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精霊のシジル  作者: 染料
六章
101/135

第百話 狂信の行方



 石の聖女は右目を手で隠し、一拍置いて切なげに眉根を震わせた。黄褐色の左目は虚ろに焦点を揺らして定まらない。


「ほら、こうしていても何も見えない。片方だけでは不完全なのでしょうね。人が生まれながらに持つ目は二つで一対。ならば両方揃えてこそ」


 魔眼の表面に浅く爪を沈ませて引っ掻く。異物を排出しようと落涙する眼球はやがて白目部分すらも充血し聖女の右目はどこまでも赤い。


「ま……待ってください。話がよく」

「あなたにはわたくしの魔眼を差し上げるわ。片目は不便ですもの。お気になさらないで。わたくしには不要になるものだから」


 聖女は間に横たわる応接用の豪奢な机越しにアルクゥに手を伸ばす。白魚のような指先が右目に向かって不気味に泳いでくる。顔を逸らしたいのに首の筋肉が硬直して動かない。整えられた爪先が涙膜に届くか否かのところをマニが払い除けた。難を逃れたアルクゥはばくばくと脈打つ胸を強く押さえる。


「ごめんなさい。年甲斐もなく浮かれてしまって」


 聖女は動きかけた護衛を制止して非を詫びた。

 マニは鋭い猛禽類に似た目を油断なく聖女に据えながら、一方で聖女に触れた手の甲すらおぞましいばかりにしきりに服で擦っている。このまま聖女に話の主導を握らせ続ければ遠からず爆発するだろう。マニはそういう類の我慢ができない。

 このままではいけないとアルクゥは思い付くままに訊ねる。


「なぜ魔眼を手放してまで私の目を?」


 狂人相手に馬鹿馬鹿しい質問だと思ったが、聖女は違う意味で落胆したようだった。軽蔑と憐みの目でアルクゥを見詰める。


「そう。あなたはまだ幼くて無知なのですね。価値を知らぬ者の元にあるよりも、やはりわたくしが貰い受けるべきなのでしょう。ハティは心得ていたというのに……神の世界を知る目は、信仰深き者が所持こそ真価を発揮すると」


 アルクゥは顔をしかめた。ハティのそれは皮肉ではないだろうか。大聖堂を三階層ほど消し飛ばした人間がそんな殊勝なことを言うわけがあるまい。これに聖女は「術式の痛みに混乱していたのでしょう」と盲目甚だしい。


「ではその神の世界とやらを見るために?」

「ああ――愚かしい。本当に」


 ことごとく不快の琴線に触れてしまい聖女の態度が硬化していく。アルクゥは一旦口を閉ざし最善を模索する他なかった。

 ――認識が甘かったことは否めない。

 ここまでと思いはしなかった。聖女に話を提案された時に内容についていくつかの予想を付けたがその全てとかけ離れている。目玉が欲しいなど――否、聖女の左目を見ればまず最初に思い付けたはずだとアルクゥは苦虫を噛み潰す。人から伝え聞いた狂気が見当たらず、至極まともに言葉を返すものだから、常軌を逸しはしないだろうと除外してしまったのだ。話が通じる人間だと思ってしまった。

 アルクゥは嫌悪を伴う本当の意味で思い出す。この怪物はまさしく母の誘拐を企てた首魁なのだと。

 こんなはずではなかった、とは言わない。対面した時点で何か犠牲を払わなければならなかった。そしてそれは、拠点の様子を見に行きたいと我が儘を言ったアルクゥが負わねばならない責だ。

