第十話 まだ見ぬ終着
青年に引かれるがまま進んで来たので帰り道が不安だったが、煤けた石畳には誰かの血痕が道標のように続いていた。生々しい血痕は最初は小さく、道を辿るにつれて大きさを増す。
アルクゥは少し眉を顰める。
怪我人の予想はついている。盗賊と揉めたのだろう。出来れば鉢合わせたくないが――。
アルクゥは無意識に足を速める。
あれだけの惨状だ。盗賊を殺したという免罪条件を差し引いても無実では通らないだろう。大きな騒ぎになるのは避けられない。青年はアルクゥが犯人だと気付くだろうし、それに対して口を慎む道理はない。むしろ積極的に情報を提供するに違いなかった。
そうなってしまえば面倒だ。
日取りを早めて街から逃げるか――それとも青年を殺すか。
額に手を当てる。
頭は焼けるくらい熱いが芯の方は酷く冷えている。この暴力的な感情が興奮による一過性のものか、完全にそうなってしまったのか今は分からない。
裏通りの入り口付近にまで戻ると、民家の壁に背を預けて座り込む青年の姿を見付け、アルクゥは苦い気分で近寄った。
目の前に立つと垂れた頭が僅かに上がるが、それ以上の動作を続ける余力は残っていないようだった。
膝を突いて目線を合わせる。相手の目はアルクゥを見もしない。死の淵を眺めているのだろう。腹に深々とナイフが突き刺さっている。
手遅れだ。
都合が良い。そう思いこんで軋む胸を無視する。看取る義理などないので立ち去ろうとすれば、嗄れた声が呼び止めた。
「生き、てたのか……あのゴミ共は……どう、なった?」
「死にました。私が殺した。お陰で逃げなくてはなりません」
「そう、かよ」
青年は苦しげに息を吸い込み、血を零しながら笑った。
「――悪かった」
直後、吐き下すように大量の血液が口から流れ出る。口内に溜まった血がゴポゴポと鳴っている。それを契機に意識を手放し始めたようで、口は頼りない開閉を繰り返すだけになった。
「私は……謝ってもらいたくなんてなかったのに」
光が消えかけた瞳がアルクゥを見ている。
哀れに思って口の血を袖でふき取る。ふと弱くなるばかりだった呼吸に微かな音が混じった。耳を寄せると青年はうわ言のように何か呟いている。
「あ……おく、に……たて、もの……逃げ」
「建物?」
「あいつら、さっきの……近くに、う……馬……魔物が」
全てを言い終えず、青年は目を開けたまま事切れていた。手を翳して瞼を閉ざしてやると、あれほど苦しげだったのに眠っているのとそう変わりはない。
アルクゥは唇を噛んで立ち上がる。
道を引き返そうと踏み出したとき、後ろで喉を擦るような悲鳴を聞いた。
振り返ると襤褸を纏った、男とも女ともつかない小柄な人間が口をぽかんと開けている。
反射的に身を翻して走り出した。
人殺し、と喚く声に走りながら振り返る。それは叫びながら素早く遺体の懐に手を差し込み、呆れるほどの速さで何かを盗った。直後に道の先から飛び出して来た衛士にアルクゥを指さす。
痛めつけられた体を必死に動かし、追いつかれる前に惨状の現場へと戻った。
時間がない。アルクゥは建物の影や空き家の中を覗き込む。青年の言葉が真実ならば、この近くにケルピーがいる筈だ。
「いた……!」
大きな空き家に、柱に繋がれたケルピーがいた。
なし崩しに所有者となっていた御者は、青年の例を顧みれば安否が自ずと知れる。
注意深く近付くとケルピーは四肢を折って腹這いになった。グリフォンを倒したアルクゥを自分より上と認識している。
手綱を取ると大人しく立ち上がる。手を目一杯伸ばして頭を撫でた。微かに緊張が解れて擽ったそうに鼻を鳴らす。
