第九十九話 絶世の人
女は色褪せている。
およそ場違いな美しい聖職衣も膝で揃えられた綺麗な指先も、ともすれば振る舞いすらも徹底して褪せて古びた部屋に溶け込む。ただその眼差しだけが、別次元の生物の眼球を繰り抜き白い面に嵌めこんだような異質さを持っていた。
気味が悪い。なのに頑なに視線を逸らさねば吸い寄せられてしまう引力がある。
見てはならない。しかし危険なものから目を離すことは愚かしい行為だ。
口元だけ見れば完璧な淑女の微笑を湛えたバルトロメア大司教――石の聖女はアルクゥを捕らえていた視線を遠くに移す。「お二方は急ぎの用事かしら」と残念そうに眉を下げた。ヤクシも一瞬同方向を見て僅かに眉を開く。メイとトゥーテが逃れたのかもしれない。しかし遠見もできるとは厄介な魔眼だ。
「お掛けになって、と言ってもあなたがたのお家なのですけれどね。ふふっ図々しいお婆ちゃんでごめんなさいねえ」
硬直する空気に不似合いな明るい笑いが零れる。
全員が対応を見極めかねる状況だった。
敵であればヴァルフが動く。ただの不法侵入者ならヤクシが拘束するだろう。だが聖女は友好的な態度でアルクゥらに接しており、尚且つ無碍に扱えない権力者でもある。斬りかかるなどもっての外だ。
アルクゥはしばし考えてから止めるヴァルフをやんわりと押し除けて部屋に入る。ヤクシが止めなかったので悪手ではないのだろう。話し合いを求めるのならば応じるのが礼儀で、面倒なくお帰り願う為にはこれが一番良い方法だ。
かくしてアルクゥは誘拐への報復を叫ぶにはあまりにも接点と確証が足りない者と二度目の相対を果たす。聖女は一歩前に出たアルクゥに異色の双眸を慈愛で細めた。
「わたくしのことを覚えていらっしゃるかしら」
「ニコラ司教の屋敷で一度拝謁いたしましたね、聖女様。大聖堂の崩落事故に巻き込まれたと聞いております。もうお体の具合はよろしいのでしょうか」
「ありがとう。皆のお蔭ですっかり治ったのよ」
前に、と対面を手の平で示されて座る。アルクゥの一動たりとも見逃さないように追いかけてくる視線が息苦しい。
「輝くように綺麗になったわね。年頃の娘さんは皆そう。少し見ない間に花を咲かせてしまうわ。恋をして、愛を育んで……神に選ばれたあなたが人と変わらずそうなのだから、やはり神は人の心を識る慈悲を持つのでしょう」
「ご用件は」
「あらあら、こういう話題は苦手かしら」
唇に指先を添えて笑ってからまた遠くに視線を移した。それを追いかけたヤクシの魔眼が大きく見開かれる。空間が低く鳴動して窓が慄くように揺れる。ヴァルフが片腕にアルクゥを庇い剣呑な視線を滑らせる。
聖女は微動だにしない。
「そう身構えなくても大丈夫よ。空間を繋げている音だから。とても大切なお話があるの。だから大聖堂にお招きしようと思って」
ヤクシが遠くを見たまま眉間に皺を寄せる。「転移門か」と零した呟きを「目が良いのね」と聖女が拾いギョッとしていた。
転移門とは双方向に行き来が可能なトンネル型の転移術式だ。繋げる二点の距離、維持する時間と大きさで必要魔力は変化する。人一人が通れる大きさを形成し、一時間維持しようとするならば、大都市が消費する一か月分の魔石が必要だ。何度か戦争利用されたようだが費用と実用性が釣り合わないのですぐ廃れた移動手段だった。
一人で形成可能なものではない。
「十人いる。半数こちらに来るぞ」
ヤクシが小声で警告する。
時をおかず重い靴音が複数近付いてくる。拠点を踏み荒らされるかのような音にアルクゥはぎりと歯噛みする。
ヤクシの言葉通り五人、傭兵のような恰好をした男たちが訪れた。聖女とは違い好意的でない視線をアルクゥらに向けて聖女を守るように控える。
一気に張り詰められた緊張の中で、聖女はやはり場にそぐわない朗らかな声で言う。
