第九話 凶暴の瞳
姿見の中に映る自分は別人だった。
丈夫そうな革のズボンに綿製の白いシャツ。その上に旅人が愛用する厚手の上着。風除けや日除けを兼ねた深いフードを被ると、顔の上半分は隠れる。懸念すべき目の色は完全に誤魔化せる。
どうも奇妙な感覚だった。恐ろしく動き易く、容姿を隠すという点でも最高だが、自分が自分でなくなったような違和感は拭えない。
閉店時間が近いからか、古着屋の女主人はイラついているようだったが、アルクゥを旅人と見て腰につける鞄はどうだと提案してくれた。ありがたく購入すると、「まいど」の一言と共に追い出された。
アルクゥは苦笑して雑踏に混じる。
暖かな夕陽が照らす道を、心穏やかに歩く。昨日の激情が嘘のようだ。無関係なヴァルフには悪いが、他人に心中を吐き出したお陰で精神が安定したのだろう。
あと一週間だけ待とうと思っている。
それで渡航規制が解除されなければ、別の街を目指して職を探す。この港にしがみ付く必要はない。時機を待てばいい。そう思える余裕が出来た。敵には既に見つかっているので、実際はそんなに悠長に構えていられる状況ではなかったが、急いて街を出ようとしても門には見張りがいる。
一週間で警戒が薄まるなら良し、駄目だった時の為には脱出する方法も考えておく必要がある。
今のところは安全地帯である宿屋の前についた刹那、アルクゥは扉にかけた手を放して大きく振り返る。
刺すような視線を感じた。
じっと目を凝らすが、肌に感じ取れるような剣呑な眼差しを送ってくる者はどこにも見当たらない。気のせいだと知ってホッと息を吐いた。
宿屋に入るとカウンターに座った丸顔の主人が扉の音を聞きつけ笑顔で顔を上げ、アルクゥを見てキュッと目を尖らせる。
「お嬢さん、何時の間に出て行ったんだい? 悪い奴らに狙われているんだから、出歩いちゃ駄目じゃないか……その格好だと全然印象が違うけど、でも変装したってバレるものはバレるんだからね」
人の好い主人はヴァルフに何を吹き込まれたのか、客を守る使命感に燃えている。一々世話を焼いてくれるのは嬉しいが、過保護な父親ができたようで複雑な気分だ。
「いいかい、ヴァルフが戻るまで安全な場所から動かないように。あいつが来たら自由にしていいからさ。大人しくしておいでよ」
「ヴァルフ……さん、とは長いお付き合いなのですか?」
「まあね。荒事方面でアイツほど頼れるヤツはいないよ。魔術師で、元軍人。戦いとなれば右に出るやつはいないんじゃないかなぁ。あ、でも、王宮の聖人様には敵わないだろうけどさ」
「聖人?」
主人は「知らないのかい?」と口を尖らせ、そして我がことのように胸を張る。
「魔物討伐を主要任務とする第八師団の団長だ。たった一人で北領にある地の割れ目から湧き出た魔物の群れを討伐なさったお方だよ。お目にかかったことはないけど、それはもう流麗な姿をされているとか。近頃は魔物が沢山出て物騒だけど、頼もしい限りだよ」
聖人様がいればこの国も安泰だ、と言わんばかりだ。首に下げた魔除けの精霊石を握ってふくよかに笑っている。
ティアマトは近年まれに見る魔物の大発生に頭を悩ませているというが、いくら聖人が強くても近くにいなければ助けてはくれない。楽観的になれる主人を不思議に思う。
神がそうだとされるように、聖人もまた祈れば無条件に救いの手を差し伸べてくれるという信仰の域なのかもしれない。
(ああ、ようやく分かった。政治的かつ宗教的な理由)
精霊に選ばれた「人間」にすら無条件の信仰が集まるこの国ならば母を攫おうとするのも頷ける。
「最近、近くでグリフォンが出ただろう? あんな魔獣なんて、本当なら中隊が出てようやく倒せる化け物なんだけど、聖人様ならあっという間に」
「ところで、キュールから一番近い大きな街はどこですか?」
何時までも付き合ってはいられないので、尚も語ろうとしていた主人に口を挟む。
「大きな街? そうだねぇ、大きく北に行けばワガノワ港で、北西にはポルトルがあるよ。でもお嬢ちゃんには、西のデネブだな。魔導都市って言うだけあって、魔術師や魔力保持者が集まっているし……」
主人は辺りを憚るように声を落とす。
「お嬢ちゃんみたいに国に申請していない魔術師も罰されることはないんだってさ。ヴァルフもお師匠様とあの辺りに住んでるらしいよ。どうせ彼と一緒に行くんだから、焦らなくても大丈夫……ああ、いらっしゃいませ。宿泊ですか?」
