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精霊のシジル  作者: 染料
六章
108/135

第百七話 窮鼠たち



 生白く光る巨人の持つ数十の頭は全て人間の顔をしている。

 禿頭、目のあるべき部分は滑らかで凹凸がなく、口は苦悶の叫びを上げるように大きく開かれている。口内は真っ白だ。発声器官はないのだろう。顔の一つ一つに個性はない。どれを取っても差異は見当たらず、判を押したように連なる多頭は、恐らく同じ数だけある未だ肉塊の中にある腕を抜き出そうとしきりに体を揺すっていた。

 やがて一組の腕が肉塊を抜け出、アルクゥに何事かを求め縋るように向かってくる。

 伸ばされた指先は円やかで、生白さも相まって柔らかそうで優しい。ふっくらとした腕は唖然と首を仰け反らせ光の巨人を見上げるアルクゥを抱き締めようと迫る。

 見開いた金眼が白く染まる直前、横から突き飛ばされアルクゥは事なきを得た。

 アルクゥはたたらを踏み体勢を整えたが、アルクゥを突き飛ばしたマニはその反動で倒れる。助け起こそうと動いた目の前にゆっくりと軌道を変えて追ってくる手が現れ、しゃにむに短剣を逆手で振った。

 握った柄が霧を切ったかのような感触を返す。

 巨人の手は床に落ちて霧散し、攻撃に怯んだのかもう一方の手は煙のように棚引きながらしゅるしゅると退いていく。損壊を見込んでの攻撃ではなかったゆえにアルクゥも寸の間呆気に取られるが、マニの呻く声を聞きすぐさま思考を切り替えた。

 横たわる友人の傍に膝立ち、怪物から目を逸らさないまま肩に触れる。


「ごめんなさい。立てますか」


 尋ねると、喉で笑う音が返る。どうしたと聞き返すと、エイに酷似した海魔の羽音に掻き消されてしまいそうな細い掠れ声がぼやいた。


「おいおい、アイツ斬れんのかよ……俺ァ、端から戦い方を間違ってたってわけか」

「手を一つ落としたところでどうなるというわけでもなさそうですけど。今は逃げるのが先だからしっかり掴まって」


 そうかもな、と気のない返事をしたマニは大儀そうにアルクゥの手を握り、体を支え起こそうとするのを止めた。


「マニ、用事は後にしてください」

「アルクゥよぉ、絶対あれに触るんじゃねェぞ。例の力も駄目だ。前に倒した蛇も悪食だったがこっちの化け物も大概だぜクソッたれ。……悪い。俺の魔力をたらふく喰わせちまったせいだ」

「反省も後です」

「卵か、子宮だとよ。あの肉は。そんで中身は人間の命で出来ている。あのカマ野郎は本質だとかごちゃごちゃ言っていたが、たぶんそう言うことなんだろ。そんで、その抜け殻……つまるところ死体だろうけどよ、竜の餌だとさ。どこに飼ってるかは知らねェが」

