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精霊のシジル  作者: 染料
六章
109/135

第百八話 遥か遠く



 火照った頬を水滴が伝う。


 不意を打って一筋の涼をもたらした雫をアルクゥは目で追いかける。柔らかく砕け散った水は、跳ねて返った細かな飛沫は淡い七色に光り消えた。天を仰いでも、当然広がるのは汚れた高い天井ばかりだ。薄く開いた唇から吸い込む空気も渇いて熱い。

 それなのに今まで耳を焼いていた炎の音が聞こえない。

 静かだ。

 青空に現れた巨大な白雲を見上げるような深い不安とわけのない期待感に胸が疼く。終わりを受け入れ緩んでいた緊張の糸がピンと張りつめ、引き千切れそうなほど引き延ばされたとき――淡い雨が降り始めた。

 さわさわと音を立てて降り注ぐ雨は瞬く間に炎の熱を奪う。アルクゥの周囲に発現していた火種は煙る雨の向こうに消え去り、狼狽する内に解放を待っていた荒れ狂う魔力までもが冷まされていく。

 指揮下の力を失ったアルクゥは茫然とし、柔らかい雨に打たれながら振り下ろした手を所在無げに見る。この場の全員を殺める予定だった指先はいつの間にか火傷をしていたようで、冷たい雨水がしみるほどに心地良かった。

 力なく手を下ろしたアルクゥはサタナやベルティオと同じく、水を含み重く垂れた前髪の隙間から死にかけの友人を見詰める。

 仰向けに倒れたままのマニはどこまでも続くようであった雨音の静寂に呟いた。


「少し先に行ってくる」


 そうして呼吸を止めた。同時に雨が降り止む。

 アルクゥは目を見開き乗り出した体を、しかしながら次の瞬間には硬直させる。足元の水たまりが――部屋中の水がマニに向かって潮汐のように引いていく。水が生み出した微かな風に背中を押されて一歩、道に迷う子供のように踏み出した。短い黒髪が水を追うように靡く。

 虹を宿した水は球体状に結集し、マニの体を完全に覆い隠す。

 僅かに波立つ表面の先、水の動きに合わせて滲む姿がにわかに人の形を失った。

 溶けて暈けて揺らいだ姿は、橙を磨き上げたかのようなあかがね色に変じ、己を包む水と共に渦を巻いて変容していく。


 両翼が残る水滴を払い大きく羽撃いた。


 重たい風切り音が鳴り響き、その風を全身に受けながら、アルクゥは揺らがぬように足を踏み締める。息を呑みその全貌を目に焼き付けた。

 動きに合わせて微かに青や銀を帯びる銅色の冠羽、同色の体躯は猛禽に似て一分の無駄もない狩人の力強さを誇る。そのアルクゥの三倍はあろうかと言う大きな体高を黒い強靭な爪が伸びた太い脚が支え、足下を長く優美な尾羽が彩る。

 虹を従えた巨鳥だった。

 ただ鋭い瞳の色のみがよく知る友の橙を灯している。

 巨鳥はその瞳でアルクゥを一瞥し、彫像の如く不気味な停止を見せる白い巨人に向かって高らかに鳴く。

 巨人は宣戦布告とも取れる鋭い声を聴いてにわかに動きを思い出したようだった。無数の顔たちは酸欠に喘ぐように口の開閉を繰り返し、そこに己の手を差し入れて千切って飲み込む。巨鳥に食欲を感じていると悟りアルクゥはゾッとした。物欲しげに呻く声が耳に聞こえてきそうだ。


 しばらくの間、両者は相対したまま動かなかった。


 巨鳥は翼を膨らませ敵意を漲らせ、対する巨人は時折自分の手を噛み千切り空腹をごまかしながら巨体を揺らす。

 先に動いたのは巨人だった。文字通り銜えていた指をたどたどしく巨鳥に伸ばす。慎重な手付きでそっと首を握ろうとしたとき、動きを窺っていた巨鳥が床を蹴り巨人に襲いかかった。

