第百五話 万象の幻姿
――呑まれた先の風景は思ったよりも見透しが利く。
霧の濃淡が生物のようにうねる魔導院の敷地内、纏わりつく湿気と焦げ付いた臭気に顔をしかめながらマニは敵の影を探した。人を殺すことを覚悟していたが動くのは霧ばかり、襲ってくるものは人間どころか魔物もおらず、一先ずは警戒を緩め安堵したその矢先、後ろから足を掴まれる。マニは反射的にそれを蹴り飛ばし剣を抜いた。鞘から走る勢いのままに滑らせようとした刃は短い悲鳴に寸でのところで停止し、マニは悪態を吐きながら蝦蟇か豚かと見紛う男を見下ろした。危うく斬るところだった。手に冷や汗が滲む。
斬殺一歩手前だった男は、それでも尚マニににじり寄りながら震える丸い指先を突き付けた。
「き、キミ。ちょっといいかね」
「何なんだよテメェは……敵ならやっぱり斬るぞ」
「違う! 敵じゃない! それで、キミは今、外から……?」
「じゃなきゃどこから来るってんだ」
距離を取りながら答えると、男は「助かった!」と声を上げて猛然と這いずってくる。ひっと掠れた息を呑んで足裏で接近を阻止するが、逆に足首を掴まれマニは総毛立った。
「きっ気持ち悪ッ放せ豚が!」
「頼むっ、助けてっ私を外に出してくれ!」
「勝手に出てけよ目の前に門があんだろうが!」
「どこに!」
「テメェの豚鼻の先に」
マニはふと気付いて男の顔面を押し遣る足を止め、今し方入ってきた正門を振り返った。つい先程まで見えていた歴史あるラジエル魔導院の正門はいつの間にか霧に溶けてしまっている。
マニは目を眇めデネブのものと同じだと霧の性質を了解する。人を迷わせる霧だ。入る分には歓迎するが出て行くことは許さない。となれば、魔導院の中は何も敵ばかりというわけでもなさそうだ。そう思ったマニは訊ねるも、男は自分以外の生存はないと分厚い肉を纏う首を振った。
「霧が溢れた後、奇怪な魔物が湧いた。皆それに連れ去られたのだ。私は寮監で見回りをしていたから良かったが、生徒のほとんどが寝ていただろう。抵抗なんてできたわけがない。他の先生方だって同じだ。逃げ出せた私すら今でも何が起こったのか……」
「ここには黒蛇って集団の仲間がアホみてぇにいるんだろうが」
鼻白んだ男は「そういう噂もあった」と心当たりのある顔で言葉を濁す。
「しかし、次々と魔術師が捕縛されていく中でラジエル魔導院は一人たりとも逮捕者を出していないのは確かだ。つまりこの襲撃は外部の」
「んなこたァどうでもいいんだよ。テメェの胸に聞いてみろ。思い当たる奴がいるんだろうが。言え。敵は何人だ」
「し、しかし状況が好転するわけはない。ここは一先ず逃げて王都に助けを」
「ったくうるせぇ豚だな。喚いてないでさっさと教えろよ。どうせここで丸まって震えているだけで、生きてるかもしれねぇ生徒や教員を助けに行くつもりもねぇんだろうが」
「無駄に決まっている! それに無謀だ!」
「それを決めるのはテメェじゃねぇよ」
剣の樋で小突いて急かす。怪しいと思っていたのは六人だ、とその密告に頷きながらマニは内心苦い顔をした。多数の魔物に魔術師が六人、それにベルティオと女が加わる。圧倒的な形勢を自覚すると突然マニを突き動かす衝動に隠れていた冷静な部分が顔を出し問いかけてきた。
男の言う通り無駄で無謀だったのではないか。
マニは大きく息を吸い込む。爛れたような焦げ臭さが脳の芯を灼いた。何を今更。やらなければならない。口内に苦い灰の味がざらつき、一層決意を固くした。
「本棟の西に……閉鎖された研究区画がある。不慮の事故で閉じられてからというもの、生徒の間に不審な噂が絶えなかった。地下に大量の死体があるとか、他愛の無い怪談めいたものばかりだったが、こうなってしまえば一考の価値があるかもしれない」
助言に振り返ると、男が挑むような目で睨め上げてくる。
「これでいいだろう! 私を外に」
「――ああ、そうだったな。じゃあな」
一瞬でも味方がいれば心強いと思った弱い心根が疎ましい。
マニは男の襟を掴む。何を、と抗議する声を無視して勢いを付け霧の向こうへと放り投げた。霧は感覚を惑わせるが物理的な壁にはならない。運が良ければ外に転がり出ただろう。