「このような格好をしているけれど、わたくしの頼もしい聖騎士たちです。準備はできた?」
「作業の大半は終了いたしました。後は繋がるのを待つだけです大司教閣下」
「そう。ご苦労さま」
同行は決定事項のように振る舞う聖女たちが業腹だったのだろう。ヴァルフが声を上げる。
「誰も行くとは言ってねぇよ。日を改めろ。話はそれからだ」
「無礼な」
いきり立つ聖騎士にヴァルフは一目でそれとわかる嘲笑を向ける。
「勝手に他人の家に入る輩に言われたかねぇなあ。しかも大嘘吐きときたもんだ。次の月陽樹に到着したってのは偽物か。聖職者は胡散臭くあるべしとでも教義に書いてあるのかね」
見え透いた挑発に怒りで顔を赤黒く染めた一人が強くヴァルフへと踏み出す。聖女は首だけ反らして男を見上げ、
「跪いて謝罪なさい」
唐突に、背中に鉛の塊でも乗せられたかのように両手と両膝を床に打ち付ける。
肉の中で骨が砕けるくぐもった音がした。手首が折れたか膝が割れたか。ぞっとする空気の震えが耳朶にこびり付く。男を迎撃しようと身構えていたヴァルフの笑みが消え嫌悪の表情に挿げ変わる。
男はふら付きながら立ち上がり聖女に勝手な行動を謝罪して元の立ち位置に戻った。
本人の意に反する急な動作は主従契約の軛がなしたものだろう。主人たる聖女の命令には慈悲も容赦もなかった。
「こちらが無理を言っているというのに、申し訳ありません。けれどどうしても、わたくしはあなたと話さなければならない。どうか共に」
腰を上げた聖女はアルクゥの傍に来て膝を突く。お止めくださいと悲鳴じみた声を上げる聖騎士たちを黙殺してアルクゥにたおやかな手を伸ばした。
アルクゥは上体を僅かに反らし一瞬でも指先を遠ざける努力をする。
こいつは人間か。それとも狂った怪物か。
頬に触れると思った手は予想に外れて目元へと翳される。この女はハティの眼球を片方だけでは飽き足らず、もう一方も奪い取ろうとした。それを思い出して冷や汗が背を伝う。悪寒からか酷く寒々しい耳鳴りがした。
指先が愛おしげに瞼に触れる、その刹那だった。
視界を埋めていた白い手が垂直に落ちた。
「え?」
眼前には赤黒い切断面を見せる手首が残っている。
状況を把握できず呆けるアルクゥの顔に手首から夥しい量の血が噴き出した。視界が真っ赤に染まる。半ば恐慌に陥ったアルクゥは手を振り回して聖女を突き飛ばした。
聖騎士らが怒号を上げて一斉に動く気配がある。
何があった。少なくとも自分は何もしていない。
飛び交う怒声に話し合いを叫ぼうとしたアルクゥの腕を何者かが掴む。振り払う間もなく強く引かれ、一歩たたらを踏んだとき、世界の境を踏み越える感覚がした。呼吸が苦しくなる。幽世に引き込まれたアルクゥは、手の主をマニだと思った。
機転に感謝しつつ目の血を拭おうとするも、手はどんどんアルクゥを引っ張っていく。間近で窓が割れる音がしたと思った矢先、手の主が吹き込んだ外気の先に消えた。アルクゥも引き摺られる。硝子の破片が肌を切り裂いてからようやく疑念を抱いた。
転ばないように速度を合わせ、袖で力任せに目を擦りながら薄い赤の視界に目を凝らす。
人影は華奢だ。女だろう。この時点でマニではありえない。
月陽樹の草原を抜けて茂みを踏み越える。枝が足を掻いて痛い。どこまで行くつもりかと眉を寄せる。この先は魔物が出るのだ。
アルクゥは何度も瞬き、涙で眼球の表面を洗ってから細い背中に飛び掛かった。
女は容易にバランスを崩して転げる。二人は縺れ合いながら転がっていく。激しく反転し続ける視界の端に豊かな赤銅色の髪が振り乱されるのをアルクゥは見た。
木にぶつかって停止する。
