【第3話】見えんものほど味になる
仁花の畑から帰って二日経ったが、いちかの頭はまだ草の匂いでいっぱいだった。
(地力であんだけ変わるんだ……根の太さ、葉の強さ、果の重さ……あれ全部味に出るなんて……)
味は答え。だが答えに辿る道がいくつもあることを初めて知った。
居間の机に父のノートを広げる。ページの左の欄外に丁寧な字、右には殴り書き。父の思考の温度差そのままだった。
「CEC足らんと香りが弱なる」「リン酸はヒマワリを緑肥にして補う」「カルシウム不足で果肉へたり」
ページをめくると、突然書き込みが薄くなる。
菌のページだった。
数字も図もほとんど無い。代わりにたった一行。
“見えんものほど味を作る”
(菌って……そんな大事なん……?)
いちかは眉をひそめた。菌といえば腐るか発酵するかくらいの認識しかなかった。
そのとき母が台所から声をかけた。
「菌のことなら澪ちゃんが詳しかよ。技術賞の子」
「澪ちゃん……って、あの白い服で無言の人?」
「そう。微生物の子」
「行こ」
返事が早すぎた。
母は笑いながら洗った手を拭いた。
「またすぐ行くんやねあんたは」
「気になったら行動せんと気持ち悪かけん」
それがいちかの唯一の強みだった。
***
蔵本家に着いた瞬間、玄関が鼻を殴った。
パン酵母の甘い香り、酒麹の香ばしさ、乳酸の酸味、発酵臭、そして……どこかで嗅いだトイレ臭。
「パン屋と酒蔵と味噌蔵と……駅のトイレが喧嘩しよる!?」
玄関が開き、澪が無表情で出てきた。
「光合成細菌は嫌気性だからドア閉めて」
「あっ、はい」
ドアが閉められた瞬間、トイレ臭が消えた。恐ろしい精度だった。
「誰?何しにきたの?」
「はじめまして!イチゴ農家してる紅野いちかです!菌の事勉強しにきました!」
「ふ〜ん、入って」
***
家の半分はラボだった。
茶色のタンクに田んぼの水と米ぬかを入れて密閉している。透明の瓶には赤い細菌が光を浴びて泡を立てていた。冷蔵庫の横にはpHメーター。暗室には赤色LED。培地をかき混ぜる音が一定のリズムで鳴る。
いちかは世界が変わる瞬間を感じていた。
「菌、触ったことない?」
「ヨーグルト食うぐらいなら」
澪は無表情。
「それは食べただけ。扱ったとは言わない」
(こわ……)
イチゴを三つ取り出してテーブルに置いた。
「乳酸菌処理」「酵母処理」「光合成細菌処理」
いちかは身構えた。
「まず噛んで飲み込んで。鼻使って」
乳酸菌→ 酸味が丸くなる。水分が舌にとどまる。
(食べやす……いや、えらい滑らか)
酵母→ 噛んだ瞬間は変わらないが、飲み込んだ後に香りが広がる。
(後で来る……!)
光合成細菌→ 最初は青臭い。だが後が異常だった。
(……戻ってくる……! 喉と鼻の奥に香りが……!)
澪が初めて少し口角を上げた。
「品評会は“飲み込んだ後”で評価される」
「後なん!?」
「余韻は菌が作る。菌は味を“編集”するから」
いちかの背筋がぞくりとした。
(編集……する……? 味を?)
脳裏に綺羅のいちごが浮かぶ。
飲み込んだ後、審査員の喉に残っていたあの香り。
(あれも……菌…………?)
答えは出ないが、影は濃くなった。
***
「でも扱い雑だと全部死ぬよ」
澪は淡々と言った。
「温度、pH、酸素、光、餌、水……一個間違えると死ぬ」
「全部死ぬん……?」
「死ぬ」
(……うち一番苦手なとこやん……)
仁花の緑肥は豪快だった。土ごと殴るやり方。いちかの得意もそっち側だった。
菌は真逆だった。
繊細、理論、管理、我慢、精度。
いちかは息を吐いた。
「菌……めんどくさ……」
「めんどくさい。でも美味しくなる」
澪は少しだけ目を細めた。
「見えないものほど味を決める。それが菌」
***
外に出ると、夕方の空気は冷たかった。遠くのハウスのビニールが夕日に光っていた。
(味は答え……でも答えまでの線はいっぱいある……)
父の文字が胸に浮かんだ。
“見えんものほど味を作る”
(次は……土んとこばい)
いちかはポケットから名刺を一枚取り出した。
畠山調 ― 土壌医。
その名刺は、昨日ハウスに置かれていたものだった。