マニは踵を返して進む。
建物の大きな影が怪物に見えた。景観の為に植えられている草木がこちらを狙う敵に思える。一つやり過ごす度に次の影は襲ってくるかもしれないという緊張は高まり張り詰めていく。
肌にべた付く霧が汚らわしかった。不快な臭いは段々と強くなる。辛うじて清涼をもたらしていた雨の匂いすら鼻から消えて、マニの胸中を赤黒い鈍へと変えていく。
霧と雨に煙る建物をいくつか横目に通り過ぎたとき、石畳に暈けた赤を見付けた。マニが歩み寄るより先に足元にまで流れてきた生々しい色は、辛うじて辿れる程度に地面にこびり付いている。こちらが男の行っていた研究区画に続くのだろうとマニは血の跡を辿った。
――吐きそうだ。
雨脚が強くなり跡が消えてもマニは方向を見失わなかった。嫌な臭気はマニを遠ざけるようにより強くなってきている。こんなにも雨が強いのに消える気配はまるでない。猟犬にでもなった気分だ。
昨夜から何も食べていない空っぽの腹がぐにゃぐにゃと蠢く。滴る雨水を少し飲んでみるが受け付けなかった。盛大に咳き込んで口を拭う。
――なぜ誰もいない。
敵にもそうでない者にも出くわすことがないまま、堅牢な柵に守られた建物を発見した。今まで通り過ぎてきた由緒あり気な建物とは違い比較的新しい佇まいで、柵の銀色が鈍く光を照り返している。
門には禁足を示す鎖が張られていたようだが、それは無残に引き千切られて打ち捨てられていた。マニは門柱に触れる。何か大きなものが無理やり通過した跡がある。出て来たのか、入ったのか。
警戒しながら区切られた敷地内に入ってすぐ、たった今霧から形作られたかのように唐突に教師らしい服装をした男が現れた。
「誰だ!」
意味のない誰何は動揺に他ならない。敵の可能性がある人間との遭遇が重圧となってマニに伸し掛かる。奇襲が正答と分かっていても思わず声を掛けずにはいられない程だった。
伏せられていた顔がゆっくりと上を向く。
マニはその表情にぞっと背筋を粟立てた。
両眼はそれぞれ別方向を向き、だらりと垂れた舌からは泡混じりの涎が延々と滴っている。
「せ、生徒たちがこの先に」
「あんた意識が……」
何らかの傷害を負っているようだが正気だ。マニは敵でない人に出会えたことに酷く安堵した。なぜこのような不自然な場所に佇んでいるのかも考えず「大丈夫か」と近付く。男は頷いてボソボソと何事か呟いた。
「悪い、聞こえなかった。もう一度」
はっきりと発音する為にか男は口を大きく広げ――耳を近付けようとしていたマニは口腔からこちらを覗く何かを見、それと視線が合ったことを確信する。
体を下げたその背後、生臭く温いものを背中に感じ咄嗟に横に転がる。振り返った視線の先には、ただ物を噛み千切る為だけに生まれてきたような、人の丈ほどもある円形の口が教師の男に噛り付いていた。間断なく生えた棘のような牙が隙間なく閉じる。ごり、と鈍い音がして肺が潰れて空気が漏れたような悲鳴が上がる。後には折り目正しく揃った両足だけが残った。
そこから流れるはずの鮮血はなく、真っ黒な血が数滴散らばるだけということは、とうに教師が死んでいたことを示している。口内の魔物が死体を操っていたのだろう。そしてその魔物を更に操る者がいる。
人の生はおろかその死でさえ弄ぶのか。
「――屑が」
どこからともなく現れる口の魔物と操られた死体を怨嗟を込めて睨み付ける。空にはエイに似た海魔が無数に飛来していた。数えることすら馬鹿らしい、その魔物の群れを前にしてもマニは怯まない。
体中が燃えるように熱い。とめどなく流れ出る魔力は降り注ぐ雨を地に還さず、マニの周囲に停滞させる。虹を宿す水はマニの意思により全てを押し流そうと濁流に変じようとし――急激に角度を変えてマニを守る。
水の壁に巨大な物体が激突した。
衝撃に破裂しそのほとんどを四散させた水壁だが、辛うじて敵をマニの前で止める。マニは体を庇っていた両腕を除けて薄い水膜の向こう側を確認する。
小山ほどの影だった。巨大な、あまりにも大きすぎる頭部と相反して小ぶりな角。鮮紅の両眼に黒い切込みを入れたような瞳孔がぎょろりと音を立ててマニを捉える。