 深く息を吐き出してお腹に力を入れた。相応の覚悟を、命を懸けるつもりで対話しなければ石の怪物に一呑みにされてしまうだろう。

 まずは話を合わせるべきだとアルクゥは俯けていた視線を上げる。

 聖女は己に対する不敬には鷹揚だが僅かにでも神にまつわるものを軽んじると憤る。それを念頭に置いて慎重に口を開いた。


「……失礼いたしました。ですが神の世界は、幽世は本来人が目にしてはならない世界です。理を曲げて求めることは、その……神に背く行為ではないのでしょうか」


 反応を待つ素振りで握り合わせた両掌はじっとりと汗をかいている。

 ――聖人の目に挿げ替えたところで幽世は見えない。

 十中八九聖女は知らない。言動からして、両目とも聖人の眼球に挿げ替えれば幽世が見えると思っている。アルクゥたちでさえ境界を越えなければ見えないというのに。

 否定するか――いや、分が悪い。己の信ずるものを否定されたら耳を傾けるどころか激昂しかねない危うさがある。

 聖女はゆっくりと、満足げに顔に笑みを灯し直した。


「その疑問は大いに理解できます」

「なにか根拠がおありなのですか?」

「ええ。神が人に与えたあらゆる慈悲の中で最も尊い現象を目の当たりにしたからです。わたくしたちは神の御許へと続く道に踏み入ることをとうに許されている」


 真摯に耳を傾ける振りをして続きを促す視線を送る。だが聖女の恍惚とした表情からして小細工がなくとも話は止まなかっただろう。


「十年前にとある魔術師と出会いました。母なる獅子霊の愛を受けた聖人が現れたという話を聞き、わたくしが愚かしくも信仰に迷い妬みに狂っていたときです。その者は、わたくしに手を差し伸べた。神の世界を見せてあげよう、と。常なら一笑に付す言葉をどうして信じたのか今でもわからないわ。半信半疑で手を取った瞬間、世界は光に満ちた。たった一瞬だったけれど、今でも目を閉じれば瞼の裏に思い浮かぶ……」


 瞼を閉じて胸に手を当て噛み締めるように言う。


「光の力強さに気を失ったわたくしが目を覚ました時、彼は牢屋で責苦を受けていた。わたくしに危害を加えた罪人として。急いで助け出した彼はわたくしを恨みもせずに言いました。人の歩みはついに神の御許に至るまでになったと。ふふ、初めは女性の幻影なんか纏って可笑しな子だと思っていたのに。誰よりも優秀な魔術師でした。わたくしの人生に光を与えてくれた」

「ベルティオですか」

「ええ」


 アルクゥは自身の手の付近を睨み付ける。

 相好を崩した聖女の言葉は、ベルティオが少なくとも十年以上前からあの女性の似姿を使用していることを示唆している。あの女性が同時期からベルティオの近くにいることもだ。

 十年間。あのように幽世を使い光を浴び続け人として在り続けることが可能なのだろうか。アルクゥが思うほど彼女は幽世に入ってはいないのか、それとも――対策を知っているのか。例えば協力者であるベルティオが契約によって従属させた者に、彼女に頭の中全てを渡すように言えばどうだろうか。

 そこまで考えて握り合わせていた両手を組み直す。私が知りたいのはもっと別のことだ。

 アルクゥはかさついた唇を舐めて湿らせた。


「――公爵夫人を誘拐しようとしたのも歩みを成就させる一環であると?」

「ご母堂様に対して他人行儀な呼び方をするのね」


 アルクゥの舌打ちが部屋に響く。やはり母娘関係を知っていたのか。


「いいえ、無関係です。あれはベルティオの提案によるもの。お招きする方法があると訊いてわたくしが許可を出しました。まさかあのような乱暴な手段を取るなんて思ってもみなかった。……けれど、あなただけでも異教の地からこちらに移せたのは幸運でした」

「ゲスな誘拐犯の分際でよくもいけしゃあしゃあと!」


 勢いよく腰を上げたマニにしがみ付く。そのやり取りに目を和ませる聖女が癇に障り皮肉まじりに問う。


「なぜ母を招く・・必要があったのか聞いてもよろしいでしょうか」

「聖人の招聘は国家のためを思っての行動でした」


 戦争が起きる瀬戸際だったというのにそう言い切るか。アルクゥの怪訝な眼差しにも聖女は迷わず頷いた。


「国が乱れ堕落しようとしているというのに。信仰の下で一致団結すべき国民の関心は余所に向けられていました。時代の流れとは恐ろしいものね。デネブなどという信仰を否定する都市が火を付けられず許されてるのだから」

