【第2話】世界は味だけじゃなかった
品評会の翌朝。
田主丸の空気はまだ冷たく、ビニールハウスの屋根に霧が薄く滲んでいた。
紅野いちかは長靴を履いたままハウスに入ると、無意識に手を伸ばした。
完熟寸前の果を一粒摘む。噛んで、飲み込む。
(……うちのいちご、美味い)
それは揺らがなかった。甘さも酸味も水分も、そのバランスも。
しかしその後に続く沈黙は、昨日よりも重かった。
「でも……金賞の味じゃなかったんやな」
小さく呟くと、ハウスの奥で草取りしていた母が顔を上げた。
「味だけじゃなかったねえ」
母は優しく言うが、その言葉の裏には昨日の全てが乗っていた。
香り、見栄え、均一性、審査員の評価軸、ブランド、市場――
そして“余韻”。
「香りも、見た目も、余韻も……全部やと」
「そげんやね。味ってのは最後の最後なんよ」
いちかは静かに息を吐いた。
***
自室に戻ると、いちかは父の遺品のノートを広げた。
若い頃の父が書いた走り書き。数字と図と矢印とコメントがびっしりだ。
→「土壌CEC不足 → カルシウム吸収低下 → 果肉硬度低下 → 出荷に弱くなる」
→「光量不足の年は香り落ちる」
→「水をあげすぎると酸味先行→審査は嫌う」
→「菌は味に影響。冷蔵庫で香りが飛ぶ品種はダメ」
→「市場は見栄えで買い、舌で評価し、再発注で決まる」
いちかは息を呑んだ。
(父ちゃん……全部見よったんか……)
ページの端に、小さな文字で一文だけ。
“味は積み重ねの終着点”
(終着点……)
いちかは初めて、“味”がゴールでありスタートではないことを知った。
***
その日の昼、ビニールハウスの前に白い軽バンが止まった。
降りてきたのは銀賞の土壌医、畠山調だった。
「紅野さんとこの娘さん?」
「はい。紅野いちかです」
調は周囲を一瞥すると、いちごの株をしゃがんで見た。
株の形、葉色、葉柄、ランナー跡、土の色、全てを読むように。
「……CECの数値、見てます?」
「しー……しー……?数字苦手で」
調はため息をつきながらも冷たくない声で言う。
「味は土が作る。感覚だけでは限界が来る」
胸に刺さった。
調は名刺を置くと帰ろうとしたが、ふと振り返った。
「分析は敵じゃない。道具です。困れば連絡を」
いちかは動けなかった。
***
その日の夕方、いちかは突然立ち上がった。
「母ちゃん、電話借りる!」
「どこにかけると?」
「銅賞だった仁花のとこ!」
相良仁花は電話に出て3秒で叫んだ。
『来い!緑肥見せたる!』
テンションが存在そのものみたいな女だった。
***
仁花の畑は草の匂いで満ちていた。
ハウスの横に広がる裸地ではなく、青と緑の絨毯のような畑。
「これがソルゴーとエン麦や!」
仁花は刈り払機で草を倒す。
ドサァッと倒れた草がロータリーで粉砕され、土に混ざる。
「これが緑の肥料!通称“緑肥”!
イチゴ植える前に生やしてすきこむと地力が上がる!
土の筋トレや!」
風で粉が舞い、甘い草の匂いがハウスに流れた。
仁花はニヤリと笑い、手で土を掘って根鉢を見せた。
「見ろこの根鉢!太かろ?これが地力だバカ!」
いちかは土壌を舐め回すように見た。
(根が太い……葉が強い……果の重さも違う……)
彼女の世界が少し揺れた。
「味は答えやろ?」と仁花が言った。
「味だけで勝てるなら苦労せんわ」
仁花は汗を拭いて笑った。
「で――お前、金賞取りたいんか?」
「取りたい!」
「ならライバルや!来年ぶっ潰す気でかかってこい!」
その声が響いた。
***
帰りの車。日が沈む。
いちかは珍しく黙っていた。
母が言った。
「味は答えやけん。でも……味だけやなかったね」
「全部が味になるんよ。光も、水も、菌も、手間も、愛情も」
いちかはノートを開いた。父の文字。
“味は積み重ねの終着点”
「積み重ねんと味にならんのか……」
小さく息を吸った。
「次は菌ばい」
「菌とか考えたことなかろ?」
「バレたw 誰か詳しい人に聞きに行く」
エンジンが止まったとき、いちかの目は次を向いていた。




