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突然、異世界に迷い込んだアラフォーパパ。帰れないから冒険者やって、焼肉屋はじめました  作者: きりざく


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第1話 白い扉の向こうへ

 声がした気がした。


 クローゼットの奥から、女の人の声。


 夢の端っこで聞いたような、そうでないような。陽平は薄く目を開けて、天井のシミを見た。呼吸が浅い。昨夜もうまく眠れなかったのかもしれない。胸の上に重いものが乗っているみたいで、肺が広がりにくい感じがする。


 台所で蛇口がひねられる音。

 湯気の匂いが廊下まで伸びてくる。

 皿が触れ合う乾いた音。


 美咲が、もう動いている。


 陽平はゆっくり息を吐いて、布団の端を手で押した。起き上がろうとすると背中が先に張り、腰が重い。急いで立つと頭がふわっとする。今日は最初から速度を落とすことにした。足を床に下ろして、一拍だけ待つ。足裏に板の冷たさが返ってくる。


陽平:(いつもの朝だ。そう思えることが、少しだけ救いになる)


 寝室の扉を開けると、台所の明かりが廊下まで溢れていた。美咲はエプロンをつけ、片手でフライパンを動かしながら、もう片方の手で皿を並べている。手の動きが止まらない。


 陽平はそこで一瞬、足を止めた。


 右手でフライパンの柄を握り、首をわずかに傾けて皿の位置を確かめる、その横顔。茶色の髪が耳にかかって、首筋が白い。三十四歳。自分より十歳下の妻は、陽平が休職してからも、毎朝この時間に立っている。


陽平:(きれいだな)


 それだけだった。それだけしか思えなかった自分が、少し情けなかった。


 テーブルに子どもが二人座っていた。蓮が先に顔を上げる。


蓮:「パパ、おはよ」


 結衣はパンを持ったまま、まっすぐ聞いた。


結衣:「パパ、きょう、いるの?」


 陽平は頷いて、椅子を引いた。脚が床をこすって、少し大きな音が鳴った。


陽平:「いるよ。今日は家にいる」


 美咲がフライパンから目を離さずに言う。


美咲:「あなた、今日は病院に電話するだけでいいよ。外に出なくていいから。体がつらいと思ったら、横になってて」


 条件がはっきりしている言い方だった。陽平が「外に出たい」と言い張った朝が何度かあって、美咲はそれを覚えているのだと思う。陽平はそれがありがたくて、少し返事が遅れた。


陽平:「分かった。……ありがとう」


 美咲が水を注いだコップを置いた。陽平はすぐに一口飲んだ。冷たい水が喉を通って、乾きが引く。


 袋が、かさっと鳴る。

 皿が、かちりと触れる。

 結衣が指についた甘さを舐める。


 小さな音が続くと、頭が同じ場所に留まる。


 壁際の棚に目が行く。本の背が並んでいる。剣、魔法、ギルド、異世界。昔から好きで、体を壊す前は仕事の合間に読んだり見たりしていた。若い頃はオンラインゲームもよくやった。


陽平:(行けるはずがない。分かってる。けれど体が思うように動かない日が続くと、頭の端がそういう話に寄りたがる。考えたくないことから目を外したいだけだと自分で分かっていても、勝手にそうなる)


 陽平は目を皿に戻した。


 食事が終わると、美咲は子どもたちを連れて先に出た。蓮が玄関でスニーカーを逆向きに履こうとして、美咲に直されていた。結衣は出がけに振り返って、陽平を一秒だけ見た。何も言わなかったけれど、その一秒が妙に長く感じた。


 扉が閉まると、静かになった。


 台所のシンクに残った皿。テーブルの上のコップ二つ。こういうものを片付けていると、少しだけ気持ちが落ち着く。動いてはいる。できることをしている。それだけで頭が素直になる。