「……デネブ近辺を黒蛇共の実験場にしたのは貴女の提案ですか」

「神を侮る人間に天罰は下るものです」


 紙面には笑顔でデネブに訪れた聖女の絵が刷られていた。住人に声をかけ竜害や魔物の被害を労いもしたらしいが。慈悲深い仮面の裏など所詮こんなものだ。


「わたくしは未熟な人の子らには分かり易い神性が必要だと考えました」

「聖人ならばハティさんがいたでしょうに」

「彼は軍部の人形よ」

「戦争を、起こすおつもりでしたか」


 聖女は優雅にほっそりとした首を振る。


「そうなっても構いはしませんでした。けどグリトニルは弁えたようね。小賢しいこと」


 憤慨し糾弾すべきなのだろうが、全く異種の思考を前に何も言葉が出てこない。気力を根こそぎ削いでいく徒労感を覚える。

 それでも問い続けねばならない。調子良く喋るこの女から少しでも情報を引き出さなければ。

 どうせ失くしてしまうであろう片目と引き換えだ。

 聖女は拒否される未来を予想しておらず、ゆえにその選択肢を用意していない。どれほど会話で引き延ばしても同じだ。部屋を見回せば、重くて分厚そうな扉の前には聖騎士が三人、聖女の後ろに二人。頼み事という体を取っているだけましだ。

 アルクゥは未だ中腰で立つマニの服を掴み直す。


「ベルティオと協力関係にあるのなら襲われたのは演技ですか」

「いいえ。わたくしと彼はすでに袂を分けています」


 思い掛けない答えが返ってくる。目を丸くしどういうことだと重ねて問うアルクゥに聖女は、


「彼は決して許されないことをしようとしている。教会も彼を追っています」


 あれほどベルティオを絶賛した口が刻々と冷笑に変化していく。美しく刻まれていた皺が醜い傷跡のように歪んだ。長い生の中で積み重ねた負の感情を凝り固めたがごとくの怪物と呼ぶにふさわしい凄絶な表情がそこにある。


「ベルティオは精霊を作り出そうとしている」

「……精霊になろうとしているのではなくて?」


 思わず聞いてから冷たい視線を受けて竦む。

 ヒルデガルドを乗っ取った女の話を思い出したのだ。彼女は自分が人を越えたと言っていた。ゆえにベルティオも同様の志を持つのかと考えたのだが、違うのか。

 幸い聖女は矛先をアルクゥには向けず不愉快げに否定するだけだった。


「それほど身の程知らずではないでしょう。思えば、廃域の核に興味を示し始めたのが前兆だったのかしら。彼の興味は幽世に至ることよりも、幽世の中にある力をいかにして使うかに移っていったように思えます。たしかに素晴らしい力なのでしょう。

 特定地域の出生率を変え、天候を変え――火山の噴火で島一つが消えたこともあったわね」


 ふっと両手にかかっていた負荷が消えた。膝の力が抜けたような座り方だとマニを見ると、円い目を大きく見開いて息を殺していた。聖女はその間も喋り続ける。気付いていないのではなく、元より視界にも入れていない振る舞いであった。


「同時期、ベルティオは厄や死霊など汚らわしいものを使い始めました。人が幽世に至らねば意味がないといくら言っても聞く耳を持とうとしなかった。もしかするとこのまま研鑽する方向を曲げてしまうかもしれないと、わたくしは不安で、それは現実のものとなりました。わたくしは絶望していた。そこに」

「ハティさんが来たのですね」

「そう。眼球と知識を交換してほしいと」

「それで……見えたのですか?」

「ええ。大聖堂が崩れる直前に、ハティに寄り添う大狼霊の姿を」


 聖女の妄信はハティが元凶か。禍根を残してくれたなと小さく悪態を吐いたとき聖女が立ち上がる。


「――お喋りはお終いにしましょう」


 目の奥が鈍い痛みに疼いた。

 瞼を切り開かれて無防備な眼球を摘出される――石の聖女バルトロメアの赤い眼差しはそんな無痛の想像にすら実体を与える。

 渡すとするならば左目か。無理が祟ったのかよく乾きよく霞む。

 震えるなと拳を握る。目玉一つで事が済むのであれば安い。

 用事が終われば聖女は誓いに従ってアルクゥらを帰さなければならない。目の提供後の心配はない。アルクゥは諾としたその先を思案しながら無意識の内に左目に触れる。その動作をどう解釈したのか、右の視野で聖女が目尻に笑い皺を寄せながら鏡写しにアルクゥの動きを真似た。