背中をしたたか打ち付けて息が詰まったアルクゥは体をくの字に折り曲げて痛みに耐える。その後目で女は何事もなかったかのように立ち上がった。まるで痛みを感じていないかのようだ。
呻きながら上体を起こしたアルクゥはその顔を見て目を瞠るもすぐさま身を捩る。振り下ろされた血濡れの短剣が地面に突き刺さった。
女の動きはぎこちない。アルクゥは勝機を見出して思い切り体当たりし短剣をもぎ取った。女は取り返そうとして短剣を持つ手に飛び付く。
しばしの膠着にアルクゥは素早く見切りを付け女の腹を蹴り飛ばす。しかし疎かになった手から短剣が奪われた。
二人に距離が開く。
アルクゥは汗を拭い唸る。
無表情で佇む女はベルティオの顔にそっくりだった。
――違う。逆だ。
熱された息を体から排出して冷静な思考を引き寄せる。幽世でも女の美貌はそのままだ。赤銅色の豊かな髪に目が覚めるような碧眼。どうしたことか左目は閉じられて眼窩がべこりと凹んではいるが。
ベルティオは男だ。魔術を使って姿を変えているにすぎない。
あれはこの女を、この聖人を模倣した姿だったのか。
聖人、と凪いだ風にすら及ばない声で呟く。
それなら、恐らくは。
アルクゥは無意識の内に噛んでいた唇を薄く舐めた。
こいつが――司祭を瀕死に追いやった張本人というわけだ。
「……貴女はベルティオの手先でしょう。何が目的ですか。私を殺すよう命じられましたか? それとも石の聖女を?」
どちらにしても中途半端に終わっている。石の聖女は手首切断の重傷だが、アルクゥに至ってはかすり傷だ。なぜ確実に仕留められる場所を離れてこんなところにまで連れてきたのか首を傾げざるを得ない。
そもそも、とアルクゥは疑問を深めていく。教会とベルティオは繋がっているのではなかったのか。決裂したのなら目出度い話だが。
女はアルクゥの質問には答えずに武器を構え――見当違いな方向に鋭く投げた。
下手な陽動だとアルクゥは注意を逸らさないでいたが、女には何かをする気配はない。それが更に警戒心を募らせる。
「つ――」
「……何ですか?」
女は唇を戦慄かせる。
注意深く耳を澄ませて言葉を待っていると、無機質なくせに心地よい声が震えと共に言葉を吐き出した。
「月陽樹に、月のない夜に……五日後、それが、俺の」
女性には適さない一人称を奇妙に感じる暇も与えず、女は踵を返して駆け出していく。
反射的に追いかけそうになったアルクゥは深い森の陰を見て捕縛を断念し、今しがたの違和感を考え込みたい衝動を飲み込んで拠点に急いだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
裏から窓を割って戻った客間は、予想していた荒れ果てた光景とは程遠く、ひどく静かで緊迫した空気が漂っていた。
戦闘行動をしているのは二人だ。百合の花を思わせる立ち姿で佇む聖女と、その鼻先に剣を突き付けるヴァルフだ。一見してヴァルフが優位だと判断したアルクゥだったがすぐに剣を持つ手が力を込めすぎて震えていることに気付く。灰色の目が赤い魔眼を凝視している。アルクゥは繋がった視線を断ち切るように割って入った。
「止めてください。貴女の手を落としたのは私ではありません」
とは言ったものの聖女の落とされたはずの手は元に戻っている。即座に治癒魔術で接合したとしても早すぎる。手首を回る赤い線が切断の事実を語るが、直接目にしていなければあれは夢だと言われても信じてしまうだろう。
聖女はアルクゥを見返して微笑みながら頷いた。元より敵意はないと言わんばかりの笑みだった。
「皆、逸って醜態をさらすのはおやめなさいね」
聖女の言葉で呪縛されていたかのように不動だった聖騎士たちの動きが戻る。
何人かは忌々しげにアルクゥを見ていたが行動に出る者はいなかった。
聖女は気疲れした風情で溜息を吐く。