客が来たのでアルクゥは部屋に戻る。
行き先は決まった。後はどうやって門を抜けるかが課題だった。
その翌日も船は出なかった。
ムーサ行きの船も出港予定に乱れが出ているのだと言う。事態が刻一刻と悪化している。
教えてくれた船乗りに礼を行って帰る途中、何度目かになる視線を感じてとりあえず周囲を見回す。視線の主は見当たらない。当然だろう。アルクゥの頭の中が作り上げた強迫観念が犯人なのだから。
今日は真っ直ぐ宿屋に帰らず、旅行者用の店に立ち寄りキュールの地図と、ティアマトの地図を購う。必要経費とは言え出費は痛かった。残り僅かとなった財布の中身に肩を落とす。
残りの日数に間に合うか怪しい。デネブへ行く費用も考えると明らかに足りない。人気のない道に来て短剣を取り出し、美しい装飾を見詰める。
(このときの為に取っておいたのだから……)
武器を手放すのは心細かったが、アルクゥはついに魔剣を売り払うことに決めた。
どこで売却するか迷い、貴金属の古物を扱う店に訪れる。
煌びやかな宝石が飾られたガラスケースの上に短剣を置くと、太った従業員が眼鏡をかけ、一目で「魔術の品でございますね」と看破した。
「それも武器だ。宝飾品として当店が引き取ってもよろしゅうございますが……いや、止めておきましょう。恥ずかしながら、当店は魔具を取り扱う免許を持っておりません」
「どこで売ればよいでしょうか?」
「負い目がなければ、公的機関が経営する専門店が中央大通りにございます。ですが」
従業員はニヤリと笑う。
「そうでないのならば、北門から西に進んだところにある掃き溜め、裏通りがよろしい。ではお客様。今後とも、我が店をご贔屓に」
犯罪者と思われたことに釈然としないまま店を出る。
キュールの地図を出すとさっそく役に立った。迷うことなく北門に向かい、門番の目が届かない路地から西へ進路をとる。
表と裏通りの境は一目でわかった。
緩やかな下り坂の底が暗い淀みを湛えているようだ。まだ昼間だと言うのに陰鬱な空気が周囲を濁らせている。それに狭い。道幅は馬車一台分あるかないか程度だ。
両側の建物は民家のようだが人の気配がしなかった。完璧な静寂がどこかうそ臭い。まるで壁越しに息を潜める者がいるような、そんな不気味な雰囲気だ。
坂の半ばで立ち止まったアルクゥは、ここに来て不安になり何となく後ろを見た。誰かいないのかと探す。
すると――視線を感じた。
今回ばかりは勘違いで済まさなかった。視界の隅々まで自分を見る目を探す。いた。物陰に寄り添うように人が佇んでいる。
睨みつけていると、相手は気付かれたことに気付いたのだろう。陰から日向に姿を現し、慎重な足取りで曇天の下を歩いてくる。
相手の表情には怯えがあった。
伝染したようにアルクゥも一度身震いする。
「何かご用でしょうか?」
馬車で乗り合わせた、別れ間際に呪いのような叫びを上げた青年だった。
アルクゥを睨め付ける半眼は怯えの他にも嫌悪や侮蔑といったものが混ざっているようだった。
アルクゥは青年がある距離まで近づくと一歩下がり、これ以上の接近は許さないという意思表示をする。
すると青年は虚を突かれたように立ち止まり、喉の奥から声を絞り出した。
「そ……その、この前の、謝りたいと思って。あんたを探してたんだ。名乗り出てもいないようだから……」
「お気持ちは分かりました。私は……用事がありますので失礼します」
「ど、どこに行くんだ?」
青年は一気に距離を詰めてアルクゥの前に立つ。下がろうとすると肩を掴まれた。指先が肉に食い込む。身を捩っても剥がれない。咄嗟に鞄から短剣を抜き放った直後、金槌で殴られたかのような衝撃があった。崩れ落ちる体を自覚しているのに、足に踏ん張りがきかない。
「あんたが悪いんだ」
その言葉だけは震えていなかった。
青年はアルクゥを担ぎ上げると、薄暗い裏通りの道を覚束ない足取りで進んでいく。
「親父が死んだのだって、俺が今こんなことしなきゃならないのだって、あんたが力の出し惜しみをして盗賊を殺さなかったからだ。あんたが死ぬのは俺のせいじゃない。自業自得さ」
「わた……わたしは、ちが……」
「何が違うんだ! なんで親父が殺されなきゃいけなかったんだよ……あの人は良い人だった。少なくとも盗賊なんかに殺されるような、亡骸を魔物に喰われるような人生は送っちゃいない! 俺のたった一人の家族だったのに! あんたのせいだ……俺なんかとは違って、力があるくせに……!」
