第15話 『止める勇気は、土を読む』
澪の堆肥山は、前に見たときよりも静かだった。
湯気はほとんど立たず、近づいても鼻を刺すような匂いはない。
いちかは、思わず顔を近づけた。
「……あれ? 昨日より、弱い」
拍子抜けしたような声だった。
仁花が温度計を抜く。
「ほんとやな。下がっとる」
失敗。
その二文字が、いちかの頭をよぎる。
「……大丈夫なん?」
澪は頷いた。
「予定通り」
あっさりした返事だった。
「失敗じゃなくて?」
「成功の途中」
澪は、堆肥山をじっと見ている。
足さない。
混ぜない。
水も与えない。
あまりにも地味な作業だった。
「……攻めんのやね」
いちかが言うと、澪は少しだけ笑った。
「攻め終わったから」
その言葉に、仁花が首をかしげる。
「え、ここからが本番じゃないと?」
澪はゆっくり言った。
「菌は、増やすときが一番派手」
「でも、味は“静かな時”に決まる」
いちかは、その言葉を舌でなぞるように噛みしめた。
――静かな時。
澪はぽつりと続けた。
「昔ね、止めきれなかった」
いちかは黙って聞いた。
「温度が上がるのが楽しくて」
「水も足して」
「切り返しも増やして」
澪の視線が落ちる。
「菌が、走り切った」
仁花が言葉を失う。
「香りは出た。でもね……」
澪は自分の喉を指でなぞった。
「舌に、残らなかった」
その瞬間、いちかの脳裏に、父のノートが浮かんだ。
味。
菌。
リン酸。
――そこで止まっていた文字。
(父ちゃんも……止め方、分からんかったんや)
いちかは自分の手を見つめた。
「でもさ」
不安が、素直に口をついて出る。
「私は、数値も分からんし」
「菌も見えんし」
「いつ止めたらいいか、判断できん」
澪は即答した。
「私は匂い」
仁花が元気よく言う。
「私はカンかな!」
一瞬の沈黙。
澪が、いちかを見る。
「でも、いちかは――」
一拍。
「舌やろ」
いちかは、何も言えなかった。
澪は続ける。
「ただね。舌だけじゃ危ない」
仁花が聞き返す。
「どういうこと?」
「止めるには、“舞台”が要る」
「舞台?」
「温度、pH、水、固定、CEC」
いちかの胸が、少しだけざわつく。
「……調さんの領域」
澪は、初めてその名前を口にした。
「うん。私は菌を作る人」
「調さんは、菌を使わせる人」
澪の堆肥山から、ほのかに甘い匂いが立ち上る。
仁花が鼻を鳴らす。
「派手さは無いけど……」
いちかは、そっと息を吸った。
「後から来る」
確信があった。
「……これ、いちごの“最後”や」
澪は小さく頷いた。
「正解」
帰り道。
夕焼けが畑を染める。
「私、まだ堆肥作れん」
いちかが言う。
「材料も決まっとらんしな」
仁花が肩をすくめる。
澪は前を見たまま言った。
「だから先に行く」
「どこに?」
「調さんの畑」
いちかは、胸の奥で何かが切り替わるのを感じた。
――止める勇気。
――読むべきは、土。
その意味を、まだ知らないまま。