「命を狙われているのは知っていました。迷惑をかけてしまったわね」
「心当たりが?」
さり気無さを装った質問に聖女は答えない。
「一旦、大聖堂に。そこであなたが望むことは全て話しましょう。敵は去ったようだけれどここに留まるのは危険よ」
ついてくるのなら話す、と。
アルクゥは口に手を当てて熟考する。
聖女は自分に否と言わせるつもりはなさそうだ。拒絶を繰り返した先に待つのは強硬手段だろう。教会の最高権力と敵対することを考えれば、了承の一択しかないのかもしれないが。
「……行きましょう」
「アルクゥ、止めろ」
低く諌めるヴァルフに頷いて見せる。保険は掛けるつもりだ。
「条件があります。繋いだ転移門を閉じないこと。話が終われば無事に私を帰して、以降一切私たちに関わらないこと。そう誓ってください」
魔術で誓いを立てろという要求に聖女はきょとんとあどけない少女のような顔をした。それから気分を害した様子もなく首肯する。
「もちろん。あなたが望むのであればそれが誠意というものでしょうから。そうね、夜まではかからないと思います」
そう言ってから事も無げに魔術で誓いを立てた。相手の反応を窺うつもりだったアルクゥはあまりの手応えのなさに不安を覚える。
「さあ行きましょうか」
「待て、俺も」
声を上げたヴァルフを聖騎士が威嚇する。
「貴様閣下に剣を向けておいてよくもぬけぬけと!」
「じゃあ俺ならいいだろ。なァおばさん。一度噂に名高い大聖堂ってのを見てみたかったんだ」
ヴァルフが反駁する前にマニが名乗りを上げ、恐れ知らずにも聖女に許可を求める。不敬だと騒ぎ立てる聖騎士に構わず聖女は快諾した。
「馬鹿言わないで残りなさい」
「あァ? うっせ」
マニを説得する時間もない。
アルクゥたちは月陽樹の正面に設置された燐光する転移門をくぐった。
体の中心が渦を巻き歪むような感覚を抜けると、目前には天を突くほどの塔が屹立していた。重苦しい確たる存在感を示しながら、随所に見受けられる草木を模した繊細な彫刻からは優美な印象が漂う。
白亜の大聖堂をマニと共に口を開けて見上げたアルクゥは転移門を振り返る。王都は転移が難しい場所だ。無理やり繋げるまでいったいどれほどの魔石を消費したのだろう。
聖騎士に冷淡に促されて聖女の背中に付いていくとき背中から強い風が吹きつけた。
再度振り返った視線と交錯して、アルクゥたちの頭上を小柄な翼竜が飛び去っていく。一瞬ではあったが騎乗するユルドが見えた。トゥーテとメイが聖女の来訪を伝えたのだ。王宮に聖女の動きを告げに行くのかと考えて苦いものがこみ上げる。また竜殺しが問題を起こしたと見做されるかもしれない。
幸い、聖女には害意が見えない。アルクゥごときの観察眼で海千山千の聖職者を理解できるとは思わないが、誓いも立てているのでいくらか楽観はできる。
聖騎士は翼竜の去った空を睨み上げたが、聖女は目を細めて見送るだけだった。
初めて踏み入った大聖堂は普通の聖堂とさして変わらない内観をしていた。侵入者を徹底排除する迷宮構造と聞いていたが中身は幾何学的な直線に沿って整然としている。人払いをしているのか、アルクゥたち意外に人影は見当たらない。
貴賓室らしき奥の一室に通される。
出された紅茶に口を突けようとするマニの足を抓り、対面に座る聖女を盗み見る。深い茶色の髪に混じり始めた白髪すら上品な姿はどこか神々しさを孕んでいる。
「お口に合わなかった?」
「いえ、お茶を飲みに来たわけではありませんので。本題に入りましょう大司教閣下」
石の聖女バルトロメアはカップを豪奢なテーブルに置き、どこか照れた様子で色づき始めた蕾のようにはにかむ。
「あなたの目玉が欲しいのだけれど」
わたくしにくださらない? と柔らかそうな両手を胸の前で合わせた。