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空を駆ける影
――クロウは、覚えている。
空を飛べなかった頃。
巣から突き落とされ、地面の冷たさだけを知った日。
拾い上げたのは、大きな手だった。
温かく、迷いのない手。
――グラン。
声に出さずとも、分かる。
今も、同じことを言っている。
“飛べ”。
クロウは翼を打った。
天井の穴を抜け、暗い海へと突き進む。
光が走る。
岩片が舞い、槍が追う。
左翼が裂け、熱が走る。
それでも、止まらない。
> 「お前は空の王だ、クロウ」
その言葉だけで、十分だった。
渦巻く海流へ、真っ直ぐ飛び込む。
水の壁を越えた瞬間、世界が白く弾けた。
――転移。
次に感じたのは、乾いた空気。
玉座の間。
金色の床に、黒い羽根が落ちる。
クロウは力尽き、静かに伏した。
足音。
皇帝アトラが、封書と羽根を見つめる。
「……グラン……?」
その名が零れた瞬間――
遠くで、空が鳴った。
風が止まり、
世界が、一瞬だけ呼吸を忘れる。
――忠義の翼は、使命を果たし、静かに散った。