「竜はマニが倒した大蛇のことです」

「あァ? あれが? 何だ竜ってのは大したことないんだな。にしても、なあ? 反吐が出る話だと思わねェか。俺までカマ野郎の後押しをしちまった」

「マニが生きていて良かった」

「俺が無事だって何の足しにもならねェよ。もうちっと深く考える頭があったら良かったんだけどなァ……」


 マニは苦しげに息を継ぎ「状況は悪ィ」と語気を僅かに強くする。


「けど、まだ目はある。アレは完成しているが、完全じゃない。まだこっちに出て来ちゃいねェ」


 ヴァルフが離脱を急かす声がする。アルクゥ自身も早くこの場を離れねばと理解しているのに、マニの言葉はそれを上回り行動を封じていた。

 ここで聞かなければ一生後悔する。

 そういった重々しくて息苦しさを伴う勘働きが、逃げようと焦れる体を抑えつけ耳を傾けさせる。


「わかるか。あれはもう歪みじゃねェよ。俺の魔力を吸って完成しちまった別の何かだ。ぶっ殺す気がすっかり萎えちまったのが何よりの証明だろ」

「別の何か?」

「バカ。俺に聞くなよ。わかるわけないだろ。あァ、そう言やカマ野郎はあれを自分たちの全てだとかほざいていたけどよ」


 アルクゥの頭に石の聖女の話が思い出される。

 ――ベルティオは精霊を作ろうとしている。

 何を馬鹿げたことを、と一笑に付すことのできない結果が肉塊からアルクゥを眼無きしせんで見つめてくる。


「間違っても斃そうなんて考えんなよ。人なんかじゃ壊せねぇ代物だ。あのカマ野郎をやってくれ。周りの魔物さえどうにかすりゃ結構無防備だろ」


 上向いた視線で見えてもいないだろうにマニはベルティオの状態を言い当てる。

 確かに海魔の分厚い壁を抜けさえすれば本懐は遂げられるだろう。しかし。


「ベルティオを殺したところで怪物は」

「いいんだよ。あれは俺以上に能無しだ。親がいなくなれば、自分で思考することもままならねぇガキだ。近くに餌がなけりゃ後はただ枯れていくだけだ。生きるには効率が悪すぎる」

「なぜそこまでわかるのですか」

「さてな。知るかよ」

「一番大切なところでしょう、それは」

「文句言うな。家主と一緒に行け。お前だけじゃ不安だ」

「ヴァルフには怪物が見えないから危険だし、マニも海魔に食べられてしまう。だから馬鹿を言わないで逃げないと」


 海魔を三体落としてからマニの体の下に腕を回そうとしたアルクゥは、「止めろ」と示された拒絶にぎくりと硬直する。


「あれは家主が見えねェ。家主があれを見えてねェようにな。出て来ちまったらそれも終わるが」

「それもベルティオが言っていた?」

「いや……何となく」


 漠然と理解に至るものではないだろうとアルクゥは眉をひそめる。その疑いを察したようにマニは笑い力なく咳き込んだ。アルクゥの白い手に小さい赤い華が咲く。

 ――時間がない。

 無視して再度支えようと力を込めた腕は、今度は明確な動作によって阻まる。マニはアルクゥの腕を払いのけた手を床に突き息も絶え絶えに上体を起こす。快活な、陽に焼けた肌は見る影もない。蝋のような顔色だ。鮮やかな橙の両眼だけが未だ生の火を灯しているようであり、そこには困惑の表情をしたアルクゥがしっかりと映し出されている。


「俺のことは放っておけ。ベルティオをどうにかしろ。それが唯一だ。お前らが上に逃げ切る程の時間はもう残ってねェよ」

「馬鹿なことを……そんなこと出来ない」

「もう何度か死んでるんだよ、俺は」


 アルクゥは鋭く息を呑む。喉が寒々しい音を立てた。

 マニは努めて笑おうとし、失敗したようなしかめ面で頼りない息を吐き出す。


「体は冷てェし、耳鳴りがしてお前の声が遠い。目の前が揺れてる。鼻だけだなァ……まともなのは。水の匂いがする」

「待って、しっかりしてください」

「そうだな」


 マニはそうだなァ、と繰り返す。


「死ぬ気は、ねぇよ。だから、勝ちを逃がしてくれるな」

「いい加減黙っていてください」

「あのなァ、アルクゥ。俺ァ、あんなもんに負けて、悔しかったけどな。どうせお前が後から来るし、大丈夫だって、思ったんだぜ」

「ああもう、うるさい! 人任せにしないで自分でやってください!」


 怪我人であることを忘れて大声で怒鳴りつけると、マニは屈託のない笑みを浮かべて頷いた。


「あァ、お前がしくじったらな。もう一踏ん張りしてみっから任せとけ」


 マニは軽口を叩いて剣を抜く。その些細な動作でさえも辛そうで見ていられないと思うにものかかわらずアルクゥはマニを止められなかった。喘鳴を細く響かせながら大きく息を吸い込み、マニは吼えるように声を張る。


