第百四話 鬼宿す繭
翼竜の背から見下ろすラジエル魔導院の有様は繭に似ている。
霧が孕むは禍か凶か。手の平に収まる程の距離があり、風が流れる高空においても異様な臭気が鼻を突く。碌なものではないなとアルクゥは顔一杯に嫌悪を浮かべ、そのまま視線を左右に滑らせる。異様な魔力に惹かれて周囲には次々と魔物が集まってきていた。アルクゥと同じ目線にも何匹か滞空している。
翼竜は竜もどきと揶揄されながらも格は高い。例え魔獣の最高位がふらりと飛んできたとしても襲われることはないが、集まり過ぎた魔物同士が争いを始めて血が流れてしまえば話は別だ。血に高揚する鼻先に魔力を多く含んだ柔らかい人間があれば魔物は食欲を優先する。
エルイトが望んだのは国軍による包囲だというのに、これでは魔物の軍勢による包囲だ。
複雑な思いで見遣った王都に続く道の先、そこには何の影形もない。
王都近くでプリゼペの動きを察知し様子を見に来たユルドは、ラジエルの性質からして元々手が出し難いせいだと言っていた。だというのにユルドはアルクゥを引き止めもせず単独行動を許した。アルクゥが戴く称号を使う代わりに見逃すという小さな取り引きをしたのだ。軍の扇動にでも利用する気だろうか。
しかし、何の企みがあるにしても実を結ぶまで待つ時間はない。時刻は正午過ぎ。夕刻まで数時間あると見るか、数時間しかないと見るか。魔導院内部の状況が分からない現状では後者だ。それなのにプリゼペは一向に地面に降りようとはしなかった。
行くまでは許すが、入らせる気はなかったわけだ。
予想はしていたが、と嘆息する。地面よりも霧のような雨を落とす黒雲の方が近い。
アルクゥは鼻に皺を寄せて地面を睨み付ける。
頬を滑り落ちた雨滴が瞬く間に灰色の景色に吸い込まれて視界から消える。いつぞやのマニと一緒に落ちた崖など可愛く思えるほどの高所だ。アルクゥの魔術で緩衝は難しいかもしれないが。
高さに眩んだ目を瞬かせ手綱をそっと離す。
深呼吸を繰り返し後は悪運に身を任せるだけという段で、野太い悲鳴がアルクゥのいる高さまで届いた。救命を求める声に押されるようにして、アルクゥは翼竜の背を蹴り空に落ちていく。
唸りを上げてぶつかってくる風に息を詰まらせながら地面に向かって手の平を突き出す。
魔力の燐光が稲妻のように宙を駆け下りた。精霊文字が円を描いて術式を作り、それが下方に向かって層をなすように円柱状に展開する。数は多いが質は悪い。
地上近くまで続く数十枚の魔術式は、アルクゥが通り抜けるごとに砕けながらも確実に落下速度を軽減していく。しかし半ばまで落ちると効力の薄い術式が出始め、アルクゥは舌打ちして風を呼んだ。
高い木の梢と並んだ時点で残る術式は魔術未満、再び作り上げるよりも纏う風に注力し、アルクゥはその自身の作り出した風に遊ばれながら何とか地面に転がった。
じんと痺れる足裏に一瞬息を詰めた直後、追いかけてきたプリゼペが大地を割る勢いで着地して鋭く吠える。風圧で舞い上がった木の葉の間から、アルクゥ目掛けて群がろうとしていた魔物が退く姿が確認できた。
不服そうな翼竜に礼を言い、悲鳴の主を探して視線を走らせる。
すると道を少し外れた木の下、蟇か豚かと見紛うほどの太った男が結界の中で身を縮めていた。周囲に何の危険も見当たらない。彼もまた咆哮の恩恵に与ったのだろう。
「た、助けてくれてありがとう! ああ、本当に……もう少しで喰われてしまうところだった!」
結界を解いて近付いてくる男に目を細くする。
確か、自分はこの男をレイス魔導師長が案内役となってラジエル魔導院に侵入したときに一度見ている。魔導師長とはどことなく親しげではあったし、中位以下の魔物に群がられても対処できない辺り敵ではなさそうだが。
「いえ……私ではなくて彼が追い払ったのです」
「彼?」
詰め寄ってくる肉塊を避けてプリゼペを示すと、さも今気付いたと言わんばかりに大げさに驚いてみせる。
「翼竜! ということは、キミは騎竜卿の」
「違います」