 皿を洗い終えて、陽平はタオルで手を拭いた。


 廊下に出たところで、ゆっくり二階へ上がった。途中で一度、手すりを掴んだ。心臓が少し早くなるのを感じて、踊り場で息をついた。


陽平:(美咲には言わない。心配させたくないわけじゃない。ただ、言葉にするとそれが現実の形を持ってしまうような気がして、うまく言い出せない)


 寝室の奥のクローゼットを開けた。衣替えの作業が途中で止まったままだ。段ボール箱が一つ、斜めに置いてある。冬物の布の匂い。しまっていた毛布の匂い。いつもの匂い。


 美咲に頼まれていた。できるところまででいいから、と。


 陽平は箱を引き出して、床に置いた。それだけで肩が少し重くなる感じがした。


陽平:(もう少し楽になれたら。……何度思っても変わらない。分かっている)


 何気なく、クローゼットの奥に目を向けた。


 暗い。


 いつもの暗さじゃない気がした。奥の壁が、普通より遠く見える。いや、そうじゃなくて、暗さの質が違う。昼間のクローゼットの奥には、薄ぼんやりとでも輪郭がある。壁紙の白さとか、しまったままの荷物の影とか。でも今は、ただ黒い塊みたいなものがそこにある。


陽平:(体調のせいかもしれない)


 金属の扉の端を指で触れた。冷たいのは普通だ。けれど、それとは別に指の腹だけがひやりとした。陽平は眉間に力が入るのを感じて、そのままもう少しだけ扉を引いた。


 明るくならない奥。

 目が勝手に吸い寄せられる。


 息が少し浅くなった。台所の音が、もうない。家の中が静かすぎる。


 扉を、もう少しだけ開けた。


 風はない。それでも首の後ろがぞくっとした。空気の温度が一瞬だけ変わったみたいに感じた。


 陽平は一歩、近づいた。


 暗さが、揺れている気がした。


 確かめるために、もう少しだけ扉を開けた。


 その瞬間、白い光が内側から溢れた。


 輪郭が消える壁。

 色が抜ける床。

 白で埋まる視界。


 足元の感覚が薄くなる。音が遠くなる。美咲の声が聞こえた気がした。子どもたちの声も。けれど、言葉として形になる前に、全部が白の奥へ沈んでいった。


   ◆


 境目がない。

 音が返らない。

 匂いがない。


 眩しさではない。空間そのものが白い。床も壁も天井も、どこで終わるのかが分からない。音が吸い込まれていくみたいに静かで、匂いもしない。


 陽平は瞬きをして、喉を鳴らした。


陽平:「……ここ、どこだ」


 自分の声が、自分の耳にだけ返ってくる。


 それなのに、すぐ近くに気配がある。


 陽平が振り向こうとした瞬間。


女神(管理者):「え、あ、ちょっと待って。ちょっとだけ待ってください」


 声が先に来た。


 次いで、白い空間のどこかから、一人の女が現れた。髪は長くて白に近い。薄い布をまとっている。見た目は二十代の半ばくらいに見えるが、目の奥に妙な古さがある。その女が、陽平から視線をそらしたまま、指を折って何かを数えている。口の中で小さく呟いている。


 陽平はしばらくそれを見ていた。


女神(管理者):「……はい、大丈夫です。落ち着きました」


陽平:「落ち着いたのはそっちだけですね」


 女神はやっと陽平を正面から見た。気まずそうに目が泳いだ。


女神(管理者):「ご説明します。わたしは、この世界を管理している者です。あなたは今、二つの世界の境目に来ています」


陽平:「……クローゼットから?」


女神(管理者):「その……はい。そうなります」


陽平:「クローゼットが世界の境目なんですか」


女神(管理者):「ご自宅の間取りがちょうど良かったといいますか、あの位置に薄い場所があったといいますか……」


 言いながら、女神の視線が微妙に下を向いた。陽平は外資系の会社に十年いた。交渉の席で、相手の言葉の端が濁るときの感触を知っている。


陽平:(この人は、何かを言い切れていない。今は追及しても仕方がない。状況を把握するのが先だ)