「――俺を死なせたくなけりゃ早く行け! 家主、アルクゥに付け!」


 踏み切れないでいたアルクゥをマニは強く突き飛ばす。

 ゆっくりと、確実に隔たろうとしている距離に思わず手を伸ばしたアルクゥは、マニの和らいだ目を見て唇を噛み、背中から倒れないよう体を反転させて手を突く。

 そのまま床を蹴り上げ、向かう先は海魔の黒翼に守られたベルティオだ。

 視界を埋め尽くす無限にも思える黒を手当り次第に落としていく。じきに追いついたヴァルフがアルクゥの前を行き、二人の行軍は物量に勝る魔物を蹂躙していく。

 顔を濡らす血飛沫も拭わずただ障害を取り除くことに腐心するアルクゥは、宙を無秩序に飛んでいた海魔の動きに統制が現れ始めたことに気付いて口元を歪ませた。

 干渉を受ける海魔の数が増えた。

 ベルティオは焦っている。

 元より訪問者の予定はなかった。しかしマニが訪れ、その時点で後続がある可能性も高く、ゆえに罠を張り備えなければならなかった。マニを人質にしなかったのもより長く時間を稼ぐ為の駆け引きだ。

 しかしその目論見はマニが守られることを良しとせずアルクゥの背を押すことによって打ち砕かれた。

 低空を飛ぶ海魔を飛び越えるついでに床に縫い留め、ヴァルフの刃によって片翼をもがれた個体に止めを刺す。

 やがて床にうず高く海魔の死体が築かれ――黒が途切れる。


「ベルティオ!」


 アルクゥは海魔の切れ目から姿を現したその忌々しい人間の名を叫ぶ。

 召喚陣の中で膝を突き額に汗を浮かせてアルクゥを見上げたベルティオは、ほんの一瞬目を見開き唇を慄かせて、彼もまた別の名を喚呼した。


「シリューシュ!」


 ここに来てまで助けを求めるのか。

 嫌悪に顔を歪ませたアルクゥの背後で魔力が膨れ上がる。女性が命令に応えたのだろう。

 何かしらの魔術か。聖人の力か。サタナが抑えてくれることに期待するが、当たっても構うものかとアルクゥは足を止めない。

 進路を遮る最後の海魔をヴァルフが斬り落とし、遮るものなくベルティオに肉薄した、そのときだった。

 パキン、と。

 あまりに幽けく、戦闘の最中にあっては決して聞き取れはしない類の音が、洞窟の中に落ちた水滴のように反響してアルクゥの耳に届く。脳に直接浸み込んだ音は短剣を持つ手が僅かに止まり――はためく白い光の筋がベルティオとアルクゥの間を奔る。

 それが何かも理解できない内に後ろから襟首を引かれベルティオの姿が遠のく。飛びかけた意識を何とか引き戻し、自身を肩に担いで退避するヴァルフに叫んだ。


「剣は通じる! でも直接は触らないで!」


 返答の代わりか背中を支える力が強まり、アルクゥはその反応を以て間に合わなかったことを悟る。ヴァルフの緊迫した灰色の目には生白い巨人が映っていた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 肉塊から半身を覗かせた多頭多腕の巨人は自由になった多腕を振るう。

 アルクゥに襲いかかってきたときとは違い予測の難しい複雑な動きで向かってくる手をヴァルフは切り落とし、或いは半身を捻って躱しながら後退しじりじりと攻撃範囲外を目指す。

 攻防に隙はない。アルクゥは振り落されないようにすることだけがヴァルフへの唯一の助勢だと悟り、自身を抱える腕に強くしがみつきながら状況の把握すら難しいほどに揺れる視界を睨み付けた。

 先程まであれほど分厚い壁として立ちはだかっていた海魔は、暴れる巨人の腕に巻き込まれ傷一つなく死んでいく。あれに掛かれば撫でるだけで事は済むのだ。触れるだけで命は潰える。

 背筋を凍らせたとき、がくんと視点が下がり背中の支えが消えた。

 浮遊感が体を包む。

 まさかと息を止めたアルクゥの眼下でヴァルフが膝を折った。触れてしまったのか。

 ヴァルフは目を見開いていた。体の力が抜けた理由を理解できていない表情は、次の瞬間手負いの獣に似た凶暴な眼差しに変じる。

 崩れ落ちそうになる上半身を意思の力で無理やり持ち上げ、音が鳴る程に握りしめた剣を大きく放った。反攻の一矢は空気を裂き、防護術式を貫通して床に落ちた肉塊に深々と突き刺さる。半身が未だ肉塊の中にある巨人は僅かに身動いで攻撃の手を止めた。

