第2話 石を投げた、肉を焼いた
体の中が、静かだった。
立っているだけなのに、それが分かる。背中から腰にかけて、いつも薄く張っていた重さがない。肺が、ちゃんと広がる。吸うと、湿った土の匂いと葉の青い匂いが、奥まで入ってくる。
試しに、深く吸った。
何も起きなかった。胸が締まらない。心臓が乱れない。ただ、空気が入って、出ていった。
それだけのことが、妙に遠い感じがした。
踊り場で手すりを掴んでいたのは、ほんの今朝のことだ。あの重さが、今は体のどこにもない。探しても、ない。
試しに、その場でスクワットを三回やった。膝が動く。腿に力が入る。息が乱れない。
陽平:「……なんじゃこりゃ」
口が動いていた。声になっていたかどうかも分からない。
陽平:(マジで治ってる。病院で何ヶ月も「原因不明」って言われてたやつが、異世界に来たら消えてる。どういうことだ)
陽平:(いや、どういうことでもいい。体が動く。それだけでいい。それだけで十分だ)
陽平は足元を見た。湿った土。靴底に返る感触がしっかりある。落ち葉が積み重なって、踏むたびにくぐもった音がする。木々は背が高く、幹が太い。見上げると、葉の隙間から白い空が見えた。
どこかで水の音がする。遠くない。
振り返ると、洞窟の入口があったはずの場所は、もう普通の岩壁になっていた。苔が生えて、草が根を張っている。開口部の痕跡すらない。
陽平:(帰れなくなった)
パニックには、ならなかった。腹が立つわけでも、泣けるわけでもない。ただ、事実がそこにある。女神は「今は戻れない」と言った。修復が終わり、レベルが上がれば、繋がると言っていた。
美咲の時間は止まっている。蓮も、結衣も。
それだけを確かめて、陽平は前を向いた。
遠くに街道らしい線が見える。木々の向こう、光の入り方が少し違う場所。あそこが人の手の入った道のはずだ。
歩き出した。
◆
五分も歩かないうちに、水の音が近くなった。
木々の間に小川があった。幅は一メートルほど。透明で、底の石が見える。流れは緩い。陽平は川縁にしゃがんで、片手を水に入れた。
冷たい。
掌に流れが当たる感触。指の間を水が抜ける感触。これも、体に返ってくる。
飲んでいいのか、という考えが頭をよぎった瞬間。
解析の声:「水質は問題ありません。そのまま飲めます」
声は頭の中に直接来た。耳を通る感じじゃない。思ったより柔らかい声だった。
陽平:「……ありがとうございます」
解析の声:「どうぞ」
それだけで終わった。
陽平は両手で水を掬って、飲んだ。冷たくて、癖がない。体の中を水が通っていく感覚が、普通にあった。
陽平:(森の中に、自分一人だと思っていた。でも、そうじゃなかった)
陽平:(……一人じゃないのか)
その言葉が、思ったよりずっしりと来た。
手を拭って、立ち上がった。また歩き出す。街道の方向へ。
解析の声:「少し右へ。その先、木が薄くなっています」
陽平:「了解です」
陽平:(短い。それがいい。余計なことを言わない。判断は自分でする。でも、方向だけ知っている人間がそばにいる、という感じ)
陽平は右に進路を取った。
◆
木が薄くなって、地面が少し平らになったあたりで、足が止まった。
解析の声:「前方、二つ。左の茂み、一つ」
静かに、でもはっきり来た。
陽平は動きを止めて、ゆっくり前を見た。
いた。
街道まで、あと三十メートルほどの草地。そこに、ぷるぷると揺れている透明な塊が一つ。そして少し離れたところに、耳の長い、灰色の小動物が二匹。片方が鼻をひくひくさせている。もう片方は草を食んでいる。
スライム。ホーンラビット。
陽平:「……本物じゃないか」
声が出た。小さかったが、確かに出た。