陽平:「それで、俺はどうなるんですか。家に帰れますか」


 女神が、一拍だけ止まった。


女神(管理者):「今は、戻れない状態です。この接続が非常に不安定で……整うまでには、少し時間がかかります」


陽平:「少し、というのは」


女神(管理者):「それが……今の時点では、正確なことが言えません。申し訳ありません」


 陽平は息を一度吸って、吐いた。


 心臓が少し早い。手がわずかに冷たい。


陽平:(パニックになっても何も変わらない。それは分かっている。ただ、一つだけ聞いておかなければならないことがある)


陽平:「妻と子どもは、どうなりますか。俺がここにいる間、あっちの時間は進むんですか」


女神(管理者):「そこは大丈夫です。あなたがここにいる間、元の世界の時間は止まります。ご家族は、何も変わらない状態で待っています」


 それを聞いて、陽平は少し肩の力が抜けた。


陽平:「……それだけは、よかった」


 女神が申し訳なさそうに続けた。


女神(管理者):「あなたに、お詫びがあります。この状況はわたしの管理の手違いで生じたものです。責任を取るために、異世界での生活に役立つものをお渡しします」


陽平:「手違い、ね」


女神(管理者):「……はい」


陽平:「さっき、戻れる時期が言えないって言いましたよね。言えないんじゃなくて、言いたくない理由がある、ということじゃないですか」


 女神が口を開けた。閉じた。また開けた。


女神(管理者):「…………」


 五秒ほど沈黙した後、女神は小さく息を吐いた。


女神(管理者):「今は、まだお話できないことがあります。ただ、嘘はついていません。戻れない、というのは本当のことです」


陽平:「今は、まだ、ですか」


女神(管理者):「……はい」


 陽平は女神の目を見た。女神は今度は目をそらさなかった。


陽平:(完全な嘘ではないとは思う。追い詰めても仕方がない局面だということも、分かった)


陽平:「分かりました。お詫びの話、聞かせてください」


 女神が、ほんの少し表情を緩めた。


女神(管理者):「まず、言葉です。あちらの世界の言葉と文字が、そのままお分かりになるようにします。次に、お持ち物を収める力。空間に物を仕舞えるようになります。それから、物事を詳しく見る力です。生き物の状態や、物の性質を確かめるのに役立ちます」


 言いながら、女神が片手をかざした。


 陽平の体の中に、何かが流れ込んでくるような感覚があった。熱くはない。ただ、指先から肩にかけて、じわっと広がる感じ。


女神(管理者):「それと、これを」


 女神が差し出したのは、短剣だった。鞘に入っていて、刃渡りは二十センチもない。飾り気のない、地味な作りだ。


陽平:「……武器ですか」


女神(管理者):「初心者向けの、です。解体や護身に使えます。あまり良いものではありませんが、最初のうちは役に立つはずです」


 陽平はそれを受け取って、少し重さを確かめた。思ったより軽い。思ったより冷たい。


陽平:(きた、これ)


 胸の奥が、少しだけ浮いた。


陽平:(まずい。美咲のことを考えろ、蓮のことを考えろ、結衣のことを考えろ。それは本当のことで、頭の中にちゃんとある)


陽平:(あるのに。手の中の短剣の重さが、じわっと体に馴染んでいく感触が、止まらない。四十四年生きてきて、こんな場面に立つとは思っていなかった。異世界系の話で何度も読んだやつが、今自分に起きている)


陽平:(ワクワクしてんじゃねえよ俺。……でも来た。確かに来た)


