離乳食
「えっ、拓真君。雷太は今日、学校来てないの?」
「うん。それがなに? お前とあいつ、仲良かったっけ」
河合はそれを聞いて気落ちした。
学校を休んだことを友人には話して、恋人には相談しなかったこと。そしてなにより、友人に交際していることを黙っていたこと。
なによ。普通は好きな人と付き合えたら自慢するものじゃないの?
そう考えた後で、我に返った。
そもそも、自分も、彼と交際に至った関係も普通ではない。だったら誰にも話さず寡黙を貫いている彼の判断は間違っていないのではないか。
どんどんとその思考は現実味を帯びてくると、卑屈になってくる自分を自覚する。
――それが、みじめに感じられて嫌だ。
「ねぇ、拓真君。彼の家、教えてくれない?」
「いいけど。……ふーん。なるほどね」
なにか物を言いたげな拓真を放っておいて、河合は三歳児の離乳食の作り方をネットで調べていた。
やけに難しいわね。……出来るかしら。
彼の家は木造アパートの二階だった。
インターホンを鳴らす。鍵の開く音がする。
「はい……って、え? 河合? どうして……というか、その大量のレジ袋。お前……」
困惑している彼を横目に勝手に家に入らせてもらう。
「おい、ちょっと……」
間取りはキッチンとリビングが一つになっていて、横に一つの部屋がある。そこに大きめの学習机と、中央に卓袱台。小さな敷布団に横になっている歩美ちゃん。
「妹さんが風邪を引いているって聞いて。手伝いに来たの」
「それは……ありがとう」
「ねぇ。なんで言ってくれなかったの? 私に!」
彼は分が悪そうに頬を掻いた。
「それは悪かった。お前を巻き込みたくなかったんだよ」
「そう……」
こほん、こほん。わずかな咳の音が響いた。瞼を開ける歩美。
「おはようお兄ちゃん……。あえ、お兄ちゃんが女の子に。今日からお姉ちゃんかな」
「俺はここだ。歩美。そこにいるのは、えっと――」
尚も河合との関係を言いにくそうにしている彼に腹を立てながらも、歩美に「雷太の彼女です」と言った。
「おい、待てって!」
「なにかまずい?」
「おお、お兄ちゃんに恋人が。こりゃあお赤飯を」
赤面している彼。河合も少し体温が上がったように思える。
「歩美、そんな言葉をどこで覚えたんだ」
「呪術廻戦!」
「ああ。あれね。はは」
河合は少々口角が引きつってしまう。
恋人の前で生理ネタを言わないでほしかったな。まぁ、本当の意味を知ってはいないから悪気はないんだろうけど。
「お兄ちゃんのこと、よろしくお願いします」
「もちろん、お世話しますよ」
「おい、そこで女子会すな」
彼はお茶を出してくれた。ずずっと一口……じゃない!
河合は立ち上がって彼に一言。「キッチン借りるね」
「何かするのか?」
「離乳食を作るの」
「は?」
「いや、だから歩美ちゃんのために離乳食を……」
「もう、歩美は離乳食卒業したぞ。今日は卵粥を作ろうかなって思っていたんだが」
河合は膝から崩れ落ちた。空回りした自分に気恥ずかしさを覚える。
熱さまシートをおでこに貼った歩美ちゃんと、なぜか終始ぶっきらぼうな雷太と、三人で卓袱台を囲んで食べた卵粥は特別美味しかった。胸を温めてくれる、そんなぬくもりを感じる。
「あとでちょっと話がある」
「ふーふ。お熱いね。お二人さん」
「ふふ。歩美ちゃんはおませさんね」
卵粥を完食し終えて(歩美ちゃんは半分ほど残して、風邪薬を飲んだ後すぐに眠った)それから食器を洗い、しばらくして雷太が目の前に座れと指示を出してきた。
その彼の雰囲気がいつもと違っていて、少し怖かった。
「どうしたの……?」
「俺は……君を大事にしたいと思っているし、大事にしているつもりだ。でも、俺はときどき思うんだよ。お前と歩んだ記憶を共有している人間が多ければ多いほど、お前がいなくなった後が、その……」
彼はそのとき、言葉に詰まった。
そんな彼の態度でようやく悟った自分に憤った。
彼は、ずっと一人で苦悶していたのだ。
河合が死んだあと、自分と雷太との関係を知っている人間は、同情や恋人の死を嘆いてくれるだろう。だが、それは同時に励まされる場合もあれば、追いつめられる可能性だってある。それに人間、誰しも善人だとは限らない。皮肉や嫌味のベールを巻いたり、ときには鋭利に直接攻撃をしてくる。他人の悪口は蜜の味。恋人を失った未亡人の彼をけしかけるのはさぞ、絶品だろう。
「ごめん……」
「いや、これは俺の我儘でもあるんだ。お前が謝る必要もない」
「ねぇ。償いをさせて……!」
「話聞いてたか?」
「無神経に恋人の配慮を逆撫でしたのは、私だよ。お咎めなしは駄目だって。“なんでもするから”」
「なんでも?」
「あっ、そういうことは駄目だよ。まだね」
彼は冗談っぽく舌打ちし、「まだっていつなんだよ」とぼやいたあと、少し顔色がよくなった。
「バスケがしたい。そのために協力してくれないか?」
「は? そんなことでいいの……って、そっか。雷太は学校じゃあ出来ないもんね。よし、私の奢りでラウンドワンに――」
「いや、風上先輩と、ワンオンワンがしたい……」
彼の瞳は情熱と、尊敬と哀れみと執念が映されていた。複雑で、でもどれもが風上という男を心の底から尊敬している証拠であるように思える。
「でも、筋肉断裂しているんでしょ」
「車椅子バスケなら」
その身勝手な言葉に腹が立った。
「あのね、そういう出来もしないことを言うのは勝手だけど。……うーん。いい、怪我をさせたのはあなた。これは紛れもない事実だよね。そのせいでバスケが一生できなくなりました。そうしたら数か月後、その相手がまたやってきて、こちらが不完全燃焼なんでもう一度バスケやりませんか? 方法はそちらが車椅子に乗って。って、完全に風上さんのこと馬鹿にしてるよ」
容赦なくまくしたてた河合の説教に、もしかしたら反論するかもと思ったのだが彼は素直に納得した。
「そうだよな……。わりぃ。聞かなかったことにしてくれ」
どうして彼は、自分を苦しめているバスケにこだわり続けているのだろう。




