第4話 見える土と見えない土
仁花の畑と澪のラボを回って二日。冷えた空気がハウスのビニールをきしませる。
机の上には父のノート。ページをめくる指先に発酵の匂いがまだ残っていた。
澪の言った言葉が喉奥で反芻する。
――余韻は菌が作る。
――見えないものほど味を決める。
(見えんもんばっかりやん。味ってこんな遠いとこで作られとるん?)
ノートの端をつまんでパラパラとめくる。ページの左側――整った字と数字。右側――殴り書きの味の感想。
「酸味ひっかかる」「飲んだ後苦味」「果汁は伸びる」「香りは残らん」
その右ページの温度が好きだった。生きている文字。
ところが菌の章だけは一行しかなかった。
“見えんものほど味を作る”
(それ書いて終わっとるやん…)
そこだけ途切れたみたいだった。挑戦の途中で線がぷつりと切れている。見ていて胸がざわつく。
その下に薄い走り書き。
――土壌医は結果を見る
いちかは顔を上げた。机の端に一枚の名刺が置いてある。
畠山調 ― 土壌医。
それは品評会の次の日に貰ったものだった。父のノートの次のページと同じ匂いがした。
「……行こ」
言った瞬間、身体が動いていた。
***
畠山農園のハウスに着くと、静かだった。
土も、葉も、空気も、息を潜めているようだった。ファンの低い回転音と、水分計の電子音だけが響いている。
「すんません!紅野いちかです!」
調は一瞬だけ手を止め、振り返った。
「紅野……あー紅野さんとこの」
「父の事知っとるんですか?」
「知っとる。追いかけ回されたけん」
淡々と言うが声の奥の温度は柔らかかった。
「ちょっと待っとって」
調は棚から薄いファイルを取り出すと中身を開いた。
「これ、紅野さんのデータ。うちが採土して出した分析」
CEC、pH、EC、硝酸態窒素、リン酸、交換性カルシウム……数字がびっしり。
その隣にコピー紙が挟まれていた。父のノートの一部だった。
「ノートもらったんですか?」
「違う。見せてもらっただけ。気になるとこ写した」
調はページを指でなぞりながら続けた。
「紅野さん、字綺麗やった。考察も丁寧。
ただ菌とリン酸のページだけ、やけに薄かった」
「父そこほんと苦手で……」
調は口元だけ笑った。
「でも苦手なとこは消しとらん。空欄で残す人は珍しい」
言われていちかは息を飲む。
父のノートの“空白”が刺さった理由が分かる気がした。
それは逃げた跡ではなく――まだ続きがあるという印だった。
***
「父、賞とか狙っとったんですか?」
「狙っとったよ。菌とリン酸だけ詰めにここによう来よったけん」
「詰めに?」
「勝ちに来とったってこと。数字捨てる人はこんな通い方せん」
言い方はそっけないのに、肯定だった。
(父ちゃん……そんな熱い人だったんだ)
イチゴを出荷した帰りに笑ってた背中しか覚えてない。品評会は家族にとって遠い場所だった。
調はさらにページを開く。
「左が分析、右が味のメモ。分けて書いとるやろ」
「分ける意味あるんですか?」
「ある。理論と味は混ぜるとぐちゃぐちゃになるけん」
指先がノートの右ページを軽く叩く。
「味を言葉に直せる農家は強い。数字は教えれば読めるけど、味は才能やけん」
胸が熱くなるのをいちかは誤魔化せなかった。
(味は……答え。うちはそこしか見とらんかったけど……)
調はファイルを閉じ、庭の畝へ歩いていく。
「でも紅野さんな、菌だけはほんと苦手やった」
「澪ちゃんにも同じこと言われた」
「そらそう。菌は見えんやろ。見えんもんは怖いんよ」
土を一握りして崩しながら調は続けた。
「でも途中で終わっただけやない?」
いちかは顔を上げた。
「……途中?」
「途中で終わった仕事は、誰かが続ける」
言葉があまりにも静かで、逆に胸にざくりと刺さった。
調は眼鏡の奥でいちかを見た。
「仁花んとこ行ったんやろ。次は澪。次はうち。順番はまあ合っとる」
「順番?」
「地力→菌→土。味は土台の上でしか伸びん」
調は畝に指で線をひいた。
「仁花の果実は“太さと甘さの暴力”。澪は“余韻”。どっちも正解。でも土で舞台変えんと仕上がらん」
「舞台……?」
「イチゴは舞台でキャラが決まる」
(舞台でキャラ……そんな風に考えたことなかった)
調は最後に言った。
「菌まで触ったなら次は土やろ。土は結果を作る場所やけん」
夕日がビニールを透かして畝を照らした。静かな光の中で、父の文字が胸に浮かぶ。
――見えんものほど味を作る
(父、やっぱり途中やったんや……)
いちかは拳を握った。
(続けるんはうちの仕事やけん)
その瞬間、次の扉が開いた。