有力貴族の血縁ではないと知るや否や男の演技がかった揉み手が止む。男は咳払いをして威厳を取り戻そうとしてか襟元をぴしりと正した。
「私はラジエルで教鞭を執る人間だ。大変な事件が起こってしまった。脱出できたのは私一人のようだ。生き証人としての務めを果たし、大至急国王陛下に事の次第を申し上げねばならん。その使い魔で王都まで送ってくれたまえ」
「そうですか。私と同じ年頃の男性を見かけませんでしたか? 橙に近い明るい赤毛と瞳の」
先んじて一応の確認を取る。すると男はついと重たげな眉を持ち上げた。
「粗暴な青年のことかね? 彼なら朝方、私が共に逃げようと止めるのも聞かず院の奥に入っていってしまったよ。命知らずなことだ。もしかしてキミの友人か? 気の毒だがあの中で生き延びられるとは思えない。私ですら逃げるだけで手一杯だったのだ」
目を瞠ったアルクゥに男は申し訳程度の同情を寄せて「さあ早く」とプリゼペに近づいていく。プリゼペは自らに気安く触れてこようとする人間に低く唸った。止めるまでもなく逃げた男はアルクゥに剣呑な眼差しを向ける。
「何のつもりだ!」
「彼は私に力を貸してくれただけです。使い魔ではありませんし、彼が嫌だというのなら私にはどうにも……それよりも内部の様子は? 何が起こったのですか?」
「キミではなく私が! 直に国王陛下に報告をしに行くのだ」
「当然そうすべきでしょう。私は手柄の横取りなどするつもりは――」
アルクゥは頭を振って止める。言葉を尽くすのが面倒になったのだ。
マニはどういった手段でか朝方には到着していた。
今は正午を過ぎで、半日が経過している。だが魔導院は広い。敵の場所を突き止めるのに苦労しているに違いない――こんなに酷い臭いがしているのに?
霧の奥にはエルイトが言うように化け物がいる。となればアルクゥと同種の力を持つマニは、どうあがいてもそれを見逃しようがない。
指先が冷えていく。
アルクゥは鞘から短剣を抜いた。肩を揺らして自らを守るように両手を前に出した男の足を無造作に蹴り払う。一見錆びているかのような黒い刀身は魔力を込めれば鋭利に輝き、艶のあった男の頬から色を奪った。
「なっなっなにを」
これ見よがしに逆手に持ち直して一歩近づく。
肉が邪魔して起き上がれない男はアルクゥを見上げながら這いずって逃げ、木の幹に退路を阻まれて焦りを深くし、不意に小さな目を怒らせた。
「悪逆非道な輩め! もしや貴様も邪教の一派だな! 私は! 屈さない!」
「魔導院の内部で何が?」
震えてはいるが口を閉ざす余裕はある男を見て下手だなとアルクゥは内心頭を抱える。逆効果だ。情報無しで魔導院に入るしかないのだろうか。
短い逡巡を終えようとしたとき、視界の端でプリゼペが首を空に反らした。風が吹き荒れ、顔を片腕で覆うと同時に真横に二頭の翼竜が着地する。
――時間を掛け過ぎた。
目を離した隙に男は這って逃げていく。翼竜から降りた人影の一つに歓声を上げながら縋りついた。
「サタナ司祭! 助かった、そこの兇徒を捕まえてくれ!」
「おや、これはブルフォニア殿。竜殺しの英雄と何か諍いでも?」
「……英雄? あんな小娘が?」
サタナがさり気無く膝で押し遣り地面に転げた男は、両手を突いたまま驚愕の目でアルクゥを見る。
アルクゥは気まずくなって視線を逸らしながら駆け寄ってくるユルドからも一歩逃げた。高所から飛び降りて刃物で人を脅して、ここまでやったのに今更止められたくはない。ユルドはむっとした表情で立ち止まりプリゼペを呼ぶ。翼竜はのそのそと主人の元に戻り、これでアルクゥの味方は消えた。
「それで、軍は動きましたか」
「それは勿論。頑張ったもの。今こっちに向かってるから少しだけ待てないかな。中は敵でいっぱいかもしれないし、それじゃあ一人だと多勢に無勢でしょう?」
マニが行ったから二人だと溜息まじりに答えればユルドは「えっ」と短く言ったっきりサタナに判断を仰ぐように振り返る。微かに眉を寄せ不機嫌が窺えるサタナはアルクゥを見据えて口を開きかけ、ふと上を見た。