 強襲に巨人は怯み、巨鳥はその隙に両爪を肩口に食い込ませる。

 そして大きく首を反らし、引き剥がそうとする数多の手を翼で凌ぎながら、太い嘴を深々と巨人の体に突き刺した。


「――――!」


 巨人が無声の悲鳴を上げて恐慌する。

 アルクゥは頭を抱えて蹲った。聞こえるはずのない音に脳が軋みを上げている。

 叫喚を煩わしむように一度顔を逸らした巨鳥は体に青く光る文様を浮かべる。呼応して中空に現れた水は、瀑布のように床を叩き際限なく落ちてくる。その水煙が眼前に迫り目を瞑ったアルクゥだが、衝撃はいつまで経っても訪れない。

 そっと開いた目に青と虹の世界が広がった。

 呼気が泡となって上っていく。それなのに息は苦しくない。

 音を排した静謐の世界で叫喚を封じた巨鳥は巨人の頭を捩じ切る。巨人は痛みにか暴れ狂い巨鳥の翼を折って羽を毟った。精霊の位にある存在同士の戦いは獣のそれと全く同じだ。ただ死力を尽くして互いを貪る。

 神々しささえある銅の姿は瞬く間に見る影もなくなったが巨鳥は僅かにも怯まなかった。

 ほとんどの頭が落ち勝敗が決したと思われたとき、巨人が巨鳥の細い首に残りの腕全てを巻き付け締め上げる。巨鳥は身を揺すって抵抗するも、肩口に食い込ませていた鉤爪は無念に震えながら離れてく。

 ――マニ!

 アルクゥは友の名を叫ぶ。泡となって届きもしなかった呼び声に巨鳥はピクリと反応を示し、薄く霞みかけていた目を見開く。

 暴れて激しく宙を掻く鉤爪の先が肉塊に突き刺さっていた剣の柄に触れ、巨鳥は橙色の瞳に勝機を見出した光を宿した。ヴァルフが投げた長剣だ。巨鳥自身の体躯と比較すれば小さく握ることすら困難であろう柄に器用に爪を引っ掛ける。

 そして思い切り――蹴り上げた。

 肉塊が真っ二つに裂け、血とも体液ともつかない色の液体が辺りに滲む。巨人は絶叫し、鳥を壁に叩き付けて地面に倒れ込む。肉塊の中にあった足が斜めに断ち切られていた。

 間髪入れず壊れた壁の瓦礫から飛び出した巨鳥は折れた翼で宙を翔け、急降下して巨人を押さえつける。残りの頭を千切り、多頭の痕跡のみを残す傷跡目掛けて嘴を首半ばまで突き入れる。頭を左右に振る動きを見せた後、ほとんど動きを止めた巨人を一度しっかりと押さえ付け直してから、巨人の体内から黒く光る核を引き摺り出して破壊した。


 白い巨人は崩れ去る。


 勝者である巨鳥もまた無残な有様で倒れ伏す。

 室内の水が虚空へと引いていくのに合わせて巨鳥の姿も溶け、乾いた床の上にマニが現れる。人と言い切ることが難しい姿をしていた。

 それでもアルクゥが駆け出さない理由にはなり得なかったが、壁際に避難していた女がマニに近付いた為に足を止めざるを得ない。手にはしっかりと剣が握られていた。


「殺せ」


 冷え切った声が空気とアルクゥを凍らせる。

 ベルティオは肉塊の残骸に両手を突き肩を震わせていた。立ち昇る怒りが目視できないのが不思議なほどだ。望みを挫いたマニに対する憎悪は深い。


「シリューシュ。そのガキの首を斬れ。手足も落としておくんだ。二度と動かないようにな」


 女は両手で剣を振り上げる。

 体力が無いせいか躊躇するかのように鈍重な動きだが、それでもアルクゥやサタナが何かを講じるより剣が首に食い込む方が速いのだろう。

 自重に任せて剣先が落ちる寸前、それまで動かなかったマニが顔を上げ、黒い鉤爪が生えた手を振るう。しかし鋭い爪は届かない。ただ女の鼻先を過るに留まる。微かに金属が擦れ合うような音が鳴ったが女には傷一つ付いていない。

