第11話『舌は言語』
午後。雨上がりの田主丸。
紅野いちかは彩葉の工房の前に立っていた。
呼び出された理由は聞いていない。ただ“舌の修行するから来て”と言われただけだ。
ノックして扉を開けた瞬間、空気が変わった。
テーブルいっぱいに並ぶのは、審査員のような白い皿、細いグラス、冷水、温度計、クロス、スプーン。そして控えめな照明。
まるで戦場。
彩葉「今日は舌で戦う日やけん」
いちか「舌なら得意ばい。味はうちの武器やけん」
その言い方に微かな慢心が混じっていた。
彩葉は一言も返さず、単に手元のトレイを置いた。
皿の上に3粒のいちごが並ぶ。どれもどこにでもあるような粒に見えた。
彩葉「A、B、C。全部違う。説明して」
いちかはAを口に運んだ。酸が鋭い。香り薄い。
Bは甘いが余韻がない。
Cはふわっと香るが弱い。
いちか「……なんやろ甘い?とか?」
彩葉「甘いだけじゃ足りん」
淡々と言ってから、彩葉は引き出しから1枚の採点票を置いた。
項目が並ぶ。
・香り
・甘味
・酸味
・テクスチャ
・余韻
・立ち上がり
・温度帯
・用途
いちかは固まる。
いちか「用途って何……?」
彩葉「審査員は味そのものやなくて“評価”を提出するんよ。
評価は言語で提出される。言葉がなければ強度が出らん」
いちかの喉が鳴る。
自分の“味が答えやけん”は、この世界ではまだ入口にも立っていないのかもしれない。
彩葉はさらに一枚の採点票を机に滑らせた。
名前は伏せられている。だが記されている語彙は異常だった。
《甘味:粘度が高く喉奥に残る》
《酸:中心で持続し立ち上がり早い》
《香:後半に茶系の余韻》
《温度:16〜19℃帯で最も伸びる》
《用途:贈答向き/液体スイーツ化適性高》
いちか「……これ何語?」
彩葉「舌の言語よ!因みにこれ去年の金賞の採点表」
ひりつく沈黙。
そして彩葉は、最後のトレイを置いた。
「これ綺羅のイチゴ」グラスに1粒。
紙が添えてある。温度指定と用途まで書いてある。
紙にはただ一行。
《飲み込んで香る》
いちかの肺が縮む。
あの日の敗北が蘇る。品評会の会場で、絶対王者の粒を飲み込んだ瞬間に香りが立ったあの衝撃。
恐る恐る口に運ぶ。
立ち上がりの香りは弱い。
だが数秒遅れて喉から香りが上がり鼻腔に広がる。
余韻が細い線のように長く続き、そして綺麗に切れる。
いちかは座り込んでしまった。
いちか「……分かるのに……言葉が出らん……」
彩葉「それが壁」
彩葉は冷たくない。事実を述べているだけだった。
彩葉「審査員は舌で戦う。
生産者は畑で戦う。
綺羅は両方で戦う」
いちか「うちは……畑と舌、どっちなん……?」
彩葉「どっちでもない。
舌で勝てんと味は届かん」
いちかは無言で鞄から父のノートを取り出した。
何度も開いたせいで角が丸くなっている。
“味”のページの後に、“菌”のメモ。
その後にリン酸の走り書き。
その先が白紙。
彩葉「……ここで止まったんやね」
いちかは息を吸った。
いちか「味は父ちゃんが辿り着いた。
でも……続きを書くのはうちやけん」
彩葉はふっと笑った。
彩葉「なら次は評価。
舌を数字にする」
採点化 → 設計 → 堆肥の流れをホワイトボードに書いた
彩葉「味を作る前に、味を言葉にできんと戦場に乗らん」
いちかはノートを閉じ、まるで刀のように胸に抱いた。
いちか「金賞獲るけん。
舌で勝って、畑で勝って、味で勝つ」
その決意を聞いて、彩葉はただ一言だけ言った。
彩葉「次は数字。逃げんこと」




