第8話「財布が開く瞬間」
朝の光がハウスのフィルムに薄く広がっていた。
いちかは父のノートを閉じ、スマホのメッセージ画面を見返す。
《了解。次は“期待値の温度”から入ろう。》
畠山調の返信。それは“次の扉がある”という宣言だった。
(彩葉さんに見せて確かめたいんよ…これで合っとるか)
前みたいに“教えてください”じゃない。
今回は“味を届けるための導線”に自分の感覚が触れた確信があった。
◆
昼下がり。
いちかは軽い呼吸で彩葉の工房を訪ねる。
「彩葉さん、おると?」
扉を開けると彩葉は作業台にも座ってない。
パッキング材や箱が積まれた奥でキャップをかぶり、靴を履いていた。
「あぁ、いっちゃん。ちょうどよかとこ来たね」
「見せたいもんあるんよ。合っとるか確かめてほしい」
彩葉はくすっと笑う。
「ふ〜ん…やっと“確かめたい”って言うようになったね。いいやん」
いちかは差し出したパックを抱えて説明を始めようとしたが、彩葉は手のひらを立てて遮る。
「説明はよかよか。だいたいどこまで成長したか分かるけん、あと導線の答えあわせは現場でしか成立せん」
「現場ってどこよ」
「財布が開くとこ。乗って」
◆
軽バンが市内へ入る。
夕方の交通量、信号、歩道の人波。
いちかは少し緊張していた。
(財布が開くとこ…って言い方よ)
「彩葉さん、味で勝負する場所じゃないん?」
「勝負は味の前に九割決まっとるとよ」
博多阪急の正面で車が止まる。
「催事やけん、動線、用途、温度が全部出てくる」
◆
催事フロアは混雑していた。
苺だけじゃない。果物、焼き菓子、ジャム、チーズ、紅茶。
並びが全て“贈答か自宅か”で分かれている。
まず彩葉は表情ひとつ変えず指さす。
「ほら、ここ見て。“試食で勝負”と思うやろ?違うとよ」
客は試食台の前で止まるが買わない。
しかしその横の地味なブースで財布が開く。
「えっ、なんでそっちなん?」
「用途。見てみ」
POPにはこう書かれていた。
《明日のフルーツサンドに最適》
《ケーキ屋ご用達品種》
《子ども安心粒》
客の口が答えを言う。
「これサンド用に丁度いいねぇ」
「子どもにいいサイズやん」
いちかの心臓が強く跳ねた。
(味より…使われ方で買われとる…?)
彩葉はさらに追い打ちした。
「客は舌で買わん。生活で買うと」
◆
別の棚では箱が縦に並んでいた。
鮮度よりも“取り扱いやすさ”が優先されている。
「導線は期待値を整える工程」
彩葉は指で棚の高さを示す。
「粒が揃っとるのは“綺麗”の期待値。
箱の高さは“潰れない”の期待値。
用途表示は“失敗しない”の期待値」
「味は?」
「最後。そこに辿りついた客だけが舌を使う」
◆
いちかは飲み込んだ。
(父ちゃんは味を書き残した。
調さんは温度を言った。
彩葉さんは用途と期待値…)
線が繋がる音がした。
◆
小さな贈答コーナーの横にいちごの竹箱が並んでいた。
POPにはこうあった。
《予約制/冷蔵配送/用途:贈答》
値札は高い。しかし客は迷いなく予約台帳に名前を書く。
(あれ…贈答って…勝負がもう付いとる…)
彩葉が淡々と言う。
「贈答は“失敗できない市場”やけん、導線が最も強く働く」
「品評会は…味勝負やろ?」
「いっちゃん、審査員は用途の無い食客や。
だから導線が強く働く。
評価ポイントは“味が届くまでの妨害が無いこと”」
いちかは崩れ落ちそうになる。
(品評会すら味だけじゃ決まらんと…?)
◆
帰り道、彩葉はまとめた。
「導線は飾りじゃなく、味に到達させるための設計やと」
「味が答えやけん…じゃあ…そこに辿りつかせるとが導線なん…」
「そう。次は“届かせ方”。ここまで来たならいける」
いちかの視界に、父のノートの空白が浮かんだ。
味→菌→リン酸→……空欄。
(父ちゃんが止まったその先、うちが書くんよ)
軽バンは暮れかけの街を抜けた。




