蝉の声
蝉の声で目が覚めた。
無意識と現実の狭間で、僕はしばらくぼんやりとその蝉の声を聞いていた。——ジワジワという油蝉の鳴き声が雨音のように耐えず響いている。
太陽はすでに空高く昇っており、惜しむことなく地上に光と熱によるエネルギーを供給している。僕の部屋は、そのエネルギーのおかげで蒸し風呂のような状態になっていた。
全身が汗ばみ、この上ない不快感が僕を襲っている。
眠気でまだ頭がぼんやりとしている。しかし、蝉の声と暑さの煩わしさのせいで苛立ち、一度目が覚めるともう眠る気になどならない。知覚してしまうと、今まで我慢出来ていたはずのことでもたちまち腹立たしく感じる。
僕は起き上がると台所に向かった。眠っている間に奪われたのであろう水分を取り戻そうと、全身の細胞が水を求めているように感じられたためだ。細胞たちを鎮めようと、僕は冷蔵庫を開けミネラルウォーターを取り出そうとした。
ところが、そこにミネラルウォーターが入ったペットボトルはなかった。
「あれ? まだあったと思ったんだけどな……」
僕は独り言をこぼすと共に、思わず溜め息をついた。
この暑い中、わざわざコンビニに向かう気にはなれなかった。水なら水道水でいいか、と思い直して僕はコップを持って蛇口をひねった。
そしてその次の瞬間、僕は首をひねっていた。蛇口をいくら開いてみても、そこから流れ出てくるはずの水が出てこないのだ。
——あ、そう言えば。僕は思い出した。数日前、ポストに投函されていた紙面の存在を。僕は玄関近くにある棚に向かい、そこに置かれた紙に手を伸ばす。
そこにはパソコンで印字された文字が綺麗に並んでいる。『断水のお知らせ』という文字が。日程を見ると、今の時刻とそれがぴったり一致していた。
再び溜め息を漏らす。いつもならばこの時点で身体を潤すことを諦めていただろう。しかし、この喉の渇きは今の僕にはとても堪え難いもののように感じられた。
僕はそのままサンダルを引っ掛けて、玄関のドアを開いた。コンビニで水を買おう。ついでに昼飯でも買おう。そんなことを考えながら。
僕は足元を見つめた。正しくは、ドアを開いた先の、廊下のある一点を。
そこには、小さな生を生き抜いた抜け殻が転がっていた。
腹を見せてじっとそこに留まる、蝉の死骸がそこにあった。それは何かに驚かされたように足を折り畳んで、縮こまって横たわっている。本当に、僕の部屋の真ん前で。
僕はゆっくりとしゃがみ込み、摘まむようにしてそいつを拾い上げた。やはり動かない。死んでいる。
こんなコンクリートの上では、あるべき場所には還れない。土に還してやらないと、こいつの生が無駄になってしまう。誰かに踏まれ、バラバラになって、何処にも還ることなくその存在が消失してしまう。
僕はそいつを持ったまま、アパートを出ると公園の木の傍にそいつを埋めてやった。そして、何となく手を合わせた。
手を合わせながら、僕は思った。僕を眠りから起こしたのは、こいつの最後の一声だったのかもしれない、と。
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