第10話 『リン酸の道』
朝のハウスに調の長靴の音が響く。
診療所の回診みたいに、畝を一つずつチェックしていく。
まず日射、次に気温、次に葉の色、最後に根を掘る。
CEC、pH、EC、硝酸、空気の入り、排水。数字よりも“舞台”を見る目。
調「舌を評価に乗せる前に、舞台を整えた方がいい」
いちかはその言葉にピクリと反応した。
“舌”。
審査員が最後に判断する場所。
父のノートを思い出す。
味 → 菌 → リン酸 → 届かせ方 →(空白)
まるで途中で止まった化学式みたい。
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その時、ハウスの横に白い軽トラが止まった。
ドアが勢いよく開いて、赤い手ぬぐいを頭に巻いた仁花が降りてくる。
仁花「相良仁花、参戦っ!」
調が苦笑する。
調「今日はふざけとる場合じゃなかよ」
仁花「分かっとるって。見せんね、根っこ」
いちかは少し緊張しながら一株引き抜く。
仁花は泥を払って根を眺めると一瞬で言い切った。
仁花「リン酸弱いと太れん」
いちか「太れん…?」
仁花「リン酸は果実の太りと甘さの立ち上がりに効く。根の色、細さ、分枝。見たら分かるやろ」
調もうなずく。
調「舞台が痩せとる」
仁花はさらにとどめを刺す。
仁花「緑肥としてヒマワリ撒け。直根で土割るけん」
いちか「土割るって何?」
仁花「そのまんま。根が地面割るってこと。リン酸引っ張れる場所増えるけん」
説明は雑だが妙に刺さる。農家特有の“体感”の言語だ。
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調がふっと言った。
調「根の話なら澪呼んだ方がいい。菌の話でもあるけん」
いちか「菌?」
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数時間後、澪が自転車で現れた。
白衣の代わりに謎のパーカー、胸には『菌は裏切らん』の文字。
澪「呼ばれた理由は分かっとる。リン酸やろ」
仁花「根っこ見てすぐ分かるやろ」
澪は根を指で弾くように触ると、一息で本質だけを落とす。
澪「リン酸は土に固定されやすい。動かん。取れん。植物は困っとる」
いちか「じゃあどうやって…」
澪「そこで菌。菌は根から糖をもらう代わりにリン酸を運ぶ。等価交換やね」
その説明をいちかの頭に“味”の言葉で置き換える。
いちか「それって…取引ってこと?」
澪「そう。土は物流やけん」
いちかは父のノートの一文を思い出す。
《余韻は菌と土》
書いた時の父の顔まで浮かぶ。
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3人の視点が揃いはじめる。
仁花「ヒマワリは菌根菌やったっけ?そんな菌を呼ぶ植物やけん」
澪 「菌根菌はリン酸を引き出す物流」
調 「リン酸は味の余韻の材料やけん」
いちか「つまり…余韻の前にリン酸が要るってこと?」
調「綺羅はそれを全部持っとる」
説明されなくても“王者の理由”が見えた瞬間だった。
圧倒的な差ではなく、整理された積み木の差。
舌 → 舞台 → 根 → 菌 → リン酸 → 余韻 → 香り
全部揃っとる。
だから熟香王。
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いちかは静かにビニールハウスの端に座り、父のノートを膝に開いた。
味 → 菀 → リン酸 → 届かせ方 →(空白)
父が止まった先を、自分が書き足す番や。
いちかは鉛筆で小さく線を延ばして書く。
→ 舞台(根 × 菌根菌)
その文字を見た瞬間、胸が熱くなった。
父は味で止まった。
自分は舞台から味へ登る。
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帰る間際、調が言う。
調「舞台が整えば、綺羅と同じ戦場に立てる」
いちかは短く返す。
いちか「立つばい。味で勝つけん」
3人とも笑った。バカみたいに真剣な顔で。
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ハウスを閉める前、澪が最後だけ置いていく。
澪「次は舌やね。届いた味を評価するのは舌やけん」
いちかの中のラインが揃った。
舞台 → 味 → 舌(審判) → 王者(綺羅)
次に向かうべきは“舌の言語化”。
官能評価の世界。
香り、甘味、酸味、テクスチャ、余韻、立ち上がり、キレ。
味を言葉にしなければ戦場に持ち込めない。
父もそこに行く前で止まった。
いちかは小さくつぶやいた。
いちか「うちが書く番やんね、続きを」




