第6話「味の前に届くもの」
朝六時。温度計がまだ10度を示す前に、いちかは目が覚めていた。
眠れたかどうかもよく分からないまま、調の言葉が耳の奥でぐるぐる回っていた。
――味は最後やけん。
――導線が悪かったら余韻も届かん。
(味が……最後?うちは味が答えって思っとったのに)
布団から出ると、机の上の父のノートが視界に入った。
数字とメモ。味の感想。白い空白。途切れた菌のページ。
(父ちゃん、味の前に何か見とったんかな……)
考え込む前に動いた。ハウスに行く準備をしながら、頭の中で整理していた。
――仁花:地力
――澪:菌
――調:土
――綺羅:香りと熟成
(みんな“味”にたどり着く前に戦っとる……)
考えが胸から溢れそうで、たまらず調に電話した。
「調さん、今日彩葉さんの所連れてってくれん……?」
電話の向こうで調は一拍置いて返した。
「了解」
車で来てくれるところが、調の優しさだった。
***
八時半。調の軽トラが止まり、いちかは乗り込んだ。
久留米から筑後に向かって走りながら、調は淡々と話し始めた。
「彩葉はもはや農家じゃなか。農業の腕も凄いけどデザインの人間。梱包と導線が専門といっていい」
「導線?」
「審査員が口に入れるまでの道筋ってこと」
(口に入れる“前”……)
「品評会の評価項目に“見栄え”あるの知っとるやろ?」
「知っとるけど……味が一番やろ」
「そらそう。でも味は最後しか評価されん」
調はウインカーを出しながら言った。
「綺羅は導線も強い。和の木箱から竹のパック、粒揃い、温度管理、光の当て方、説明文……全部整えとる」
「……最初から強いやんそんな」
「最初からじゃない。綺羅は努力で勝ちに来とる。あれは作品」
(作品……)
その単語は綺羅自身が言っていた。
――いちごは作品。
(父ちゃん……そこまで行けんかったんやろか)
***
工房に着くと、建物は農家というよりギャラリーだった。
白壁、照明、作業台、パッケージの型紙、色見本、ロゴ案。
いちごの匂いより、紙とインクの匂いが勝っている。
「いらっしゃーい。調さんのとこから?」
声が軽い。
グレーのエプロンを締め、長い髪を後ろでまとめた女が振り返った。
「紅野いちかです。父が……」
「紅野さんの娘っちゃん?あー分かる。調さんから聞いとる」
握手はせず、目だけで笑った。
距離感が近いのに触れないタイプの人だった。
「いっちゃん、まずは見て」
初対面であだ名をつけて自然と呼んでくる。
違和感はない。むしろ動きが早い。
彩葉は作業台に置かれたパックを三つ並べた。
中身は同じ粒のいちご。
違うのは“見せ方”だけ。
一つ目はただ詰めただけ。
二つ目は粒を大きい順に並べて角度を揃えた。
三つ目は反射板を敷いて光を跳ねさせ、粒の肩が赤く映えるようにしてあった。
「これ三つ、同じ畝、同じ朝取り、同じ温度」
「見た目が……全然違う」
「こっちが第一印象。味はまだ来とらん」
(味に届く前の勝負や……)
彩葉はピンセットを持った。農家がピンセット。異様だが美しかった。
「粒の肩ってね、糖度と光の情報が詰まっとる。ここ魅せんと損」
淡々と粒を回し、肩を揃え、ヘタを整え、無駄な水分を布で押さえる。
「ヘタは花の帽子やけん。濡れとったら台無し」
いちかは息を飲んだ。
「品評会はね、審査員の手元に届くまでに期待値が上下するんよ」
「期待値?」
「人間は期待値で味を変換する生き物やけん」
彩葉は三つのパックをいちかに差し出した。
「どれが一番甘そう?」
いちかは迷わず三つ目を指した。
「じゃあ次。どれが一番高そう?」
同じ答えだった。
「ほら、まだ食べてなかろ?」
彩葉は余裕の笑みで言った。
「期待値は舌に先行する」
***
しばらくして、彩葉は机に腰を乗せて言った。
「調さんは土の人。いっちゃんは味の人。
でも品評会は味だけやない。舌まで届かせんといけん」
「うちは味で勝ちたいんよ」
「それはいい。むしろ最高。
でもね、味って答えやけん、最後なんよ」
その言い方は調と同じだった。
「導線悪いと審査員は舌使う前に期待値下げる。
期待値が下がった舌はね……甘みを半分しか拾わんと」
「……そんなに影響するん?」
「影響するよ。人間の脳は“味覚だけで味を食べとらん”」
彩葉はライトの角度を変えながら続けた。
「色、揃い、照り、粒の肩、温度、箱、書体、紙質、ロゴ、匂い、梱包、手触り……」
(多い……)
「全部が味の前の余白やけん」
いちかはつい本音が漏れた。
「うちは農家やけん、そんな全部まで手が回らん……」
「全員そうやけん、差が出るとよ」
(ぐっ……言い返せん)
***
彩葉は今度はパックを持ち上げて言った。
「パックはね、花瓶ばい」
「花瓶?」
「いちごは花の続きやけん。花に似合う器に入れんと可哀想やん」
いちかは固まった。
そんな発想、農家の頭では出てこない。
「綺羅は器の人やけんね。あの箱、ずるいよ。
開けた瞬間に“期待値が立つ”」
その瞬間、いちかの背中に電気が走った。
(綺羅は味に勝っただけやない……導線でも勝っとったんや)
去年、自分のパックは普通だった。粒は揃ってなかったし、光は dull で、温度も適当だった。
(味に届く前に負けとったっちゃ……)
***
彩葉は最後に言った。
「いっちゃん。導線は努力で強くなる分野やけん。
味は才能も絡むけど、導線は全部技術で届く」
「技術……」
「味で勝ちたい人ほど、導線が必要なんよ。
だって味は最後やけん。最後に勝つために途中がいる」
理屈が腹の底に沈んだ。
「来年金賞狙うっちゃろ?」
「狙う。絶対」
「よかよ。なら導線は逃げられんね」
いちかはゆっくり息を吸った。
(味が答えなら……答えに届かせんといけん)
戦い方がひっくり返った瞬間だった。