蛇だ。
規格外の巨体に凍りつくマニの目の前で蛇はしばし防壁を突破しようとしていたが、飛び散っていた水が再びマニの周囲に集まるのを見て頭を引く。その際見えた胴体は、マニの視界の限りに続いて途切れることはなく霧に霞む彼方にまで伸びているようだった。
鎌首をもたげるだけでもそこいらの建物よりも大きい。これをどうやって倒すというのだ。垂れ流す魔力も操る水も無限ではないというのに。
巨大な敵に気を取られたマニの背後に口の魔物が迫る。舌か触覚か、恐らく人を連れ去ることに一役買った器官を伸ばして侵入者を喰おうと大口を開いた。マニが舌打ちして回避するのと同時にそこに暴の体現が猛然と過っていく。顎を外した大蛇が地面もろとも口の魔物と死体操りの魔物を削り取っていった。
「助けてくれた……ってわけじゃなさそうだな」
痛ェ、とマニは冷や汗と強がりの笑みを浮かべて左手を強く握り込む。指を二本失くした。鱗に削られた。断面から血が溢れて滴る。
大蛇は魔物たちを捕食したその勢いでとぐろを巻きマニを包囲した。
心なしか先程より大きく見えるのは逃げ場がないという心理のせいか。実際成長しているように思えたが、怪我の動揺が重なったゆえの錯覚かもしれない。
見下ろす蛇眼と見上げるマニの橙色の眼。視線の拮抗は一瞬で、大蛇は大した予備動作もみせずバネのようなしなやかさで突っ込んできた。再び収束した水が攻撃を受け止め、再度の突進を防ぐ為に蛇の頭を包み込む。
大気が震え水しぶきが驟雨のように降り注ぐ。大蛇の牙と虹天が渦巻く精霊の祝福がしのぎを削る。
蛇は残りの僅かな厚みを打ち壊せず、マニは蛇を押し返すことができない。しかし時が経てば降りしきる雨がマニの味方をする。このまま待てばいい。
雨滴が蒸発するような熱い息を吐いて、これからの数分を耐え抜く覚悟を決めたとき、大蛇が動きを見せた。
増えてきていた水の嵩がみるみる内に減っていく。
マニは数度目を瞬かせて飲むのか、と苦笑した。貪食にも程があるが、何にしてもここまでだ。
最大の武器を失ったマニは主菜に取りかかろうとする大蛇を振り仰ぐ。その顎からチラチラと出入りする赤い蛇舌が不意に止まるのを確認して体の強張りを緩めた。
「俺の勝ちだ」
固い鱗に覆われた頭部が波打つ。水面に広がる波紋のように歪んでいく。
蛇は上体を起こし口を半開きにした。巨体を小刻みに震わせ、耐え切れないと言わんばかりにマニの包囲を解く。もはや食物の存在など眼中にないようで、頭部を至る所に叩き付けながらのたうち霧に消えていく。
しかし、視界から消えても蛇の体内に残る水はマニの感覚の内だ。
マニは白いばかりの霧の景色に手の平を向け、軽く握り潰すように動かす。直後、遠くで赤い血煙が上がったが、じきに霧は元の色を取戻し、辺りには静寂が戻った。
マニは片袖を裂いて左手の止血をする。しばし生まれ持ったものの喪失を眺めたが、構うものかと血汗を拭い先へと進んでいく。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
研究区画には六つの建物が並んでいた。
その内の一つ、最も嫌な感覚がする細長い建物にマニは入る。敵はいない。大蛇とあの生理的な嫌悪をもよおす魔物の群れがあれば守護者として充分だと考えたに違いない。
建物内は奇妙に歪んだ構造をしていた。
意味のない分岐路や壁に張り付いた扉など建築家の正気を疑うような作りだ。マニは迷わないが、他に討ちに来る者があればここで篩にかけられるだろう。
しばらくすると急な坂になった廊下に出た。引き連れた水を頼りに急勾配を降りていくと突然螺旋階段が現れた。ぽっかりと空いた穴を覗き込むと、真っ暗な底から生温い風が顔に吹き付ける。
幾重にも連なる螺旋をマニは延々と下っていく。
不帰路だ。自然と浮かんだ言葉に縁起でもないと頭を振る。地獄に手が届くほどの深さを経てようやく床を見つけて安堵した。
上と比べて不自然に整った広い場所に降り立つ。
