」

「さあ、誰でしょうね」


 不思議そうに首を傾げ続きを促すサタナを見やり、亀にも劣りかねない歩みを再開しながら呟く。


「名前のない贈り物でしたから」

「気味が悪いと思わなかったのですか?」

「後から申し訳ないとは思いました。壊してしまったので」

「どこも壊れていないようですが」

「前は呪いじみた守護がかけられていたのです」

「随分と重たい贈り物ですねえ」

「いつかお礼を申し上げられたらと思っています」

「しかし相手は名無し、と」

「はい。困ったことに」


 他愛ない会話がぽつぽつと続きアルクゥは奇妙な気分に陥る。

 もしかするとこれで良かったのではないだろうか。

 事情はどうあってもアルクゥは厄介事であり、サタナは負い目から来る感情によりアルクゥに手を差し出すことを自らに課している様子だった。それによりどれほどの損をしたか今となっては尋ねても答えられないだろうが、決して少なくはないだろう。

 サタナのしがらみは取り除かれた。

 それにより得た自由の価値が失った記憶に及ばないのはわかっている。それでも多大な不益をもたらしたアルクゥがこれからサタナを縛ることはない。


「おかしなことを尋ねるようで申し訳ないのですが」


 アルクゥは大きくなってきた明かりを見つめながら「何でしょうか」と小さく返す。ふと温かな感覚があり、見ると脇腹の上に手が翳されていた。じくじくとした意地の悪い痛みが一気に遠退いて楽になる。

 立ち止まって見上げたサタナはどことなく困惑した表情で、揺らぐ琥珀色の目にアルクゥを映していた。


「貴女は私の何だったのでしょうか」


 答えを告げる前に明かりの方から渋面のヤクシが駆け寄って来た。

 アルクゥとをサタナの間にある空気に訝しげな顔をする。アルクゥは合わせていた視線を千切り開き掛けていた口を苦笑の形に変え、ヤクシに事情を話した。切れ長の目が見開かれるのを確認して体の力を抜く。

 こうしてアルクゥの戦いは幕を閉じ、夜の微睡みに溶けていった。


 

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