第14話 『菌は裏切らない、設計を裏切る』
いちかと仁花は澪の堆肥作りを勉強しに澪の作業場に足を踏み入れた瞬間、いちかは反射的に一歩下がった。
「……くさっ」
畑の端に並ぶ、大きな青い桶。
その中身は、どれも同じ色をしている。
赤。
いや、正確には濁った赤茶色。
光の当たり方で、血のようにも、腐ったワインのようにも見える。
「また光合成細菌だ……」
鼻をつまむいちかに、澪は淡々と答えた。
「今、増殖のピーク」
「ピークでこの臭いはキツいって……」
桶の中を覗くと、籾殻が完全に沈められていた。
浮いているものはひとつもない。
仁花が眉をひそめる。
「……どぶ漬けやん」
「うん」
澪はあっさり頷いた。
「籾殻を菌の住処にする工程」
澪は桶の縁に手をかけ、力を込めて籾殻を引き上げる。
ずっしりと重い。
水をたっぷり含んだ籾殻の表面には、赤い膜が絡みついていた。
鼻に突き刺さるような匂い。
「……トイレやん」
「正解」
澪は悪びれもせず言った。
「でも、これが最初」
籾殻を地面に下ろし、そこで初めて“山”を作る。
いちかは首をかしげた。
「最初から山にせんと?」
「しない」
即答だった。
「先に菌を定着させる」
澪は米ぬかを投入する。
次に海藻粉。
最後に、きのこの廃菌床。
スコップで大きく切り返すたび、音が違う。
湿った音。
重い音。
「順番、決まっとるん?」
「決まってる」
澪は言った。
「餌、ミネラル、前の住人」
「前の住人?」
「きのこが使った菌床」
スコップを止めずに続ける。
「菌の引き継ぎ書みたいなもの」
いちかは思わず息をのんだ。
数字でも理屈でもない。
歴史を混ぜている。
しばらくして、澪がぽつりと言った。
「昔、これ一気にやったことある」
「量を?」
「量も、回数も」
澪の手が一瞬止まる。
「赤い液、足しすぎた」
いちかが聞き返す。
「……どうなったんです?」
「香りは出た」
一拍。
「でも、余韻が死んだ」
仁花が口を挟む。
「菌同士で食い合った?」
「うん」
澪は静かに頷いた。
「植物の仕事、残ってなかった」
完成途中の山からは、ほとんど湯気が出ていない。
匂いも、仁花の堆肥とは比べものにならないほど静かだ。
「全然違いますね」
いちかが言う。
「狙ってるから」
澪は答えた。
「私は、味の“後半”だけを作る」
「……余韻」
「派手に効かせたら、壊れる」
その言葉に、いちかは父のノートを思い出した。
味 → 菌 → リン酸
そこで止まっていた理由。
(父ちゃんの弱かった菌は、私が受け継ぐ)
澪が言う。
「菌は裏切らない」
一拍、間を置いて。
「でも、設計を裏切る」
仁花が笑った。
「増やす話ばっかやったな、今まで」
「次は逆」
澪は山を見下ろす。
「菌を止める」
「……止める?」
「温度、水、空気」
澪は静かに言った。
「止めないと、作品にならない」
いちかは、赤い山を見つめながら思った。
(増やす勇気より、止める覚悟)
それが、金賞への次の一歩だと――
舌が、確かにそう言っていた。