 投げ出されたアルクゥはヴァルフに駆け寄り微動だにしない体を抱え込む。巨人に触れてしまったのだろう。しかし呼吸はある。だが恐ろしく冷たい。

 マニよりも長身で重たい体をどうにか引き上げようとするアルクゥを、後ろから伸びた手が助けた。驚いて振り仰いだアルクゥにサタナは目で応じ、三人は一先ずは扉手前へと退避する。


「申し訳ありません。仕留め切れませんでした」

「こちらも同じです。マニを連れて来られなかった」


 どこか怪我をしているのだろう。血雫を落とすサタナを見上げて首を振る。サタナの手に武器はない。視線を正面に移すと、怪物の傍に立つベルティオが女の右胸に深々と突き刺さる長剣を抜くところだった。その少し手前にマニが倒れている。腹が上下しているのを確認して息を吐くが、ベルティオの耳打ちを受けた女が己の胸を貫いていた剣を片手にマニの傍に立つ。状況は悪化の一途を辿るばかりだ。

 アルクゥは固く瞼を閉じたヴァルフの額に触れながら低く訊ねる。


「何が起こったのか、わかりますか」

「あの女性が肉塊に魔力を与えたように見えました。死すら厭わない量を。そして肉塊が割れた」

「……そういうことですか」


 怪物に魔力を与え、こちらに出て来る時を速めたのだろう。

 女の顔はマニと同じくらい白い。立つことすらやっとと言った風情だ。特別な思い入れがあるように見えても、所詮ベルティオにとって彼女は道具でしかないのかもしれない。


「さて、振り出しに戻ったかな」


 一人無傷のベルティオは全員を見回して笑い、手で目にひさしを作り怪物を見上げた。


「醜いな。こんな形で生まれてくるとはね。頭も悪い。命令に対する反応も鈍い。しかしこれでいて私やシリューシュよりも上位の存在なのだから、精霊とは不可思議なものだ」


 肉塊から半身を出した巨人は首が座らない赤子のように群がる頭を揺らしている。ヴァルフに半分以上を切り落とされた手は再生を始めている。数分も経てば元通りだろう。

 室内の中央に生まれ出でた怪物は知性すらない醜悪な生き物だ。精霊と言う名称を与えたベルティオの気がしれない。チラリとサタナを窺うと、いつのもように軽く笑んではいるがアルクゥと同じく不快なものを見る眼差しでベルティオと巨人を見据えている。


「精霊と似たような何か、と言い換えても構わないよ。本物のように世界を司る役目を負うわけでもなし、成り立ちを似せただけのまがい物だ」


 二人の反応に対してベルティオは謙遜する言葉を吐くものの、怪物を見る目付きは熱を孕み恍惚としている。アルクゥたちが醜悪だと感じる怪物こそがベルティオの思い描いた十全の成果であると教えていた。


「幽世にあっても消えないエネルギー体、実体を持たずとも現世にあれば触れることができる存在。この矛盾こそが精霊だ。矛盾を成立させる要素が長らく見つからなくてね、何年も頭を悩ませて、多面的に実験を繰り返し時間を浪費する羽目になってしまったが」

「もう少しましな時間の使い方をすべきでしたね」

「そうでもないさ。全ては後の糧となった。結局のところはね、発想の問題だったんだ。幽世がある。現世がある。二つの世界があって、ならば中間が存在するのは当たり前のことだろう。狭間だよ」

「狭間……?」


 アルクゥは勝者の喋りたがりにあえて応じる。

 ヴァルフは倒れ、マニは連れ戻せていない。幽世はガルドの魔具結界によって利点を失っており、アルクゥの強みは完全に死んでいる。

 隣ではサタナが静かに術式を組む気配があった。何をするつもりかは分からないが、今後どう動くことが最善か考え付かないアルクゥはサタナの支援に徹する他ない。


「キミもよく知っているはずだ。聖人は狭間を越えて幽世に行くだろう」

「……現世と幽世を隔てる壁のことでしょうか」

「ああ、壁ね。その表現の方が適格かもしれない。狭間は幽世と現世が混ざらないように、生と死が混濁しないよう存在する。形が崩れないように保つ。私は、長きに渡り幽世を駆けることの可能な精霊たちも狭間の性質を持つと仮定し、シリューシュの変化した部分を調べることでそうである確信に至った。聖人は精霊を具現して人の理を離れる。ある意味でキミたちは精霊の卵だ。シリューシュは非常に研究に貢献してくれたよ」

