静かな夕暮れ
夕焼けが、街をやわらかな橙色に染めていた。
校門前を流れる帰宅の波の中で、ヒカリは鞄を肩に掛け直し、小さく息を吐く。
制服の袖が擦れ合い、笑い声が行き交う。
部活動の話題、夕飯の相談、どうでもいい噂話。
どれも、昨日までと変わらない光景だった。
――数日前の“あの夜”から、世界は何も変わっていない。
人々は笑い、車は走り、夕方のニュースはいつも通りに流れる。
あの光も、あの衝撃も、まるで最初から存在しなかったかのように。
それなのに。
自分だけが、ほんの一歩だけ――
世界からずれてしまったような感覚が、消えずに残っていた。
「……ヒカリちゃん」
呼び止める声に、ヒカリは振り向く。
そこに立っていたのは、雪代かなでだった。
同じ制服姿。
けれど、その表情はどこか硬く、迷いと覚悟が入り混じったまま、足を止めている。
「かなでちゃん? どうしたの」
問いかけると、かなでは一瞬、言葉を探すように視線を伏せた。
「……話したい人がいるの。私の、知り合いなんだけど」
夕焼けの中で、彼女の指先がわずかに強く握られる。
「危ない人じゃないよ。
ただ……聞いてほしい話があって」
その声には、逃げ道がなかった。
軽い誘いでも、思いつきでもない。
“これから何かが始まる”と、はっきり分かる響きだった。
ヒカリは、少しだけ迷ってから頷く。
「……うん」
かなでの瞳の奥に、揺らがない決意が宿っているのが分かったからだ。
「行こう。どこ?」
「……喫茶店。エクリプス」
その名前を口にした瞬間、
ヒカリの胸の奥で、説明のつかない予感が静かに息をした。
――夕暮れは、まだ穏やかなままだった。
けれどこの先で、
日常が少しずつ、音を立てて崩れ始めることを、
この時の二人はまだ知らない。