真っ直ぐ伸びた縦横に大きな白い廊下に、左右に規則正しく並ぶ部屋の扉があり、ずっと先に小さく両開きの大扉が見えた。順繰りに視線を辿らせたマニは息を吸い込み腹に力を込める。一番奥だ。
静寂が空寒い。しかし体は焦がされるように熱い。
大扉の前に立つ。いかにも重たげな扉にそっと触れると、思いがけない軽さで勢いをつけて前に開いていった。
かつては四角形の大部屋だったことが窺える空間だった。壁面は火事にでもあったのか酷く焦げ付き或いは爛れている。
その部屋の中央には天井から鎖に吊られた、肉塊のような赤黒い物体があった。それは視界の真ん中に収めてしまえば取り返しが付かなくなる不吉さを発している。鼻が曲がりそうだ。マニは努めてそれを視野から外しつつ、部屋の中央手前に佇む片目のない女に声をかけた。
「エルイト……か?」
反響する己の声がやけに大きくて背筋がひやりとする。
確実に届いたはずの問いに女は返答をせず、代わりに別の涼やかな声が応じた。
「その子はシリューシュよ」
振り返ると隻眼の女と同じ顔、しかし両眼は健在な女が嫣然と微笑みを浮かべている。マニは微かに目を瞠ったがすぐさま唸る。
「テメェがベルティオか」
「――変装は周知されているんだね」
やや照れ臭そうに言ってするりと衣を脱ぐように女の姿が変わった。
何の変哲もない白衣を着た痩身の男だった。研究者とはかくあるべしという人々の想像をそのまま写したような姿。どちらかと言えば善良そうな顔立ちが興味深げにマニを観察している。
「然して関わりのない者が来るとは思わなかった。竜殺しの小娘を期待していたんだがね」
口振りに焦りはない。イレギュラーはないと言わんばかりの口調に眉を寄せる。エルイトは偽りでアルクゥを呼び寄せる罠だったのか。訊ねるとベルティオは首を横に振った。
「所謂“人格の乗っ取り”は予想していなかったことだ。しかし下僕は傍らに戻った。何も変わらないさ。私が案じることは何もない」
「アルクゥにビビってんのにでけぇ口叩くなよ」
「私があの娘を恐れていると言ったかな」
僅かに不快を呈したベルティオは、マニの注意が己にないと気付いて軽く笑った。
「何が気になっている? ぞっとするほど美しいシリューシュのことか? それとも」
「黙れよ貧弱野郎。連れ去った奴らはどうした」
「命は一つに。殻は悪食竜の餌だ。本質を返せと言うのであれば、君が気にしているものがそれだ」
煙にまこうとするかのような言い回しに目を眇めると、ベルティオは恭しく手の平で中央を示す。
「近くで見て構わない。あれが私たちの全てだ」
ベルティオはシリューシュの肩を抱いてマニの視界から外れた。
彼らを追おうとした目はまるで定められたが如く巨大な肉塊に引き寄せられる。
表面は赤黒く、青い血管のような線が走っている。心臓を模したような形で、脈動する動きもそのままだ。耳を澄ませば低く、規則的な音が聞こえてくる。守るべき生命の音。だというのに。
マニは割れんばかりに奥歯を噛み締める。
口の隙間から意味不明な音が漏れ出す。確かに自分の喉から発されたにもかかわらず、それは人が出す声ではなかった。それを些末に思えるほど、頭痛をともなう警鐘がマニを苛む。
「あれは、なんだ」
「卵だ。いや外殻は肉なので子宮と言うべきか。生まれ出る直前の」
聞き終えるまでマニの忍耐は待たなかった。
消え失せろ、と血を吐くような叫びと共に中空から水が溢れて渦巻く。槍よりも鋭いその尖端が鼓動を絶とうとして肉塊に深々と突き刺さり――肉塊はぎちり、と震えた。
罅が入る。
隙間から見えたのは光だった。罅から陽色に淡く光る手が突き出し、瞬きの間すら与えず目前まで迫りマニの頬を撫でる。
母親を思い起こさせる柔らかな指先だった。
決定的に異なるのは、与えるものは何もなくただひたすら奪うばかりという点か。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「誰も……何もいねぇな」
「不気味ですねえ。斥候さえないとは」
頭上で取り交わされる会話に耳を傾けながら、アルクゥはより嫌な方角を探り一行の進路を取る。
