葛藤
葛藤。俺はそれと対峙していた。
水菜河合を救いたい。彼女はこのままいけば十八歳で世界のために天命を全う、つまりは、他人のために死ぬという使命を果たすことになる。そんなの、間違っている。俺はそう考えていた。
もちろん、天命の話だって普通に考えれば与太話だと馬鹿にされるだろう。
だが、彼女の行動や、ホテルで見た謎の背中の鞭打ちの跡。そういう証拠の積み重ねが俺を妄信させているのだ。
もう一度述べる。俺みたいな人間が他人様を救うなんてことに、葛藤をしていた。
部長の風上先輩のバスケ生命を絶たせたこと。それは、バスケが好きな人間にとって、殺されたのも同然のことだった。
先輩は病室で「お前のせいじゃない」と言ってくれた。だが、やはり腹の中では何を考えていたのか分からない。無論、腸が煮えくり返る思いだっただろう。
だからこそ思う。矛盾しているのではないか、と。
一人の人生を潰して。
そしてもう一人の人生を救おうとしている。
俺は、人の価値を天秤に掛ける行為は、反吐が出るほど嫌いで。けれど、その価値観と矛盾した行動を取ろうとしているのではないか。
不慮の事故だったから仕方がない。
大好きな恋人だから救いたい。
そんなことを考える自分自身が、気持ちが悪いほどの二枚舌であり、道化師のようだと思った。
□■□
初冬。そろそろ衣替えかな、とか思いながらも天候は相も変わらず雨。悩んだ末に厚木のセーターをアイロンで直して、コートを一着クリーニングに出した。
ついでに冷蔵室を整理していると、梅サイダーの空き瓶が出てきた。
飲みたいな。そう思い、錦糸町に住まう天音さんの自宅に連絡を掛けた。
〈はい。もしもし〉
「あっ、俺です。雨霧雷太です。すみません。梅サイダーが無くなってしまって。歩美も飲みたがっているし、作ってもらっても?」
〈いいよ。家においで〉
「ありがとうございます」
俺は鼠色のくたびれたパーカーを羽織り、水色の傘を差して玄関から歩みだした。
錦糸町まで電車を乗り継ぐ。
そして最寄り駅に着いて十五分。ブロック塀に囲まれた一方通行の道を歩き、餌付けされているであろう、人慣れした太った三毛猫が悠々と歩いていた。
時折、毛に吸い込んだ雨粒のせいで重くなった体を、左右に振ることでなんとか軽くさせようとしているが出来てはいない。そんな不器用なところが可愛くて。そういうゆったりとした昭和ながらの雰囲気がある町が、錦糸町なのだと思う。ディープな大人な街、とはまだ無縁な少年然とした考え方だが……
T字を右に曲がったところで、カスミソウの花壇が整然と並べられている一軒家がある。そこが天音の家だ。
インターホンを鳴らす。出てきた天音は黒色のショーツ姿――つまりはほぼ下着なわけだった――もうすぐ仕事に向かうのかメイクは施されていたが。
「久しぶり。雷太君」
「お久しぶりです」
透けて見えるブラとその下をどう意識しないようにするかで頭の中が一杯だった。……いや、俺は中学生のサルか。
「お茶出せないかも。鬼殺しならあるけど」
「それ飲むと鬼じゃなくて俺が死にます……」
「はは。雷太君は相変わらず面白いなぁ。どう、お姉さんとイチャイチャする?」
「……お世辞だと、受け取っておきます」
「口が上手いなぁ。こりゃあ将来はよほどのプレイボーイか、女たらしだね」
「なんでその二つしかないんですか。しかもそれ、意味同じだし」
「まぁ、中入ってよ」
「お邪魔します」
靴をそろえて玄関から横に続き間になっているリビングに通された。
俺はまず梅サイダーの礼を言った。
「いいのよ。ただの私の趣味なんだし。逆に趣味に付き合ってくれてありがと。嬉しいよ」
「いえいえ。妹もたくさんお代わりしていました」
天音はホッと息を吐いた。そしてこちらを見据えてくる。
「ねぇ、前にも話したけど、本当に私の子になるつもりはないの? 養子縁組の話、悪くは無いと思うけど」
「……すみません。あんな母親ですけど、でも、自分にとって唯一の親なんです」
「そっか。《《姉さん》》のことをそこまで……」
「天音さんも、叔母さんとして俺たちのことを気遣ってくれているのは、凄く感謝しているんです。でも、母さんは正直、良い気分はしないようで」
「でも、毎日ホストクラブで飲み歩いて。どうせアフターでも行ってホテルで……、いや、ごめん。――けれどそんなネグレクトをしている母親よ。子育てには、責任が伴うもの。産んで育てるって一度決断したら逃げたら駄目なの。子供の人生は親の背中に乗っているから」
天音の言葉は正論だった。だが、世の中正論では片付けられないこともある。
責任。覚悟。義務。これらの言葉は当然のごとく当事者を苦しめる重圧である。だが、これらが出来ない人間を許容してくれるほど、社会は優しくない。
この三つの言葉。すべてに状況が当てはまるのが水菜河合だ。
『異常気象を止めるため、覚悟を持って人柱になれ。それは義務だ』
彼女は、彼女だけは俺ら同年代よりも先に言葉の意味で大人になっているのかもしれない。
「生活費は大丈夫?」
「まぁ、なんとか……バイトを掛け持ちして」
実は、ミュージックバーのバイト以外にも休日にステージ設営のバイトをしていたりもする。
それでも、生活費はぎりぎりだ。
「お金の援助をしてあげたいけど、あなたが十八歳になるまでは無理ね」
「……」
「未成年は親の名義でしか口座を作れない。だとすればあなたにお金を振り込んでも、姉さんが名義人だから簡単に引き出せる。だから――」
天音は俺の手首をつかんだ。反射的に彼女の眼を見る。
二十六歳の天音の、精一杯の覚悟を決めた据えた瞳。
「私の子供になったほうがいい。愛情なら、誰にも負けないわ」
「天音さん……正直に言います。天音さんはまだ二十六歳。俺はまだしも、歩美は三歳なんです。天音さんが幸せになるのが遠のくだけなんですよ。俺たちは俺たちでやります。だから……」
俺は空瓶を上げて気丈に振舞った。
「ときどき、梅サイダーを飲ませてくださいよ。それだけで、俺たち兄妹は嬉しいんですから」
天音は目蓋を伏せて、口ごもりながら言った。
「助けてほしかったら、いつでも言うのよ。あなたが、あなた達が幸せになるのが何よりも大事なんだから」