「なぜ怪物は、こちらに出てくる前には聖人以外の者に見えなかったのですか」

「いい質問だ。この化け物は、肉塊を現世、廃域の核を幽世に見立て、その中間に疑似的な狭間を作りそこに材料を混ぜて出来たものだ。狭間で育ったこれは、生まれるまではどちらにも属さない。よって狭間に触れられる人間にしか目視が適わなかったんだ。なにせ親である私自身も見えないからね。育てるのには苦労したよ。シリューシュは長らくこう・・で命令以外のことはしてくれないから」


 ベルティオは醜い、醜いと囃し多頭多腕の巨人に目を細める。常軌を逸した態度は石の聖女の信仰狂いと重なる。

 話し合えているように見えて疎通は断絶している。

 ならば言葉が通じるだけでその実、獣と向き合うのと大差ない。酷いまでの徒労だ。


「そんなものを作った目的は? そう言えばクーデターの発破をかけたのは貴方でしたね。国を乗っ取るおつもりですか」


 ベルティオは目を真ん丸にし、腹を抱えて笑い出した。下品なまでに響き渡る笑いにアルクゥが顔をしかめると「いや悪かったね」と涙目を拭う。


「私はねえ、アルクゥアトル。キミと出会うずっと前から魔術師で、そしてこれからもそれ以外の者になる気はないんだよ」


 真名を呼ばれたアルクゥはこれ以上ないほどに苦い顔をし、言葉の意味を咀嚼して吐き捨てた。


「探求なんて、馬鹿げている」

「馬鹿がいるから真理は解き明かされるんだよ」

「知人の自我を潰してまで得た成果がその醜い怪物ですか」


 我知らず語気が荒くなる。ヴァルフを抱きしめる手に不用意に力がこもる。

 血の気を失くした女はいよいよ人形として完成間際であるように見えた。ベルティオの命に従い微動だにせずマニを見続ける様は、敵側であるというのに憐憫が先に立つ。


「勘違いは困るな。シリューシュは自ら私に協力を申し出てくれたんだ」

「そう言い張るのなら主従契約を解いてみればいい。すぐに答えは出る」


 ベルティオは話にならないと肩を竦めた。


「私たち二人はラジエルの出身でね。親しい友人なんだ。私は、私たちの前に降り立った獅子霊がシリューシュを選んだときからシリューシュを支え、シリューシュはその感謝の証として私に協力をしてくれている」

「貴方を選ばなかったのは獅子霊の英断でしょう」

「選ばれるさ。今度こそは」


 反射的にも思える言い返しにアルクゥはおや、と首を傾げ、


「貴方は嫉妬しているのですね」


 調子良く話していた声が途切れる。

 呼吸も憚られる不気味なしじまを終わらせたのもまたベルティオ自身だった。


「――果たして、私とシリューシュ、何が常人と聖人の境目だったのか。比べてみてもこれと言った差異はなかった。私とシリューシュが決定的に異なる部分と言えば性差くらいだが、記録で聖人の割合は男女で半々だ。魔力は、シリューシュが選ばれる前は私の方が多かった。血筋は遡れば同じ場所に行き着く。では内面的な部分かと言えば、否だろう。この外見から察せられると思うがシリューシュは男を弄ぶ女だった」


 なあ、と唇を歪ませたベルティオは女に同意を求める。

 女は振り返ることもなくマニを見詰めている。ベルティオは興ざめと言った風情で嘲笑を消して話を続けた。


「それならば、一体何が原因だというのだろうか。どんな違いによって私は特権を取り逃し、シリューシュが魔術師が求めてやまない世界の根幹に関わることができたのか。だから私は私を選ぶ精霊を作った。魔術師の高みはもうすぐだ」