陽平:(えっ待って。本当にいる。漫画で何十回も見たやつが目の前でぷるぷるしてる。ホーンラビットも、角が生えてる。これが現実なのか)
解析の声:「スライムは粘液で刃が滑ります。衣服につくと落ちにくいです。ホーンラビットは逃げ足が速く、角で突いてきます。正面からは危険です」
陽平:(ありがたい。知らずに突っ込んでいたら、どうなっていたか分からない)
陽平は足元を見た。拳大の石がある。平たくて、握りやすい形。もう一つ、少し重い石。
両方を拾った。
陽平:(まず、ホーンラビットを分ける)
二匹が離れている今のうちに、片方だけに注意を向けさせる。陽平は左側のホーンラビットの少し手前に狙いを定めて、重い石を投げた。
ぼん、と地面に当たる音。
左のホーンラビットが跳ねて、こちらに向いた。耳が立った。視線がくる。
解析の声:「左だけこちらへ向いています。右は草地のまま」
陽平:(よし)
陽平はそのまま腰を落として、スライムに向けて走った。四十四歳の走りだ。速くはない。でも今日は、肺が音を立てない。
スライムとの距離が縮まる。陽平は短剣を抜いて、思い切り叩き込んだ。
ぐちゃ、という感触が手首まで来た。
反射的に顔が歪んだ。刃が粘液に引かれて、抜けにくい。引き抜こうとすると、ずぶずぶという抵抗が腕を伝ってくる。食いつかれている感じ。生き物でも物でもない、その中間みたいな手応えが、胃の辺りに直接来た。唾を飲んだ。
陽平:「うわっ、最悪!」
陽平:(なんだこの感触! 引っ張れない! くっついてくる! 刃が全然通らないぞ!)
陽平:(スライムって外から見るとかわいいのに、こんなに嫌な相手だったのか!)
気持ち悪さを奥歯で噛んで、引き抜いて、もう一度。今度は深く入れず、横に払った。スライムの輪郭が崩れて、核みたいな光る塊が出てきた。それが地面に落ちた瞬間、スライムは動かなくなった。
腕についた粘液が、じわっと皮膚に馴染んでいく感触がある。早く拭きたかったが、今はそれどころじゃない。
光る塊を見た。
解析の声:「G魔石です。回収できます」
陽平:(ドロップした。本当にドロップした。こういうゲームみたいなことが、現実に起きた)
陽平:(後で。今は)
左のホーンラビットが、もう来ていた。
耳を倒して、頭を低くして、真っ直ぐ突っ込んでくる。角が見える。小さいが、鋭い。
陽平は半歩だけ横にずれた。角が空を切った。すぐそこを、白い毛が通り過ぎる。
解析の声:「後ろ足が地面に着く瞬間、止まります」
見ていると、本当にそうだった。着地した瞬間、一拍だけ動きが止まる。
そこに、平たい石を叩きつけた。
ホーンラビットが倒れた。短剣で、首のあたりを一度。手が震えた。でも、止まらなかった。
もう一匹は、草地の向こうに消えていた。逃げたらしい。
陽平はその場に膝をついた。
息が上がっている。心臓が速い。でもそれは運動のせいだ。体調のせいじゃない。
手が、細かく震えていた。
血の匂いがした。生臭くて、金属みたいな匂いで、鼻の奥に張り付く感じがした。倒したホーンラビットの毛に、赤いものが滲んでいる。
陽平:(これが現実だ。本物の現実だ)
声は出なかった。
震えている右手を、ゆっくり握った。拳にしたまま、膝の上に置いた。息を一度、長く吐いた。それだけだった。それだけで、十分だった。
◆
魔石は三つ回収できた。スライムから一つ、ホーンラビットから二つ。
ホーンラビットの一つを解析で確かめると。
解析の声:「こちらは地属性、高品質です。査定が上振れる可能性があります」
陽平:「え、地属性?」
唇の端が、少し動いた。
陽平:(上振れ!? G魔石ばっかりだと思ってたのに。これ換金したらいくらになるんだ)