 にもかかわらず、マニの口元は満足げに笑った。


「……待て。なぜそんなことが」


 自らは手を下さず処刑を傍観する構えだったベルティオが唐突に顔色を変える。

 訳が分からないでいると女がふいにマニに向けていた剣先を引き、ますます状況把握に混乱をきたす。とにかく、もしかすると今の状況は好機ではないかとアルクゥはサタナに目配せするも、迂闊な動きによる相手への刺激を警戒してか目線で静観を促される。

 ベルティオは覚束ない足取りで女とマニに近付いていく。アルクゥは固唾を飲んで見守るしかない。


「待つんだ。そこから、動くな」


 何を待てと言うのだろうか。女はベルティオを一顧だにせずマニを見詰めている。それが命令に従ったゆえの反応か、別の何かなのかアルクゥには分からない。ベルティオは不安定な歩調で進み、互いに手を伸ばせば触れる距離まで詰めて女に手を差し出した。


「さあ、こっちだ。おいで」


 女はやはり反応を示さなかった。

 ベルティオは更に一歩を詰め、震える指先で女の赤く汚れた手を恭しく掬い上げる。

 そこでようやく女は顔を上げ――右手に提げていた剣を逆手に持ち替え、拳を叩き付けるように横に突き出した。

 ベルティオはひゅうと掠れた息を吐き出し、ゆっくりと視線を下ろしていく。腹部を貫く剣を認め薄く口を開くも、こぼれたのは血泡だった。突き立った剣を中心に白衣が赤く染め上げられていく。

 ベルティオは縋る目で彼の女の名前を呼ぶ。

 

「――シリューシュ、なぜだ」


 どこまでも傲慢な質問を残し、答えを聞くことなく崩れ落ちる。治療を施さねばじきに息絶えるのは明らかで、微かに目を細めたもののそのまま視線を外した女にそのつもりがないのは当然なのだろう。見放されたと知ったベルティオは伸ばした手を血だまりに落とす。その表情は絶望だった。

 たった今、報いは下った。

 マニが主従の楔を断ち切り、自由となった女が答えを示したのだ。

 アルクゥはきつく眉を寄せて仇敵の末路を目に収める。

 予想していた痛快さはない。復讐は甘くなく、ベルティオを討つに至るまでの被害と自身の記憶を思い返せば苦いくらいだ。憑き物が落ちたような心地と深い疲労だけがある。

 大きく肩の力を抜いて溜息を吐いたとき頭を何かが叩く。手を遣ると小さな灰色の破片だった。

 落下物の出所を探して顔を上げると、罅割れた天井がずれて落ちてくるところだった。

 ぎょっとしたところでサタナに抱き寄せられ大事には至らなかったが、部屋のあちらこちらで崩壊の軋みが上がり始めている。超常同士の戦いの場としてこの部屋は脆すぎたのだ。


「貴女は先に外へ。マニは私が」


 言い掛けたサタナは唐突に黙り込む。

 その驚いたような視線を辿ると、女が――シリューシュがマニの体を抱えていた。人に非ざる姿を慈しむように目を細め、白い指先であやすように額を撫で前髪を掻き上げる。そこに口付けを落とし、こちらを向いて微笑んだ。

 人形の表情ではない。胸を切なく締め付ける、鮮やかに色づいた人間の笑みだった。

 シリューシュは喉を逸らし加速度的に崩壊していく天井を見上げ、大きく息を吸い込み咆哮する。

 シリューシュの姿が揺らいで溶け、膨れ上がっていく。

 彼女もまた人を離れるのだ。ハティのように世界を廻りに行くのだろう。

 ――マニもそう遠くない内に行ってしまうのかもしれない。

 アルクゥは一人置き捨てられるような寂寥を覚える。

 黄金の毛並みを湛えた角を持つ獅子は背負う翼を広げアルクゥたちを瓦礫から守り、長い尾で崩落する天井を支えた。その体が触れた部分から光る花が生まれ室内を埋め尽くしていく。多くの命が散ったであろう薄暗く血腥い部屋は、瞬く間に純白の光に溢れた。