 狂った研究者と一人の男の澱んだ感情を混在させた昏い目でベルティオは言い切った。

 恐らくは、この言い訳じみた言葉たちは自己矛盾のない行動原理としてベルティオの中に掲げられているものなのだろう。本質を垣間見たアルクゥはもはや感想を抱くこともなく、ただ胸中にどろりと垂れたどす黒く汚らわしい気分をふき取るように頬を伝う汗を拭う。

 胡乱な様相を湛えていたベルティオはふと気付いたように我に返り「守れ」と一言。沈黙していたサタナが動く。魔術により氷柱が放たれるが目標に遠く及ばず巨人の手に吸収され奇襲は不発に終わった。

 ベルティオは数歩後ろに下がりながら呆れた様子で唇を歪める。巨人から遠ざかるその行動がアルクゥの頭の片隅に残った。


「サタナ司祭、さすがの貴方も手詰まりと見える。どうだ? 忠実だろう。生前もそうだった」

「仲間の命までも材料ですか。貴方には特別酷い天罰が下るのでしょうねえ」

「御しやすくて助かっているよ。彼らの価値はそこに集約している。さあ」


 ベルティオは顔に笑みを張り付けて両手を軽く広げる。


「お喋りはここまでにしよう、小娘。この状況をどうする? このままでは、ただ無力に死を待つだけなのは貴女にもわかるでしょう? 考えて欲しい。今、キミにできる最善をね」


 にわかに声音が女性のそれに変化する。問い掛けに含まれた揶揄と嘲笑にアルクゥは拳を握りしめた。

 誘拐の夜と、クーデターの時と、これで三回目だ。隷属を促すベルティオに死んでもご免だと小さく吐き捨てたとき、密かな声がアルクゥの耳朶を擽る。


「干渉されていない海魔を一体縛りました。後ろの鉄扉を破ります。合図をしたら、貴女の兄弟子と一緒に乗って逃げてください」


 アルクゥは絶句した後、口元を手で覆った。


「逃がす策を……講じていたのですね」

「逆転の目がない現状ではそれが最善だと考えました。他に策があるのなら一応聞いておきますが」


 異論を申し立てようとした口を結局閉じて食い縛る。

 示されてみれば当然にも思える。圧倒的に不利な状況に置いて模索すべきは、事情を知る誰かを一人でも生き残らせて後続に全てを託す道だ。


「マニは」

「諦めてください」


 歯に衣を着せない答えに苦虫を噛み潰し、上手く息を吐き出そうとしない喉を震わせる。


「……貴方は?」

「海魔には元々何かを乗せて飛ぶ力が備わっていない。大きな個体を選びはしましたが、本来なら貴女一人が定員でしょう。無理して二人、三人も乗れませんよ。それに背後からの攻撃を止める役が必要でしょうから、私はここに残ります」


 返答に俯く。

 何かできることはないだろうか。

 ――全滅は避けなければならない。

 唐突にベルティオの挙動が頭を過る。

 全滅。アルクゥは呟き、そして思い付いた一つの可能性に顔を上げた。注意深くこちらを見詰めるサタナの準備を問う声にしっかりと深く頷く。するとサタナは安堵したように愁眉を開いた。


「アルクゥ。貴女が私に下さった楽しい一時を感謝しています」

「それは皮肉ですか」

「いいえ」


 アルクゥは呆れて固く握っていた拳を緩める。サタナはそれを見て微かに口の端を上げ、背後のひしゃげた鉄扉に手の平を向けた。破壊の術式に魔力が込められていく。

 動きに気付いたベルティオが声を上げて笑った。


「何だ、無様だなあ! 助けると言っておいて、やはりそこの彼は見捨てるなんて、まさに英雄の所業だ! でも逃げ切れるなんて思っているのなら」

「優位に立った途端にはしゃぎ始める貴方よりは誰でもましですよ」

「なっ……」


 切り返しにベルティオが頬に朱を昇らせたとき「行きなさい」とサタナが術式を発動させた。

 圧縮された空気が破裂し、重い鉄扉が軽々と外に弾き飛ぶ。

 吹き荒れた風の流れに乗り、天井付近を旋回していた海魔の一体がアルクゥの傍に降りてきた。その背に飛び乗り気を失っているヴァルフを思い切り引き上げる。海魔の長い尾がしっかりとヴァルフの体を固定したのを確認して、


