第16話 『黒は、受け止める色』
調の作業場は、思っていたよりも静かだった。
山になった堆肥は黒く、光を吸い込むように沈んでいる。湯気は立っていない。鼻を近づけても、あの発酵特有の刺す匂いはない。
「……動いとる感じ、せん」
いちかがぽつりと言うと、仁花が腕を組んだ。
「地味すぎやろ。うちの山のほうがよっぽど生きとる」
そのとき、背後から落ち着いた声がした。
「動いとるものほど、静かと」
振り向くと、黒髪をゆるく結った畠山調が立っていた。白いシャツに黒い長靴。余計な装飾はない。けれど、この場の主は彼女だと分かる空気をまとっている。
調は堆肥山にスコップを差し入れ、ゆっくりと返した。崩れた断面も黒い。
「材料は?」
いちかが問う。
調は淡々と指折り数えた。
「籾殻。もみ殻燻炭。コーヒーかす。魚粉。ビールかす」
「……コーヒー?」
仁花が目を丸くする。
「毎日飲むけん。出るもんは使う」
調はそう言って、黒い粒をすくい上げた。
いちかは燻炭を手に取る。驚くほど軽い。
「軽っ」
「軽い=隙間」
調は即答する。
「隙間=呼吸」
「根っこが入るスペースやろ?」
仁花が言うと、調は首を横に振った。
「違う。菌の椅子たい」
その言葉に、いちかの胸がざわついた。
菌の椅子。
澪の顔が浮かぶ。菌を増やす人。走らせる人。でも、ここは違う。
調は続けた。
「走らせるのは簡単。止めるのが難しか」
いちかの喉が、きゅっと締まる。
「……父ちゃんのこと?」
調は少しだけ視線を落とした。
「お父さんは、攻めの人やった」
いちかの指が止まる。
「味は鋭い。舌は本物」
一拍。
「菌は適当」
その言葉は、刃のようにまっすぐだった。
「そして、固定が弱かった」
調は燻炭を山に混ぜる。
「リン酸は、あるだけじゃ意味がない」
「捕まえられんと、流れる」
いちかの脳裏に、父のノートが浮かぶ。
味。
菌。
リン酸。
――そこで、止まっていた。
(父ちゃん……ここやったんや)
調は事務的な紙を差し出す。
「CEC。pH。EC。水分率」
数字が並ぶ。
「止めるとは、温度を下げることやなか」
「暴れさせない設計」
黒い燻炭を指で崩しながら、調は続ける。
「黒は、吸う」
「匂いも、養分も、失敗も」
いちかは、そっと目を閉じた。
空気を吸う。
強くない。けれど、深い。
「……甘さが暴れてない」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「奥に、余白がある」
調が、わずかに笑う。
「それが舞台」
静かな声だった。
「味が答えなら」
「土は問い」
いちかの胸の奥で、何かがはまる音がした。
問いがあるから、答えがある。
受け止める土があるから、味は伸びる。
仁花が腕を組み直す。
「じゃあ、いちかは?」
調は、まっすぐいちかを見た。
「まだ作るな」
その言葉は冷たいのに、なぜか温度があった。
「舞台を知らん役者は、暴れる」
悔しさがこみ上げる。
父を超えたい。綺羅に勝ちたい。今すぐでも堆肥を積みたい。
でも――。
「……分かった」
初めて、焦りが引いた。
知らんまま走るより、知ってから積む。
それが今の自分の一歩だと、分かった。
帰り道、夕焼けが畑を赤く染めていた。
「黒って終わりの色やと思っとった」
いちかが言う。
「違ったやろ?」
仁花が笑う。
「全部受け止める色やった」
自分の声が、少しだけ強くなっているのを感じる。
「次どこ行く?」
仁花が聞く。
いちかは迷わなかった。
「彩葉さん」
「え、デザイン女王?」
「うん。入口も知らんと、出口は作れんやろ」
遠く、風に乗って花の匂いがした気がした。
黒を知った。
次は、色を知る。
いちかは、まっすぐ前を向いた。
まだ自分の堆肥はない。
でも――。
受け止める舞台を知った。
それだけで、足取りは軽かった。