 アルクゥはその眩しさに目を瞑り――不意に冷たい風を感じて瞼を開いた。

 眼前に木々が飛び込んでくる。下を見れば柔らく黒い腐葉土があり、上を見上げれば暮れの空が広がっている。

 獅子の姿はどこにもない。星の瞬く夕空に花びらの軌跡だけが煌々と残り、それもすぐに溶けて消えていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 残光を見送ったアルクゥは他の皆を探して周囲を見渡す。

 シリューシュはヴァルフを含めた全員を一緒に連れてきてくれたようだった。ほっと愁眉を開いたアルクゥは不思議そうに辺りを見回すサタナにヴァルフを任せ、マニの傍に膝を突いた。うつ伏せの体を引っ繰り返して驚きに目を丸くする。顔や手足にあった巨鳥の名残はすっかり消えていた。手を取って調べてみると魔力も安定している。


「どうですか」


 黙りこくったアルクゥに気遣う調子で覗き込んでくるサタナを振り仰ぎ笑みを見せる。


「眠っているだけです。あの人が何かしてくれたのでしょう。ヴァルフは?」

「え、ああ、ひと月は安静でしょうねえ。重度の魔力枯渇です。まあ頑丈なようですから命の心配は不要でしょう」


 ますます安堵したとき枯葉を踏む音が聞こえてきた。サタナは特に構えず、それなら危険はないのだろうとアルクゥは足音の主を待つ。

 木立の向こう側から現れたのはヤクシで、アルクゥを見ると酷く渋い顔をして物言いたげに口を開いたが、職務が先だと思ったのか忌々しげな一瞥を寄越すに留めてサタナに報告する。


「ご無事で何よりです。魔導院の霧は消失、集まっていた魔物の大半は討伐完了いたしました。ユルドが空から魔除けの水を散布したので魔導院の周囲の安全は確保されたかと。死者はゼロ、負傷者は十数名いるようですがいずれも軽傷です」

「流石は魔物討伐に特化した師団というところでしょうか。ご苦労様です」

「指揮を投げられて何事かと思いましたが」

「申し訳ありません」


 素直に謝罪したサタナにヤクシは微妙な表情を向けるが、気にするだけ損だとでも思ったのか口には出さずに院内の捜索等に関する指示を仰ぐ。サタナは魔導院内部の様子を伝え子細な指示を出し終えてから、ふと首を傾げた。


「よくここが分かりましたね」

「妙なものがこちらから空へ飛び立つのが見えましたから。俺以外にも見ていた奴らがいてちょっとした騒ぎですよ。馬鹿馬鹿しい。精霊を見たからと言って聖人になれるわけでもなし、それに」


 ヤクシは眉間に皺を寄せてアルクゥを睨む。大方、実物がこんなものだから聖人に夢を抱くのは馬鹿げているとでも言いたいのだろうが、口にしないだけヤクシも丸くなったのかもしれない。

 一先ずは移動をという話になったところで、夜を含んだ夕風が強く吹き渡り、アルクゥはその冷たさに身を縮める。

 木々が体を寄せ合いざわりと鳴いた。

 風向きが変わり寄せ返す波のように戻ってくる。それは先程と変わらない夜風の冷たさと、濃い鉄の臭いを運んできた。

 誰ともなく口を噤み、ヤクシが林の暗がりに向けて魔眼を青く光らせる。


「少し先に血の跡がある。奥に続いているな。人の血だ。相当な怪我を負っているですが……心当たりは?」


 サタナは頷いて溜息と愚痴を零した。


「情けをかけたのでしょうか。お優しくていらっしゃる。武器を貸してください」

「敵でしたら俺が」

「貴方は彼らを看ていてください。アルクゥ、どうなさいますか」


 問うサタナに行くと頷いたアルクゥは暗闇に目を凝らす。土よりも尚黒々とした染みは点々と林の奥に続いていた。そう遠くへは行けないはずだ。

 崩壊する地下から助けたのは情けか、或いは。

 アルクゥは腕の鱗を撫でる。人の理で裁せよと、そう言うことなのかもしれない。ならばどうあっても行かなければならない。

 終わりに続く鉄錆びは誘うようにぬらりと光り、アルクゥはサタナと共にしるべを辿る。


    

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