「そういえばハティさんは……目と引き換えに知識を貰いましたね」

「ええ。あなたも欲しいものがあるのかしら? それなら何でも仰って。きっと望むものを用意しましょう」


 聖女からの条件に暗い気分で考える。

 何でも望むものを。何が良いだろうか。自分は何が欲しいだろう。財や宝石の山がいいだろうか。

 アルクゥは俯き、閉じた左瞼に爪を沈ませて笑った。くだらないものを要求するよりも、そうすべきだ。


「黒蛇の徒とその息が掛かった者たちの殲滅、及び彼らが撒き散らした災厄の排除を。国王に協力してください」

「ああ……あなたは高潔な人なのですね」


 聖女は下瞼を押し上げ弦月のような瞳の形でうっそりと微笑み、了承して自己契約にて誓いを立てた。

 聖女に背中を押されて扉に向かう。マニが伸ばした手を柔らかく押し留めたとき扉の方から開いた。大聖堂の聖職者がアルクゥを胡散臭げに見てから聖女に耳打ちをする。


「お客様にお会いしてから行くわ。先に処置室に行ってお待ちになって。案内を」


 聖女は聖騎士にアルクゥを連れて行くように命じて貴賓室に残る。

 マニが心配で少し抵抗したが、無情にも扉は固く閉じた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 護衛の聖騎士すら人払いした部屋で聖女は椅子に座っている。

 ふと視線を感じた方向を見ると、壁に背を付け聖女を仕留めるか否かを考える青年が目に入った。とても純粋そうな子だ。聖女が視線を合わせて微笑むと青年は面食らった顔をし、意を決した様子で魔力を練り始める。濃厚な水の匂いが部屋に広がった。

 赤い魔眼には透明な魔力が渦を巻いて映っている。久しく見ない綺麗な魔力だ。阻止するのは簡単だが何を形成するのか気になる。聖女はそうして様子見を続けたが、しかし結局魔力の完成を見ることはなく客人は到着した。


「死にそうなふりは終わったの?」

「今も充分死にかけですよ」


 護送される罪人のように聖騎士らに連れてこられた客人は演技がかった調子で腹部を押さえた。彼の瀕死の報を聞いて快哉を叫んだ者も多いだろうに、当人は素知らぬ顔で生きている。実際はどうだったのだろうと聖女は小首を傾げた。王宮の騒ぎは相当なものだった。あれを偽りとするのであれば偽装の手腕に舌を巻く。だが本当に生死を彷徨う怪我を負ったのであれば。


「そう。大変ね」


 微かに香る血の臭いに聖女は心からそう言った。

 青年は客人を見て唖然と口を開けている。知り合いかと尋ねれば客人はお座成りに頷き、自身が来る直前に青年が発した魔力の痕跡を嗅ぎ取ったのか大人しくしていなさいと宥めた。

 断りもなく対面に座った傍若無人な客人に聖女は快く話題を振る。


「北領の後片付けに手間取っていたのでしょう? あれも愚かなベルティオか、その仲間の仕業かしらね」

「契約を結ばされた人間が何人もいたようです」

「あら、それは大変だったわね。主従契約は絶対ですもの。彼らは、わたくしの聖騎士たちとは違って騙されたのでしょうけど。可哀想に。ベルティオは契約時に魂まで縛ると言っていたけれど、本当にできるのかしら?」

「さあ」

「あなたが嫌に慎重に動いていた理由がそれなのでしょうけど、でも少し遅いのではなくて? 事態はあなたの数歩先まで進んでいるのですよ」


 説教じみた言葉に客人は苦笑をこぼし、決してそうとは思っていない礼を返した。


「どうも御親切に」

「どういたしまして。わたくしはあなたが気に入っているの。聖職者を唆して宝具を盗み出させたことを見逃してあげるくらいには」

「あれは宝具というわりに予備がいくつもあるから平気でしょう」


 悪びれることもせず平然としている。常の聖女であれば眉をひそめて諌めるその態度にも今は楽しげにすら思える。客人の応対を終えれば後には理想が待っている。恋い焦がれた聖職にある者としての到達点を前にすれば全てが些細なことなのだ。


「それでご用件は何かしら? わたくしはこの後に大切な用事があるからあまり長くはお構いできないのだけれど」


 客人は白い面で聖女を凝視してから、ふと無造作に取り出した瓶を机に転がした。聖女の片手ほどの硝子瓶には暗い赤色の液体が満ちている。その中には揺ら揺らと丸い影が漂っている。


「これは?」


 何なのかは一目で判別できた。よってこれはたんなる確認だ。なのに客人は思い掛けない言葉を返す。


「聖人の目玉が欲しいのでしょう?」


 つい数時間前の自分ならば浮かれたであろう言葉は、竜殺しの目を手に入れたも同然の今になっては何の魅力も感じられない。しかも保存してあった眼球と生きた素材のまま処置室にある眼球とでは鮮度が大違いだ。それに本物であるとも限らない。

