第7話「期待値の温度」
彩葉の工房から帰った翌朝。
いちかはハウス前の水道で手を洗いながら、ぼんやり空を見上げていた。
(導線……って、何から手ぇつけると?)
昨日まで“味さえ正義”の生き方をしてきた人間には、見せられた世界が広すぎた。
キッチンのテーブルには父のノートが開きっぱなし。
味のコメント、糖度、香り、そして急に菌のページで止まっている。
(父ちゃんも途中で止まったんやろか…)
ノートの端には小さな字で一行だけある。
――“味は届けてはじめて意味を持つ”
いちかはその意味をまだ半分も掴めてない。
◆
ハウスに入る。
とりあえず彩葉の言っていた“第一印象”をやってみる。
粒を揃える。
ヘタを整える。
アルミシートで反射。
ミラーパックに立てて並べる。
しかし――
「……なんか違うっちゃ」
違和感の正体は“目的がないこと”。
並べること自体が目的になっていて、本来あるはずの
期待値を積む
という工程がどこにもない。
導線は「飾る作業」ではなく
「期待値をコントロールする技術」だということを
いちかはまだ知らない。
◆
昼過ぎ。
畠山調が軽トラで来た。
「おはよう、いちかさん。」
「調さん。ちょうど見せたいもんあったと」
いちかは自信ありげにパックを差し出す。
調は眉ひそめるでもなく淡々と一言。
「温度が死んどる。」
「はっ!?見た目ちゃうと?」
「見た目は二番。舌は温度に大きく左右される。」
調は小型の温度計をパックに近づける。
「糖度は温かすぎると消える。冷たすぎると香りが沈む。
余韻は温度域で変換される。」
いちかの脳が固まる。
(そんなことすら気にしとらんやった……)
調は続ける。
「それと綺羅の竹箱。あれ、デザインちゃうよ。温度やけん。」
心のど真ん中に刺さる。
(あいつ……最後まで“合理”やったん……)
王者は最後まで王者。
いちかの憧れも嫉妬も全部そこで止まる。
◆
調は箱のサンプルを軽トラから運び出す。
・スチロール
・段ボール
・木箱
・竹箱
それぞれの熱伝導率と湿度保持の説明を数字なしで――しかし逃げ場なく――語る。
「導線は期待値の温度曲線を設計すること。
食べるまでの時間に沿って変動を読まなきゃいかん。」
いちかは頭抱える。
(導線って…ただ可愛くするんやなくて
“味に届かせる物理”やん……)
父のノートが一瞬フラッシュバックする。
“味→菌→リン酸”…そして止まったページ。
(父ちゃんが止まったとこ……たぶんこの手前なんや…)
◆
夕方、自宅の台所。
いちかは素材を集めて温度保持の実験を始めた。
新聞紙、タオル、保冷剤、プラパック、紙袋。
時間をずらして母に食べ比べしてもらう。
結果――
・甘いけど香りが無い
・香りあるけど余韻が消える
・色が沈む
・舌に残らん
つまり全部失敗。
「味に届く前に死ぬとか…意味わからん…」
味は強い。
だが導線が弱すぎる。
◆
その時、母が一粒つまんで言う。
「いちかのん、冷えたら美味しゅうないね。」
いちかの目がカッと開く。
(うちの品種は…冷えると負けるんや…!)
つまり導線は
品種ごとに設計する
必要がある。
汎用なんて存在しない。
そして彩葉の声が脳内に蘇る。
――“いちごはパックの花瓶ばい!”
いちごは飾られて届けられ、期待を育てられ、
食べられてはじめて作品になる。
◆
その夜。
いちかはスマホを握りしめ調にメッセージ。
「彩葉さんにまた会いたい。
見せたいもんできたけん。」
即返信が来る。
《了解。次は“期待値の温度”から入ろう。》
画面の光がいちかの瞳に反射する。
父が止まったノートの先を
自分が書く番が来たと気づいた瞬間だった。




