第5話 舞台の処方箋
ビニール越しの冬光が土を撫でる。畠山調は無言で一握りの土を崩した。
「舞台悪いと役者が死ぬ。甘さも余韻も全部」
土の粉がいちかの前でさらりと落ちた。
(役者……イチゴで、舞台が……土?)
「照明は菌。演出は水。最後に審査員を殴るんが果実」
調の説明は冷たいようで、なぜか温度があった。
「紅野さんのお父さんは役者から攻めた人やね。舞台は後回し」
(父ちゃんは味から行ったんよね……)
胸が少しだけ詰まる。
「採土行くよ」と調が言った。車は田主丸の筑後川沿いをゆっくり走り、紅野家のハウスへ入った。
***
ハウスに入ると湿り気と葉の香りが鼻を打った。いちかは胸が少しだけ誇らしかった。ここは父が最後に立ってた場所だ。
調は採土管を畝に刺し、静かに引き抜いた。細い筒の中に土の層が縞状に詰まる。
「ほら見て。上が有機、下が鉱質。ここは水切れ早いね」
「分かるんですか?」
「分かる。触ったら誰でも分かるようになる」
調は4ヶ所採り、ビニールに詰めた。次にポンプで土汁を絞ってECメーターに垂らした。ピッ、という高い電子音が鳴る。
「EC……高いね。肥料入れすぎてない?」
「肥料の計算苦手で…アバウトに入れちゃいました」
「なるほど。そのせいでせっかくの舞台が負けとる。苦手なら液肥で管理した方がいいよ」
(舞台が……負けてる?)
次はpH試験紙。水滴の色がゆっくり変わった。
「高いな。香り落ちるよ、これじゃ」
いちかの胸がズキッとした。
「CECとリン酸固定はラボ送り。数字出んと判断せん」
「CECって何ですか?」
「CECは人間で言う所の胃袋の大きさ、つまり養分を蓄えられる量。欲深い土はリン酸も味も抱え込むけん」
調の口調は一定だが、説明は農家に合わせて噛んである。農を翻訳できる人だった。
「数字は嘘つかん。味は嘘つく。両方見んと勝てん」
いちかは息を飲んだ。
(品評会って……味だけじゃないんだ)
(父ちゃん……本当にここまで来とったん?)
***
少し時間が経った。調の事務所に呼ばれると、白い分析用紙が机に置かれていた。
「出たよ、紅野さんの舞台」
印刷された数字は細かく並んでいた。
CEC:低め
pH:高め
硝酸:十分
リン酸:固定気味
有機率:中
地力:強
菌密度:弱
調は指でCECの欄をとん、と叩いた。
「CEC低いとリン酸捕まえん。pH高いと香り逃げる。硝酸強いから果実は太る。でも余韻は死ぬ」
(太さは仁花ちゃんの領域やけど……余韻は綺羅さんや澪ちゃんだ)
「紅野さんのお父さんな、太い実までは行っとった。余韻の前で止まっとる」
その言葉は優しく突き刺さった。
「……途中で、止まっとった?」
「途中で終わった仕事は、誰かが続ける」
その一言で喉が熱くなった。父の背中が浮かんだ。
◆ ◆ ◆
調はペンを置いて言う。
「続きは舞台整え。処方は四つ」
いちかは息を呑んだ。
「一つ目、堆肥。CECを上げて菌の餌も入れる。緩効性の炭素」
「二つ目、リン酸固定の解除。pHの調整とカルシウムの匙加減」
「三つ目、水。ECを管理して香りを消さないドライダウン」
「四つ目、香りの導線。菌に餌を渡す」
「……それって味の処方なんですか?」
調は首を横に振った。
「味はまだ来ん。味は最後」
いちかは固まった。
(うちは最初に味を見たのに…)
父もそうだ。ノートは味から始まり、菌の前で止まった。
それはいちか自身の信念でもあった。けれど順番を間違えていた。
「堆肥はどこで買えばよかですか?」
調は即答しないで眼鏡を押し上げた。
「堆肥は最後の壁やけん。作る人で天国と地獄」
「そんな……?」
「堆肥は情報が一番隠される。農家は肥料も菌も教えるのに、堆肥だけ口閉じる」
「父ちゃんも……?」
「持っとった。でも詰めきれんかった」
胸がずきんとした。父のノートの余白が頭に浮かぶ。
――見えんものほど味を作る
途中で終わっていたページ。
調がぽつりと言う。
「普通、数字は終わってて、味が空白になるんよ。でも紅野さんは逆。味が終わってて数字が途中」
肯定だった。
(父ちゃんは……弱かったんやなくて、変わっとったんや)
(途中で終わっとったなら……続けれるやん)
調はファイルを閉じた。
「数字と味の間に“見せ方”がある」
「見せ方?」
「味は届かんと意味ない。審査員は人間やけん」
いちかは一瞬黙った。思ってもみなかった領域だった。
「その領域、誰が得意なんです?」
調は壁の方を顎で示した。
「宇良 彩葉。農で一番喋れる。審査も販路も心理戦も強い」
「紹介……してくれるんですか?」
「するよ。でもクセ強いから気をつけて」
名刺は出ない。ただ導線だけが置かれた。
***
畑を出ると、冬の夕暮れが用水に落ちていた。風が弱く土の匂いが残る。
(父ちゃんのノートは“終わり”やなくて……“途中”)
(途中なら……続きがある)
(続けるんは……うちの仕事やけん)
音もなく次の扉が開いた。