 一応、瓶を手に取り魔眼に近付ける。赤い液体で濁って見えるが海を切り取ったような美しい碧眼らしい。液体の中でゆっくりと回転して聖女を見据える。

 聖女は静かに硝子瓶を置いて視線で意図を問う。客人は良くない笑みを顔に張り付けて白々しく眼球を手で示した。


「処分しようかと考えましたが、子爵の目を欲しがっていたことを思い出しましてね」

「嘘は許しませんよサタナキア。あなたがいつこんなものを手に入れる機会があったというのです。それにわたくしは」

「宝具を持って来させればいいでしょう」


 話はそれからだと言わんばかりに手を払う。

 聖女は訝しみつつもそこまで言うのであればと外の聖騎士に命じて宝具を持ってこさせる。


「嘘であれば、それなりの対応をいたしますよ」

「どうぞご勝手に」


 興味のない風情だ。この時点で聖女は真を確信し、かつての側仕えを石にしなくて済むと喜びながら眼球に宝具を近付けた。

 石板に入った硝子色の亀裂が脈を打つように淡く黄金に輝く。

 聖女は零れ落ちんばかりに目を瞠る。これは。


「まさか」

「獅子霊の加護を受けた目玉だ。――欲しいでしょう?」


 怪しい囁きが聖女の欲の天秤を傾ける。竜殺しの目などもはや塵屑同然に思えた。聖女は口内の唾を飲み込み、上擦りそうになる声を努めて抑え込む。目の前で手放しに喜んで良いような簡単な相手ではない。


「何が……お望みかしら」

「そこで固まっている彼と、処置室に連れて行かれた彼女を無事に帰して今後一切関わらないでください」


 どんな難題を求められるのかと思えば、そんなことか。

 最高の交渉材料を手放してまで随分な肩の入れようだと年寄りの下世話じみた揶揄が浮かぶも、目前の至宝に言葉は全て攫われる。了承を求める客人の声にも適当な言葉を返し聖女は瓶に頬を摺り寄せた。


「ああ、感謝します神よ……!」



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「私はこれで失礼します。マニ、行きますよ」


 どこまでも耳にこびり付く声に嫌悪を向けたサタナはマニを連れて大聖堂を出た。

 矢継ぎ早に質問するマニにここでアルクゥと待てと言い含め、自身は少し離れた場所で待機するユルドに近況とこれからの敵方の動きの予想を大まかに伝える。追い詰められたラジエル魔導院には特に注意するように言ったとき、大聖堂の大門からアルクゥも無事に出てきた。狐につままれた顔でしきりに大聖堂を振り返り首を傾げている。


「では引き続き頼みます」

「二人ともサタナ様のこと気にしていましたよ」

「それは重畳」


 ユルドは心底呆れ返った顔をしながら翼竜の首筋を叩く。翼竜は仕事かと張り切って体を伏せた。

 サタナは鞍に跨り再度二人の方を見遣る。ちょうどマニがこちらを指さしており、アルクゥがつられるように視線を移動させる。

 金色の目が自分を映し――サタナは口元を緩めて表情の変化を見届けてから翼竜を飛び立たせる。ユルドが間に合わせてくれたことに心から感謝した。


 ――聖女とはいえ敵は多い。

 王宮への空路を行きながら考える。

 強力な魔眼なしにどうやって生きていくつもりだろう。それどころか、視力すらも失くすのだ。左側に対する反応が鈍かった。恐らくハティから貰い受けた目は見えていない。自分が渡した眼球も確実に光を映さないだろう。あれは損傷が激しい。ましてや、幽世の目視など完全に不可能だ。

 聖女は暗い世界で何を思うのだろうか。

 それを考えると僅かにだが同情を覚える。彼女にしてやれることがあるとすれば――。

 サタナは聖職者らしい優しげな笑みを浮かべた。

 聖女は光を失ったと広く耳打ちをして回れば良い。あとはサタナの関知するところではないが――予想としては、数多の人知れない見舞いのいずれかが聖女を苦悩から解放するだろう。

 些か地味な幕引きとなるが、信仰に狂い上ばかりを見て下を踏み躙ることを厭わなかった人に非ざる怪物だ。その行く末など所詮はその程度の価値しかない。


 

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