第9話「届かせ方」
夜のハウスは静かだった。
ビニールの天井に水滴が浮かび、電球の淡い光が葉を照らす。
いちかは一人、収穫パックを前に腕を組んだまま動けずにいた。
彩葉に言われた言葉が、ずっと頭を離れない。
『味は最後。そこに辿り着いた客だけが舌を使う』
「…最後って何よ」
悔しいというより、むしろ怖かった。
味を追っているつもりで、実は競技場にすら立ってなかったかもしれないと気づいたからだ。
部屋に戻ると、机の引き出しから父のノートを取り出した。
黄ばんだ紙にびっしりと数字と走り書きの矢印が走る。
――味→菌→リン酸
ページの隅に父の字で小さくこう書いてある。
《余韻は菌と土》
その先が白紙だ。
まるで突然、父の時間だけが止まったように。
「父ちゃん…届かせ方、知らんかったん?」
言った瞬間、胸の奥がズキッと痛んだ。
父を責めたわけじゃない。ただ、父はここまで来て、止まった。
自分はその続きをやりたいだけだ。
スマホを掴んだ。
《彩葉さん、行っていい?》
送信して数秒後、既読もつけず返ってきた。
《来たらええ。覚悟できた顔で》
◆
工房の扉を開けると、彩葉は箱詰めの途中だった。
いちかを見るなり、じろっと目を細める。
「あらいっちゃん、やっと“負け顔”やね」
「負け顔ってなんよ」
「負けを認めた人間は学びの段に入るとよ。農家はそこに時間がかかる」
くやしいが反論できない。
彩葉は手を止め、
「よし、届かせ方ん話いこう」
と椅子を引いた。
◆
「届かせ方は4つしか無い」
画用紙に太く書く。
距離/時間/温度/衝撃
「この4つが味を削る。届かせ方は味を守る技術でもあると」
「技術…」
「いっちゃん、農家は味を作るやろ。
でも客は届いた味しか知らんと」
次の瞬間、彩葉は収穫パックをひょいと持ち、
「素材いただき〜」
と言いながら4つに分け始めた。
「今から全部同じ粒を条件だけ変えて舌で比較してもらう」
いちかの背筋が伸びる。これは逃げられんやつや。
◆
彩葉はまず1つめを出した。
「一つ目。即時・常温。ハウス直後に一番近い状態」
かじると、果汁が舌の中央で跳ね、酸味が輪郭を描き、その後香りがすっと立つ。
いちかは自然と言葉がこぼれた。
「—素直」
「二つ目。即時・冷蔵」
冷たい。表面の香りが締まり、酸の輪郭は細く、噛み始めの甘みは後ろに遅れた。
味の構図がさっきと丸ごと違う。
「—香りが遅れとう」
「三つ目。距離あり。冷蔵+6時間遅延シミュレーション」
噛み始めに“水”の味が出た。香りも甘みも後方に押され、余韻が薄い。
いちかの眉がよじれる。
「これ…弱い…」
「四つ目。衝撃あり。配送想定で揺らしとる」
噛んだ瞬間に繊維が崩れ、果汁が散って終わった。
甘みが立つ前に液が先に舌を濡らし、余韻もほぼ無く消えた。
「…同じ?」
いちかは呟いた。
それは質問というより、敗北の確認だった。
「全部いっちゃんのいちご。全部同じ粒。問題は“届き方”だけ」
彩葉は淡々と言う。
「味は最後の審判やけん、届かん味は無いのと同じ」
◆
いちかは椅子に沈んだ。
ハウスでの努力、菌の実験、CECの数値、余韻の追求。
全部“届いて初めて存在する”なんて聞いてない。
彩葉はさらに刺す。
「農家は味を努力して作るけん誇っとる。でもね、客は届いた味だけで判断する。
この差を埋めんと勝負にすらならん」
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
同時に別の何かが立ち上がる。
(じゃあ彩葉さんは…届かせ方で…綺羅にも届いとう…ってことやん)
そう思った瞬間、彩葉はくすっと笑った。
「来年はうちも京極のイチゴに勝つつもりやけんね。贈答市場で」
「うちは品評会で勝つ。味で勝つって決めたけん」
「なら届かせ方は外せん。届いて初めて味は答えになる。
いっちゃんの父ちゃんは味主義の人やけん、そこが空白なんよ」
◆
家に戻ると、いちかは濡れた手も拭かず父のノートを広げた。
――味→菌→リン酸→……
空欄の右側に、自分でそっと書いた。
――届かせ方
「ここまででようやく味の番が来るんよね…」
ページを閉じると、スマホが震えた。彩葉さんだ。
《届かせ方クリアしたら次は“舌の評価”。
品評会はそこが戦場。いっちゃんの敵は京極やろ?
ま、うちの敵でもあるけどね笑》
指が震えた。
恐怖じゃなくて、血が沸く感覚。
「京極綺羅…味で超える」
小さく呟いた声は、思ったより強かった。