陽平:「上振れる、ってどのくらいですか」
解析の声:「通常グレードより一つ上の等級で買い取られる可能性があります。ギルドで確かめてください」
陽平:(なるほど。もっともなことを言っている)
ホーンラビットを川のそばまで引きずった。水で手を洗う。血の混じった水が流れていく。何度も洗った。粘液も擦った。完全には落ちなかった。
腹が、減っていた。
倒した肉が目の前にある。でも、いざ切り分けようとすると、手が少しだけ止まった。
さっきまで動いていた。その事実が、まだ手と目の間にある。
陽平は息を吐いた。
陽平:(肉屋に行くと、いつも切り分けられた状態だった。牛タン、カルビ、ハラミ。部位だけが並んでいる。その手前のことは、頭で知っていても、手では知らなかった)
そして、気づいた。
内臓が、ある。
ホーンラビットにはレバーがある。ハツがある。鮮度がある今しかない。なのに、処理の手順が分からない。やり方を知らない。
陽平:「……もったいない」
その一言が、じりっと来た。
陽平:(レバーが! ハツが! あの鮮度で使えたはずなのに! 技術がないから捨てるしかない、分かってる)
陽平:(絶対に次は使う。解体場に行く。やり方を覚える)
解析の声:「脚の付け根、関節のところです。そこに刃を当てると、力が要りません」
言われた通りに短剣を当てた。思ったより、すっと入った。後脚を一本、切り分けた。皮は剥げなかった。刃が滑る。毛が邪魔をする。皮のついたまま焼くしかない。
川で血を流して、岩の上に置いた。
◆
火起こしが、一番の問題だった。
短剣の背を使って、火花が出る石を探した。川岸に転がっている石をいくつか試した。三つ目の石で、ちりっと火花が散った。
陽平:(……これだ)
解析の声:「その石で合っています。乾いた草か苔を集めると、火口になります」
川岸から少し離れた場所に、枯れた草が固まっていた。手でちぎって、小さく束にした。細い枝を折って、組んだ。火口の周りに少し太い枝。その外に、指の太さの枝。
陽平:(子どもの頃にキャンプへ行ったことがあった。そのときのうろ覚えの記憶。でも、手順はそれで合っているはずだ)
石と短剣の背を打ち合わせた。火花が散って、草の束に落ちた。
何も起きなかった。
陽平:「出ろよ……」
もう一度。火花は出たが、草に届かなかった。
陽平:(頼む、キャンプ行ったのは三十年前だけど頼む。乾いた草、細い枝、中太の枝。ちゃんと組んだから。頼む)
もう一度。今度は草の束の真上で打った。
小さな煙が立った。
陽平は体を低くして、細く息を吹いた。煙が濃くなった。赤い点が見えた。また吹いた。
火が、起きた。
細い枝が燃え始めた。中太の枝が燃え移った。炎が形を作った。
陽平:「出た! 出た出た出た!」
誰もいない森の中で、声が出た。止められなかった。
陽平:「火だ! 俺が火を起こした! 石と短剣の背だけで!」
陽平:(令和の会社員がやっていい体験じゃないぞこれ)
脚肉を枝に刺して、火の上に差し出した。皮がじりじりと焦げ始めた。毛の焦げる匂いがして、少し鼻を曲げた。でもその下から、肉の焼ける匂いが来た。
脂が火に落ちて、ぱちっと音がした。
陽平は鼻を動かした。
肉だ。ちゃんと肉の匂いがする。
解析の声:「右手の茂み、三メートルほど先。低い木の枝に、小さな実がついています。塩気があります。砕いて使えます」
陽平は立ち上がって、茂みの方へ行った。
低い木の枝に、緑がかった小さな実がついていた。丸くて、表面がわずかに粉を吹いている。一つもいで、皮ごと歯で軽く潰した。
塩い。
塩辛い、ではない。塩い、という感じ。はっきりとした塩気で、後から少し土っぽい風味が来る。