「行って。早く!」


 自身は飛び下りて海魔の背中を押し出した。

 飛び立った海魔は素晴らしい速度で宙を滑り、瞬く間に螺旋階段まで到達してアルクゥの視界から消える。「楽しかったよ」と届かない感謝を呟き、アルクゥは大きく息を吸ってベルティオを見据えた。

 事態を察したサタナが振り返り、琥珀色の目が大きく失意に見開かれる。なぜ、と苦々しい呟きをベルティオの哄笑が打ち消した。


「はっ……あはははは! 本当に! 愚かな娘だ! 茨の道は心地良いか? 悲劇の公爵令嬢は、ご自分を痛めつけて悦ぶ趣味がおありのようで!」


 罵倒は心を揺さぶらない。凪ぎ、清々しさすらある気分だ。

 アルクゥはゆっくりと瞼を下ろした。無駄な足掻きと断じてくれるならば重畳、集中する時間さえあれば出来ることが一つだけある。

 アルクゥは昏い瞼に浮かぶ炎を見詰め、改めて目を開き炎の余韻が残る眼差しで虚空を望む。

 怪物には魔力による力が通じない。

 しかし、そうだとしても傍らにいるベルティオに熱は届く。

 そしてベルティオの怪物を避ける些細な動きがアルクゥに教えてくれた。

 あの星すら掴めてしまいそうなほどの腕があっても、怪物はベルティオを抱けはしないのだと。

 怪物は生命食いの力を制御できない。触れてしまえば敵味方関係なく命を取る。

 それならば部屋を余すところなく埋め尽くす劫火を。悪徳に赤熱の制裁を。

 室温が急激に上昇していく。それに伴い凍っていく水面のようにパキリと音を立てて鱗が増えた。

 ベルティオの笑みが熱に溶けるように崩れた。


「無駄な真似を……そんな、考え無しに魔力を練ったところで自殺にしかならないだろうに」

「貴方は私のことが怖いのでしたね」

「調子に乗るなよ」

「私だけではない。マニのことだって怖いのでしょう。思い返せば近付く素振りすらなかった。時間稼ぎをする必要がなくなった後も。感謝します。貴方がマニの前に立つだけで私たちのどれほどの重圧が掛かっていたことか」

「ふざけたことを……何を笑って」


 アルクゥの周囲に灯火が生まれるとベルティオの語勢が衰える。

 蛍のように揺らめく無数の夜明けの炎に、引き寄せられて群がった海魔は燃え上がり灰に帰する。ベルティオは遂に顔色を変えて激しく頭を振った。


「司祭も、小僧も、全員を巻き込んで心中するつもりかお前は!」


 アルクゥは晴れやかに笑った。

 全員を巻き込む。大当たりだ。このような状況でなければ絶対に考え付かなかった刹那的な手段ではあるが。

 アルクゥは鼻血を拭ってベルティオに一つ訂正を入れる。


「心中とは心を通わせた者たちが来世で結ばれることを信じて共に死に逝くことを言うのでしょう? それならこれは違うし、少なくとも貴方は一人だ。一人で死に、誰にも惜しまれず、ただひっそりと灰になるだけです」


 どの言葉が堪えたのか、ベルティオの顔が絶望に歪む。


「私には……シリューシュがいる」

「とても前向きなのですね。私が彼女の立場なら貴方なんて殺したいくらい大嫌いですよ。司祭、走ってください」


 傍にいるのは熱いだろうに、動かず佇んだままのサタナを見遣る。今度はアルクゥがサタナに脱出を促す番だった。


「最低でも螺旋階段の上までは逃げてください。火は長くは留めておけません。間に合うかは分かりませんが、焼け死にたくなければ早く」

「残ります」


 予想しないわけではなかったが、逡巡の欠片もない返事に眉を顰め溜息を吐く。呼気から血の味が舌を刺激した。


「神話くらい知っているでしょう。龍の火は魂をも燃やす。真実かはわかりませんが、来世をあてにしたいのであれば逃げるべきだ。それでも残りますか」

「はい」


 簡潔な答えにアルクゥは溜息を重ねる。


「最後まで、貴方はよくわからない人でした」


 苦言とも取れる言葉にサタナは振り返り、いつも通りの笑みを返した。


「来世でもよろしくお願いします」

「だから心中ではないと……」


 苦笑し、最後に倒れたマニを見遣る。しばらくそうしてからアルクゥは固く目を瞑り、天を仰いだ手を軽く地に向けて振り下ろす。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 昏い夜の淵からマニは戻ってくる。