アルクゥもつられるように見上げた先、吹き降りてくる風にすぐ目を閉じる。重たいものが近くに落ちた音を聞いて薄く瞼を上げると、風の余韻を残して揺れる茶褐色の短髪に鋭い灰眼がアルクゥを睨み付けていた。順序を逆にして降りてきたヴァルフの乗ってきた翼竜は不満げに一声鳴いてユルドの元に帰る。
「早いね」
「何してんだお前」
来るとは思っていた。が、拠点に残った翼竜は一頭で使うとすればヤクシとの相乗りだ。速度は落ちる――はずだったのだが、ヤクシ自体が見当たらない。あの生真面目な男が護衛の仕事を放棄するわけがないことを考えれば、ヴァルフが何をしたのか自ずと知れる。
ヴァルフの勘気から目を逸らさずにいるのは恐ろしく胆力が必要だった。今回は本当に怒っている。視線を逃がしてしまえば最後、次に瞬きをした時には自室のベッドの上で呆けているということになりかねない。
「……マニがもう到着していた。随分時間が経っているのに出てきていない。とにかく中の様子を知ってからと」
「行く前はマニが先に辿り着くなんざ思っちゃいなかっただろ。もう一度聞くぞ。たった一人で、何をするつもりだったんだ?」
ぐっと唇を噛み拳を握る。目の奥が熱い。
「ベルティオを――殺そうと思って」
落とされた長い溜息がヴァルフの心情を表していた。怒気が収まる答えでないことは承知の上、アルクゥはヴァルフを睨み返す。
「勝手な行動も大概にしろよ。場合によっては死ぬより悲惨な目に合う。相手は特別、お前を気にしてるんだ。殺しに来る程度にはな。なのにわざわざ敵地に乗り込もうとしてお前は馬鹿か。捕まったらどうする。嬲られて殺されて、それで終いならまだ良い方じゃねぇのか」
「そうかもしれないね」
「テメェが動いたのは聖人サマとしてか? それとも友人を助ける英雄のつもりか? 持て囃されてる“竜殺し”にでもなった気じゃないだろうな」
アルクゥは思わず笑う。そういう綺麗な理由で動ける人間には到底なれそうにはない。虚を突かれた様子のヴァルフに首を振った。
「そういうことじゃない。どうせベルティオは私を狙う。それなら場所が分かっているときに終わらせてしまった方がいいと思っただけだよ。それに」
一度言葉を切って大きく息を吸い込むと、先程よりも腐臭が強かった。
「嫌な、臭いが」
「……臭い?」
「泥と腐った肉を煮込んだような……ああ、そうだった。これは」
今更ながらに思い至る。
――これはアルクゥが最初に嗅いだ死臭だ。
落ちてきた下半身だけの兵士の死体、宙を不気味に飛ぶ海魔の発する血と肉の腐った臭気。なるほど嫌な気分になるわけだと怪訝そうなヴァルフを置いて納得し、苦笑する。
この力は決してアルクゥの味方ではない。平時は思うままに操れるが、歪みを前にすればひたすら力の主が役目を果たすように機能する。
「私たちには抗えないものがある」
ヴァルフの耳に声の震えが届きはしなかっただろうか。ヴァルフにとってアルクゥは保護すべき弱い人間かもしれないが、アルクゥにとってヴァルフは虚勢を張りたい相手だった。最後かもしれないのに、みっともない姿は見せたくない。
「聖人がどうとか言うつもりはないけれど、力が特定のものに反応するのは本当のことなんだ。私はガルドさんを乗っ取っていたものを前にしたときがそう。どうしようもなく憎くて恨めしくても……何を犠牲にしても消し去ってしまわなければならないって」
「今はどうなんだ」
「そうでもない。けれど、マニは今回がそうなのかもしれない。私たちは与えられた目的が違うらしい」
ヴァルフは一瞬悲しげに眉根を震わせて吐き捨てる。
「だったら、馬鹿正直に従う必要がどこにある。無視できるなら何でそうしようとしない。押し付けられたもんなんて捨てちまえばいいだろうが」