ラジエル魔導院に侵入してしばらく、険しいと思われた道のりは平坦そのものだった。幸運の皺寄せが後々待ち構えていそうな気がしてアルクゥは不安を募らせる。建物の角を或いは物陰を確認する度に友人の死体がないか恐々とするのも精神をすり減らす要因の一つだった。
雨音さえ吸い込む霧の中、千切れそうなほどに五感を張り詰めて進んでいると、ふと鉄錆びの臭いが鼻を突いた。これは二人にも分かる臭気のようで、ヴァルフとサタナはほとんど同時に足を止める。「下だ」とヴァルフの声に地面を見遣ると、つい先ほどまで透明だった水溜まりが暈けた赤みを帯びていた。赤茶けた石畳で見辛いが、ずっと先から流れてきているようだ。
「魔力が含まれている。毒性がある。人の血液ではありませんね」
サタナが自身の足元を覗き込むようにして言い滴る雨を鬱陶しげに払っている。
ではこの先で何かしらの戦闘があったのだ。アルクゥは未だ霧に隠れた先を見据え、逸るなと言うヴァルフの警告に頷いてから歩みを再開した。
赤を辿って着いた場所は血の海と化している。
朝方から続く雨は消して弱いものではなかったが、それでも押し流すことが叶わない大量の血液は、一見山と見紛う影から溢れているようだ。
それが何か確認しようと前へ出たアルクゥをヴァルフが腕で制する。目線での合図を受けて留まると、代わりにヴァルフが巨大な影に近付いて行った。嫌な動悸を抱えながら見守っていると、微かな驚愕の声の後に来てもいいと許可が下りる。滑らないようにそろそろと近寄り、アルクゥもそれが何か理解して息を呑んだ。
頭部のない巨大な蛇――否、竜だ。
悪食な竜種であるクエレブレ。なるほど、小手先の敵を置かなかったことも頷ける。侵入者側からすればこれほど最悪なものはないだろうが。
「内側から破壊されてる。マニの奴、こんな芸当が出来たのか。にしても頭以外は綺麗に死んでるな。ガルドの婆が見たら喜びそうだ」
大きさからして成体だ。竜鱗の加護は生半可な魔術を弾く。内側からとは言えこのような破壊が出来るのは理外の力を持つ者でしかない。
――無翼竜を押さえるだけで手一杯だったマニにこれは可能なのだろうか。
マニが竜を殺したと理解しながら、一方で疑問がよぎる。
能力を考えれば不思議ではない。危機に瀕すれば力は応える。
しかし、応えた後が問題なのだ。アルクゥは竜殺しとなった際には何日も寝込んだ。身の丈に合わない力を無理やり引き出したからだ。
それなのにマニは先へと進んでいる。魔力を使うことにも物慣れない人間が、古代の大魔法すら凌ぐ力を出して昏倒しないでいられるものだろうか。
不可能だ。
――人の体では。
アルクゥは腕に生えた鱗を撫でる。自分は変化を厭った。なのにこんなものがある。もし変化を拒まずに受け入れていたら、一体どうなっていたのだろうか。
「こっちです。急いで」
周囲を探索しようとする二人に行ってアルクゥは早足に歩き出す。
ここまで来て竜まで殺したのだ。マニはどうあっても辿り着いているだろう。
追い掛けてくる足音を聞きながら閉鎖された研究区画に入る。何の疑いもなく細長い建物に進み、以前侵入したときから組み替えられた迷宮構造の廊下を躊躇いなく突き進む。地獄へ続くような螺旋階段に至り、いっそ飛び降りて時間を短縮してしまいたい衝動を堪えながら下っていった。
底に到着して見据えた正面。伸びる白い廊下の先に片方が開け放たれた大扉を見た一瞬、アルクゥの頭からは不安も焦燥も吹き飛び激しい炎のような衝動が湧き出た。
間違いない。あの大扉の中に歪みがある。
異なる目的に走り出そうとしたアルクゥをヴァルフが羽交い締めるようにして止めた。力強い腕の感触にアルクゥは我に返り、ばつが悪い思いで苦笑を向ける。
「気にすんな。ただ、行くのは一緒にな。そっちの盾も忘れるなよ」
灰色の目を見返すと不思議と心が落ち着く。アルクゥは頷き、しっかりと自分の意思で足を踏み出し大扉の先に至った。
かつては四角形の大部屋だった空間は壁面が焦げ付き爛れている。
その歪な部屋には殊更に歪な物体が鎖に吊り下げられ、真下にはうつ伏せてピクリとも動かないマニの体が落ちていた。