 苦しい。そう自覚した体はにわかに活動を再開し、肺に空気を送り込もうとマニを咳き込ませた。

 何回目だ、と落ち着いてからは細い息を繰り返しながらぼやけた天井を見つめる。少なくとも死を回想できる数なのは確かだ。

 ベルティオとアルクゥが何か会話をしているのが聞こえる。耳は秋風が忍び込んだかのようにひゅるひゅると鳴っていて内容までは聞き取れないが――そうだ、とマニは思い出して深い痛みに目を閉じた。

 海魔を五体斬ったところで体が動くことを諦めた。その直後に怪物が生まれたのだ。皮肉にも怪物が暴れたお陰で海魔に貪られずに済んだが、自分が助かったからと言って何の役に立つというのか。誰もマニに教えてくれない。

 ――引き戻しておいて無責任な。

 マニは、自分が幾度となく死から追い返される理由が体の頑健さや幸運によるものではないということは十二分に理解しているが、その先がどうすればいいのかわからない。

 ぼんやりと遠い天井を眺める。

 歪んだ視界に剣を持った血塗れの美女が入ってきた。マニはゆるやかに瞬き、天井の代わりに今度は無表情の隻眼を見上げる。


「お前はさ」


 声を掛けてみたのには特に深い意味はない。話し相手が欲しかったのかもしれない。


「ずっと近くにいたくせに、カマ野郎を止めようと思わなかったのかよ」


 言葉は苦いものになる。女はマニを見詰めたまま動かない。こいつは人形かとマニの心はチクリと痛む。


「まあ……別に責める気はねェよ。契約ってやつを、結ばされてんだろ。どんなもんかは知らねェが。お前はただ気違いのとばっちりを真正面から被っただけだ」


 女は動かない。マニは冷たいのか熱いのかも分からない息を何度か吐き出し、独り言を続ける。


「長く一緒にいたら、まあ、あんな奴でも情が湧くかもしれねェしな。止められなかったってのも、わからなくもねェ。でも、責めはしねぇが、やっぱりお前にはあいつを止める責任ってのがあったんじゃねぇのか」


 我ながら説教くさいと思いながら呟いた言葉に、海よりも青い碧眼が動く。どこにも向けられていなかった視線が焦点を合わせてマニを見た。

 両者はしばし無言で見つめ合う。

 しばらくしてマニは敵に答えを求めた。


「俺ァ、どうすればいいと思う。こんな、死にかけだ。何にもできねぇ。この有様で、お前ならどうする」


 長い時間、女は停止していた。息をしているのかも怪しい静寂を身に纏い、白い顔に陰を落として、時が止まった彫像のように佇む。

 マニもまた長い時間女を見続ける。目が乾こうと、肺腑から這い上がってきた血が喉を焼こうと決して視線を逸らすことはしなかった。

 やがて碧眼がゆっくりと右に移動していく。

 マニはようやく瞬いて、示された先に顔を向けた。

 自分の右腕が力なく投げ出されている。答えはどこにも落ちていない。

 何となく仰向いた手を返して――手の甲を彩る鮮やかなあかがねを見付けた。胸に染み込む、疑いようのない綺麗な解答だった。


「……アルクゥと約束したもんなァ。アイツがしくじったから、今度は俺の番だって。それにもともと俺が始めた戦争だ。自分でケリ付けるのが、筋だろうなァ」


 マニは再度女を向く。


「ついでだ。お前の責任も、肩代わりしてやるよ」


 だから刺すなよ、と念を押す。女はやはり答えない。マニはそれを都合よく了承だと解釈した。


「ありがとよ」


 笑みを向けると、女はほんの僅かに、少しだけ頷いたようにマニには見えた。


  

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