「大勢の衛士が来る。逃げ切れますか?」
ケルピーは静かに瞬く。
「街を囲む外郭は高くて厚い。貴方の脚だけが頼りなのです」
近付いてきていた喧騒が恐慌に変わっている。盗賊の死体も確認された。もう時間はない。
ケルピーは唐突に脚を折り曲げ、水面のように光る瞳でアルクゥを見た。賢い魔物だ。もしかすると言葉が通じたのかもしれない。何よりも頼もしい仲間を得たアルクゥは、その背に飛び乗った。
その瞬間、ケルピーは魚の尾で地面を強く叩きつける。弾けるように立ち上がり、壊れた扉から外に駆け出す。
目の前にいた衛士を軽々と飛び越え、屋根の上に躍り出た。
「捕まえろ!」と叫ぶ声はたちまち後ろに流れていく。
「北へ! 今なら手薄だ!」
頬を切る風に負けないように叫ぶ。ケルピーは最短距離で表通り飛び出し、即座に進路を北門に取る。
北にはキュールよりも大きいワガノワ港がある。そちらに逃げたと思わせて後々の憂いを少しでも断ちたい。
直線状にある北門は、裏通りに衛士が流れたお陰でやはり衛士が少ない。普段なら詰所に五人はいるが、見える範囲には一人しかいない。
――突破できる。
速度を維持させたまま、門まで十数メートルと迫る。順調に行くと思った矢先だった。この騒ぎで人々が道から避難する中、おもむろに道の真ん中に歩み出てくる者がいる。
「ケルピー、壁を越えて!」
黒い聖職衣は見間違えようがない。司祭だ。何をする気か知らないが、向かっていくことを本能が避けた。擦れ違うのも恐ろしい。
大きく手綱を左に切る。
ケルピーは無茶な願いに応える姿勢を見せた。目算で建物の三階ほどの高さがある隔壁に突進する。アルクゥは壁の縁を睨みつけ魔力の刃で削り取り、その部分の魔除けを無効化する。
破片が飛び散り重く落下する中を、ケルピーは大きく上に跳躍する。
アルクゥは目を固く瞑った。数拍置いても覚悟していた衝突の痛みはない。恐々と目を開く。
視界一面に青空が広がっていた。
滞空中の騎上でアルクゥは呆然と下を見る。壁も人も遥か下だ。人々もまた呆然とこちらを見上げていた。
その中で異質にも、サタナはさも可笑しそうに口に手の甲を当て笑いを押し殺していた。視線は交錯したがこちらの正体を認識したかは不明だ。
司祭と目が合っていたのは刹那の時間で、風景はすぐ上に流れていく。
ケルピーは衝撃をうまく殺し地面に降り立つと、速度を落とすことなく北の街道を走り抜ける。半刻程疾走を続け、街道に人影を見なくなったときアルクゥは手綱を引いて速度を落とした。
「逃げ切れた……」
現実味を帯びない目標の達成にすぐには喜べない。ケルピーが魚の尾をパタパタと動かして警戒を解く。それに合わせて、ようやく緊張で詰めていた息を吐き出した。
道から逸れて森に入り、これから先に考えを馳せているとケルピーは首を巡らせてアルクゥを見た。どこに行くのかと問う眼差しに頷く。
「西のデネブに行きましょう。いや、行こう」
予定が多少早まっただけだ。何の問題もない。
「人に見られてはいけないから、街道は走れない。あなたに無理をしてもらうけど……」
ケルピーは蹄で地面を掻いて軽く走り出す。
人馬にとっては悪路な森の中を軽々と進んでいく。再び旅路が始まった。
きっと帰れる日がくる。それまでがんばろう。
アルクゥは手を握る。
敵に牙を剥く躊躇はしない。あとは力を振るった結果に押し潰されないようにすればいい。持つ力と同じく意思を強く持てば、大抵の難事は退けられる。
道中、水をたっぷり含んでいた曇天が決壊した。
ケルピーが嬉しげに嘶く。アルクゥも笑った。激しく地面を叩く雨に紛れて、一人と一匹は進んでいく。




