第12話『数字は嘘をつかん』
彩葉の工房は、前に来た時と空気が違っていた。
照明は白く、影が少ない。香りもない。
あるのは机の上に整然と並べられた機械と、無言の圧力だけだった。
ノートPC。
糖度計。
pHメーター。
温度計。
スケール。
白紙の評価シート。
――舌の居場所がない。
「今日は食べんよ。測る」
彩葉はそう言って、いちかの前に白衣のようなエプロンを置いた。
「……舌は使わんと?」
「舌は最後。今日は“逃げ道”を潰す日」
言葉が冷たいわけじゃない。ただ、迷いがなかった。
同じ畝、同じ朝にいちかが収穫したいちごが三粒、トレイに並べられる。
彩葉は一つずつ、淡々と測っていった。
「糖度、12.8」
「酸度、0.65」
「果重、28グラム」
「果温、18度」
数字が画面に並ぶ。
「数字だけ見たら、悪くない」
いちかは思わず頷いた。
「やろ? 味は──」
「でも金賞は取れん数字」
ぴしゃりと切られた。
胸の奥に、冷たいものが落ちる。
その時、工房のドアが軋んだ。
「ほら、やっぱり来とったか」
入ってきたのは畠山調だった。
白い紙袋を床に置き、机の数字を一瞥する。
「勘違いしとるな」
調はホワイトボードにマーカーを走らせた。
「数字は評価じゃなくて原因」
大きく矢印を書きながら続ける。
「糖度は甘さじゃなか。炭水化物の量」
「酸度は味じゃない。根の吸収バランス」
「果重は出来じゃない。地力」
「温度は保存じゃない。導線設計」
いちかは言葉を失った。
「舌は“結果”。
数字は“途中経過”や」
調はそう言って、いちかを見た。
「いちかの畑は、途中までは来とる」
いちかは鞄から父のノートを取り出した。
何度も開かれ、角が丸くなった一冊。
“味”。
“菌”。
“リン酸”。
その先は、白い。
「……ここで止まっとる理由、分かる?」
調の問いに、いちかは喉を鳴らした。
「……数字が、無い」
「そう」
彩葉が頷く。
「舌は才能。
数字は武器」
父は感じていた。
だが、設計できなかった。
彩葉は一瞬だけ、画面を切り替えた。
去年の金賞データ。
糖度13.2。
酸度0.58。
果重30グラム。
温度帯16〜19度。
「全部“狙って”出しとる」
名前はない。
だが、誰の数字かは分かる。
――京極綺羅。
いちかは唇を噛んだ。
「数字は敵やなか」
調が静かに言う。
「畑に指示を出す言葉ばい」
彩葉はホワイトボードに大きく書いた。
数字 → 設計 → 堆肥
「味を語る前に、味を作る準備をする」
いちかは数字の並んだ画面を見つめた。
今まで避けてきた世界。
「……数字で、味を作れる?」
震える声。
「作れる」
調は即答した。
「ただし、時間が要る」
彩葉が微笑む。
「まずは堆肥からやね」
その瞬間、調は一言だけ付け足した。
「相良仁花に会いにいき!仁花の堆肥作りは感覚だからいちかに合うと思う」
数字は、嘘をつかない。
だが、数字だけでは勝てない。
いちかは父のノートを閉じ、胸に抱いた。
――次は、土だ。




