あの日の笑顔
放課後の帰り道、ふと風の匂いが変わった気がした。
春の終わりの、山の空気。
どこか懐かしいその香りが、
胸の奥に沈んでいた記憶を、静かに揺り起こす。
――去年の夏。
おばあちゃんの家は、山の中にある静かな古い家だった。
木の廊下を歩くたび、きしむ音がする。
外では、蝉がうるさいくらいに鳴いていた。
「ヒカリ、こっちにおいで」
庭先で、おばあちゃんが呼んでいた。
白い日傘を差し、縁側の影に座るその姿は、
まるで時間の流れから切り取られたみたいだった。
「見てごらん。この空」
見上げると、
山の向こうに、入道雲がもくもくと伸びていた。
青と白が混じり合う、絵の具みたいな夏の空。
「きれいだね」
「ええ……本当に、きれい」
おばあちゃんは微笑んだ。
でも、その笑顔は、どこか少しだけ寂しそうで――
懐かしい誰かを思い出しているみたいだった。
「ねえ、ヒカリ」
理由を聞く前に、
おばあちゃんはそっと視線を空に戻した。
「光ってね、きれいに見えるでしょう。
でも……」
その先の言葉は、はっきりとは覚えていない。
ただ、風の音と、
横顔のやさしい輪郭だけが、今も心に残っている。
――どうして、あんな顔をしていたんだろう。
気づけば、私は坂の途中で立ち止まっていた。
夕陽が傾き、町全体がオレンジ色に染まっている。
遠くで、子どもの笑い声が聞こえた。
私は小さく息を吐いて、歩き出す。
何も知らないはずのこの世界が、
なぜか、ほんの少しだけ――
遠く感じられた。