女神(管理者):「自分の状態を確かめてみてください。目を閉じて、頭の中に問いかけるようにすると、見えます」


 陽平は短剣を握ったまま、目を閉じた。


 そう思った瞬間、目の裏に文字が浮いた。



名前  :——

年齢  :44

状態  :健康

レベル :1


スキル《異世界言語》

スキル《異世界文字理解》

スキル《収納》

スキル《解析》



 陽平は目を開けた。


陽平:「これ、俺のステータスですか」


女神(管理者):「そうなります。レベルは経験を積むことで上がります。スキルも、使うほど育ちます」


陽平:「名前が、空白になってますが」


女神(管理者):「名前欄は、ご自身で決めていただけます。異世界では本名を使わない方が多いので、好きな名前をつけてください」


陽平:(……名前か。後で考える。今はそれどころじゃない)


陽平:「状態が、健康になってる」


女神(管理者):「……異世界の空気は、あなたの体に合っているようです」


 陽平はもう一度、目を閉じた。


 状態、健康。


 その文字を、もう一度だけ確かめた。


陽平:(ここ何ヶ月も、健康という言葉は自分とは別の場所にあった。病院の待合で、診察室で、風呂上がりに鏡を見るたびに、それを確認するのをやめた。考えても変わらないから。答えは最初から決まっているから)


陽平:(それが今、目の裏に普通の字で浮いている)


 陽平は目を開けた。


 泣きそうではなかった。でも、喉の奥に何か熱いものが来て、そこで止まっていた。出てこない。出し方が分からない。ただ、そこにある。ずっとそこにある。それが、意外なくらい重かった。


陽平:「……分かりました。行きます」


女神(管理者):「行き先は、近くに村があります。まず、そこを目指してください。危険な場所には、わたしの声が聞こえます」


陽平:「さっきの声、あれはあなたでしたか。クローゼットから聞こえた気がした声」


 女神が一瞬、困ったような顔をした。


女神(管理者):「……修復の途中で、少し漏れてしまったようです」


陽平:「修復、ですか」


女神(管理者):「今は説明が難しいですが、必要な時には話します」


 陽平は短剣を腰帯に差し込んだ。ぴったりとはまった。まるで最初からそこにあったみたいに。


 白い空間が、ゆっくりと薄れていく。


 遠くなる足元。境界が消えていく感覚。


 その瞬間、どこかから声が聞こえた気がした。


 美咲の声ではなかった。蓮でも、結衣でもなかった。でも確かに、自分を呼んでいる声がした。


 陽平は目を閉じた。


陽平:(帰る)


 それだけを決めて、白の中へ落ちた。


   ◆


 地面がある。


 まず、それが分かった。手のひらに湿った土の感触がある。体の重さが、下へきちんと返ってきている。陽平はゆっくり頭を起こして、周りを見た。


 木が、ある。背の高い木が、遠くまで続いている。葉の間から光が落ちていて、地面に斑な影を作っている。空気は湿っていて、土と草の匂いがする。どこかで水の音がする。小川でもあるのかもしれない。


 鳥の声が、したかもしれない。したかもしれない、というのは、聞き慣れた鳥の声じゃないから。


 陽平は立ち上がった。膝が少し震えている。それは緊張のせいだと分かった。


 そして、気づいた。


 息が、切れていない。


 立ち上がる動作だけで、心臓が少し早くなる感覚に慣れていた。踊り場で手すりを掴んで、ここまでが今の自分の限界だと思い知らされるのが、ここ数ヶ月の普通だった。


 でも今は、普通に立っている。


 陽平は試しに、その場で小走りを三歩した。何も起きなかった。心臓は少しも乱れていない。肺が普通に広がる。息が普通に入ってくる。


陽平:(何これ。体の中が、軽い)


陽平:(足の裏から頭の先まで、詰まっていた何かが抜けたみたいな、そういう軽さ。こんな感覚は何年ぶりだろうと思って、思い出せなかった)


 陽平は木々の向こうに目を向けた。遠く、街道みたいな線が見える。人が作った道の形をしている。


陽平:(行くしかない)


 手のひらについた土を、ズボンの腿で払った。短剣が腰にある。スキルが、体の中にある。解析の声が、必要な時に来ると言っていた。


 陽平は一歩、踏み出した。


 もう一歩。


 体は、ちゃんと動いた。

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