頭が酷く痛んで言い訳するのも億劫だった。
それから随分奥まで来たところで青年は足を止め、乱暴にアルクゥを落とした。少し回復したアルクゥは必死に地面を蹴って青年と距離を取った。それを見た青年は強張った笑いを浮かべ、どこかに向かって叫ぶ。
「い、言われたことはやったぞ! 好きにしろよ! 俺にはもう関わらないでくれ!」
足を縺れさせながら走り去っていく。
ハッとしたアルクゥも逃げ出そうとするが、再び頭に衝撃があった。先程よりもましだが、風景が歪んで倒れこむ。ドロリとした血液が背中を伝うのが気持ち悪い。
ぼやけた視野の中に、複数の人影が出たり入ったりしている。
「なんだぁ、随分と簡単にいったじゃねぇか」
男の嗄れ声は拍子抜けしている。
「魔術師って言っても小娘だ。そりゃあ簡単だろうさ。ああ、そうだ。お前行って来い」
足音が一つ遠ざかり、数分もせず戻ってくる。その間、男達はアルクゥの処遇を話し合っていた。犯す、殺す、売る。どれも酷いもので耳を塞ぎたくなる。だが話の断片で彼らの素性は割れた。
(盗賊の生き残り……でもなぜあの青年が協力を……)
口振りからして協力を強要されたのか。
グッと頭を持ち上げて全員を視界に収める。火を創ろうと思い描いたとき、後ろから地面に叩きつけられた。
「で、どうするにしても、褒賞の場所を吐かせねぇと」
「だな。おい小娘。おいっ起きろ」
髪を捕まれて顔を上げさせられる。「ひでぇ顔!」と嘲笑が上がった。
「金はどこにある? 魔物を殺した褒賞だ。宿屋か?」
「褒賞など……貰っていません……」
「はあ? 嘘つくんじゃねぇよ!」
腹を蹴られる。
だが貰っていないものは貰っていない。何度も否定すると、盗賊たちは諦めたのか額を寄せ合った。
「どうするんだ。宿屋に取りに行くか?」
「あんな衛士がうろつく場所にか。しょっぴかれて牢獄行きだぜ。それに本当に貰ってないのかもしれん」
「じゃあ諦めんのかよ」
ぼんやりと耳を傾ける。
盗賊たちはお金がほしいのだ。
「お金が、ほしいのなら、貰ってきます」
視線が集まったのがわかった。
「貴方達に全て差し上げましょう。それで私の命を助けてください」
言いながら体を起こし、壁に背をつける。今度は暴力を振るわれなかった。提案に魅力を感じているのだろう。
アルクゥは目を細める。路地に佇む盗賊は六人。三人が道の中央に固まり、二人が反対の壁際、最後の一人は間近にいる。
「そう言って警備団に駆け込もうって腹か?」
間近の一人が口を皮肉げに歪ませるが、瞳には隠しきれない欲がある。褒賞は見て見ぬ振りが出来ないほどに魅力的なのだろう。
アルクゥは瞑目して、微かに笑う。
「疑うのは当然です。では、こうしましょう。貴方達の誰かが、私と契約を結べばいい」
「契約ぅ?」
「商人たちが良く使うものです。取り引きの嘘を禁じる契約魔術。」
ベルティオの言葉をなぞった自分がおかしかった。
金を餌に騙す。そんな成功しそうにもない思い付きの策に、盗賊たちは目を見交わし合い戸惑っている。今なら殺せる。
(炎は、駄目だ。煙が出て衛士を集めてしまう。なら、別の)
何か鮮明な、魔力で形を作っても一分のずれもない記憶を探す。すると簡単に見つかった。脳裏にこびりついた紫色の刃の記憶。寸分違わず再現できる自信がある。
また殺してしまうのかとどこからか声がする。
(そうだ。殺してしまわなければ、私が殺されるから。暴虐に唇を噛んで耐えてやる必要なんてない)
抗う力が自分には備わっている。アルクゥは深く息を吸い込んで、決意を固めた。
その瞬間、強者と弱者は入れ替わった。
盗賊たちはそのことに気付かない。意見を纏めるのに忙しい。間近の男だけはアルクゥを警戒してチラチラと見ており、目を合わせると驚愕の表情を浮かべた。
「てめぇ……何だ、その目は」
「ああ? どうした?」
「いや、ほら、そいつの目。まるで魔」
一人の即頭部を宙に作り上げた刃で打ち抜く。更に四人を無数の刃で、最後の一人は人の背丈ほどある刃を作って殺す。
呆気なく決着はついた。
アルクゥはふらりと立ち上がる。立ち去りかけて、一度だけ転がった死体たちを振り返る。罪悪感はなかった。きっとこれが正解なのだろう。