「そうかもしれない。損だとは思っている。従うつもりもない。だけど逃げてもいつの間にか辿り着いてしまうものなんだろうと思う。私たちが何事もなく安全に生きたいと思うのであれば、分厚くて高い塀がある屋敷の中に籠っていなければならないんじゃないかな。思い返せばお母様が私用で外出したことなんて数える程しかなかった。その生き方を否定するつもりはないけれど」
母の世界は父と結ばれた時点で酷く狭くなってしまったのかもしれない。幸福そうな二人を見ていた子供の眼には映らなかった裏側。母は閉じた世界による穏やかな生活を選んだ。けれど自分は開かれた世界が欲しい。
「私はヴァルフに会った頃の私ではない。こちらの法律だって知っているし自分で怪我の手当てだってできる。人を殺すことにも慣れた。だから」
視界の端でサタナが目を伏せる。
ヴァルフは苦い顔で瞑目し、続くアルクゥの言葉を聞いた。
「ベルティオはここで討つ。そうしないと私の一生に陰を落とし続ける。だから行く。誰の為でもなく私の為に」
ヴァルフはどうにかして決意を鈍らせようと言葉を絞り出す。
「敵が……待ち構えているかもしれない」
「これでその人から内部の様子が聞けると思ったんだけどね」
手の中で揺らした短剣に目を落としたとき、武骨で大きな手がそれを取り上げていった。驚いて顔を上げると、ヴァルフの灰色の目と視線が合う。何の反応も返せないアルクゥを置いて背を向けたヴァルフは未だ座り込む太った男に近付いていく。
「聞いての通り、霧の中に入る。状況を教えてくれ」
「なっ貴様、私に近付くな! 教えんぞ! サタナ司祭、こいつらをどうにか」
我関せずの顔をするサタナの足元で喚く男の様子にヴァルフは目を眇め、処置なしと首を振って男の胸ぐらを掴んだ。軽々と持ち上げ、木の幹に叩き付ける。
爪立った男は苦悶し、眼球の一寸先に突き付けられた短剣から顔を逃がそうとする。
「やめっ……」
「中で何があった」
慣れを感じさせる淡々とした口調は本能に危険を喚起させる。飽食による肉に包まれた男の鈍い神経にもそれは届くものだったのだろう。矜持は崩れ、内部の様子を事細かに喋り出した。
アルクゥは脱力して座り込み、瞼を手で覆う。
「大丈夫ですか」
音もなく寄ってきた声の主を見上げる。気遣わしげな表情が似合わない御仁だとサタナを評しながら頭を下げた。
「お礼がまだでした。大聖堂では助かりました。ありがとうございます。なぜここに?」
片耳に男の話を聞きながら小声で問うと、
「逸早く異変を察した英雄が単独でラジエル魔導院に向かい、義侠心に心打たれた軍人たちが命令違反と知りながら後を追って」
「止めてください。何となくわかりました」
「おや、そうですか」
残念そうに言ってから以降口を閉ざす。アルクゥも大人しく気力を回復させながらラジエル内部の状況に耳を傾けていた。
全てを喋り終え解放された男は脇目も振らず魔物の群れへと逃げようとしたのを、再度ヴァルフに捕まり気絶させられる。それを差し出されたユルドは迷惑そうにヴァルフを見返して渋々翼竜に運搬を命じていた。
「私もご一緒させてください」
土を払い立ち上がりながらアルクゥは首を傾げる。
「指揮を執るために来たのでは?」
「この魔力濃度ではほとんどの者が踏み込むことすら難しい。軍の仕事は魔物退治と包囲だけでしょう。ユルドと後から来るヤクシにでも任せます。構いませんか?」
「それは、心強いですが……」
そもそも建前上兵の命令違反を収めに来た指揮官がそんな勝手をしていいのかという疑問が先に立ち困惑するアルクゥに「有り難く盾にしとけ」と一仕事終えてきたヴァルフが素っ気なく言う。
「俺も行く」
「ヴァルフ。ごめんね」
ヴァルフは仕方ないという風情で微かな笑みを浮かべた。
「別にいい。怒って悪かったな」
「こうも対応が違うと少し納得がいきませんねえ」
「テメェは黙ってろ」
そうして三人は霧の前に立つ。
深呼吸をして悪臭に顔をしかめたアルクゥは優しくすら見える乳白色の塊に手を伸ばす。何の拒絶も感じず手の平は埋んでいく。とろりとした霧の繭は来訪者を拒まず、待ち望んでいたとばかりにずるりと呑み込み――。