陽平:「これ、使えるぞ」
陽平:(塩じゃないか。天然の塩気だ。焼き肉に塩は基本の「き」だぞ。塩と熱だけで肉はうまくなる。それが今、両方揃ってる)
陽平:「これがシーオの実ですか」
解析の声:「そうです。塩代わりに使えます。焼いた肉に合います」
陽平:(解析さん、ここで持ってくるか。最高か)
陽平はいくつか摘んで、掌の上で軽く潰した。指でこするようにして、粉にする。焼けてきた肉の表面に、指でまぶした。
ジュ、という音がした。
塩が当たった肉が、少し色を変えた。
陽平:(いい色だ)
陽平:(休職してからこっち、料理らしい料理をしていなかった。体が思うように動かない日は、台所に立つだけで息が上がる。美咲が全部やってくれていた。包丁を握る気力がなかった)
陽平:(それなのに今、野外で、枝に刺した肉に塩をまぶしている。少し可笑しい)
焦げ目がついた。皮の部分はカリッとなっている。裏側も炙った。
一口。
噛んだ瞬間、肉汁が来た。淡白な中に、シーオの実の塩気が乗っている。焼き目の香ばしさが後から来た。
陽平:「……うまい」
声が漏れた。止める気にもならなかった。
陽平:「なんだこれ、野外でこんなにうまいのか」
陽平:(道具は枝と短剣と石だけで、調味料はその辺の木の実で、それでこの味になるのか。てか俺の腕か? 素材か? どっちでもいい)
もう一口食べた。もう一口。手でちぎって、口に運んだ。皮は硬かったが、肉は食べられた。ちゃんと、食べられた。
火の粉が、一つ舞い上がった。
陽平は炎を見ながら、残りの肉を少しずつ食べた。全部は食べなかった。残りはインベントリに仕舞った。試したら、本当に消えた。ちゃんと入った。
シーオの実も、布の切れ端に包んで仕舞った。次に使えるかもしれない。
火が少し小さくなった。
街道の光は、まだ向こうに見える。明日の朝、あそこへ行く。今夜はここで過ごす。体は動く。腹が満ちた。次の一手が分かっている。
陽平:「……よし、食えそうだ」
炎が、答えるみたいに少し揺れた。
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【第2話 リザルト&ステータス】
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▼ 陽平のステータス(現在)
Lv:1 HP:85/85 MP:38/40
スキル熟練度:
・《解析》Lv1 熟練度 14/100
・《収納》Lv1 熟練度 3/100
▼ 討伐記録
スライム(G) HP:14 ドロップ:G魔石×1、粘液×1
ホーンラビット(G) HP:27 ドロップ:G魔石×1、兎肉(後脚)×1
ホーンラビット(G) HP:23 ドロップ:F魔石×1(地属性・高品質)、兎肉×1
※1体は逃走。討伐数2/3。
▼ 入手素材・アイテム
・G魔石×2 推定価値:銅貨10枚×2=20枚
・F魔石×1(地属性・高品質) 推定価値:銅貨37枚(上振れ査定)
・粘液×1 推定価値:不明(ギルドで確認要)
・ホーンラビット後脚(焼き済み)×残量 インベントリ保管中
・シーオの実(砕いたもの) 布包み インベントリ保管中
▼ 陽平の考察
「後脚はモモ肉だ。淡白で悪くないが、内臓を捨てたのが痛い。
レバー、ハツ——あの鮮度で使えたはずだ。解体Lvが上がれば次は使える。
ホーンラビットのHP、思ったより27もあった。
逃げ足が速い分、正面は損だ——石で誘導して分断したのは正解。
次は内臓が使えるサイズを狙う。解体場を先に確保する。」
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