突入 ― 王が賭け、獣が応える
アトラは、もはや立っていること自体が奇跡に近い状態だった。
鎧の内側で呼吸は荒く、胸の奥が焼け付くように痛む。それでも彼は、目の前の少女――立花ヒカリから視線を逸らさなかった。
「今、ここで動かなければ……君たちは滅びる」
その言葉に、ヒカリは息を呑む。
「守るべき世界樹の実は、すべて奪われた。
――完全な戦術的敗北だ。妖精の女王は、見事に我々の裏をかいた」
一度、アトラは視線を伏せる。
それは敗者の仕草ではなく、事実を整理する者の沈黙だった。
「だが、そこにこそ“隙”が生まれる」
顔を上げた瞳には、確信が宿っている。
「彼女は優れた王だ。
だが――戦士ではない」
静寂が落ちる。
「前線に立たぬ者は、“命を賭ける瞬間”を知らない。
そして今、彼女は勝ったと思っている」
アトラは震える足で、一歩前に出た。
「だからこそ……今しかない。
実を取り戻すなら、この瞬間だ」
そう言って、彼はクロへと視線を向ける。
「君にとって、侵略者の王に力を貸すなど、理解し難いだろう。
それでも――頼む」
クロは、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
黒い狼の姿をしたその身体が、わずかに強張る。
「彼女たちの未来のために、力を貸してほしい」
沈黙の後、クロは低く問い返す。
「……なぜ、俺なんだ」
アトラは、迷いなく答えた。
「君は妖精国を知っている。
王城の構造も、女王の居場所も、玉座の“奥”も」
一瞬、言葉を切る。
「そして――
君が一番、あそこを憎んでいると分かっている」
クロの肩が、わずかに揺れた。
脳裏に浮かぶのは、命令と欺瞞。
使い捨てられた仲間たちの影。
そして、今も戦場に立つ少女――夜凪ほのかの姿。
その様子を見て、ほのかが静かに口を開いた。
「……負担が大きすぎるわ」
感情を交えず、事実だけを告げる声。
「同一世界の空間を繋ぐだけでも、莫大な魔力を消費する。
それを異世界間で、しかも維持し続けるなんて……」
言い切らずとも、結末は分かる。
――死ぬ。
ヒカリは、かなでと視線を交わした。
かなでは何も言わず、ただ強く唇を噛みしめている。
アトラは、苦痛に顔を歪めながらも、わずかに笑った。
「だからこそだ」
その声は、静かで、揺るがなかった。
「私は侵略者の王だ。
そして王である以上……責務を果たさねばならない」
一歩、また一歩。
ふらつきながらも、彼は立ち上がる。
「私が生きて戻る計算など、最初からしていない」
クロに向き直る。
「妖精国を思い描け。
王城、玉座の間――女王が“勝利”を確信している場所を」
クロは、ゆっくりと目を閉じた。
妖精国の地形が、鮮明に浮かび上がる。
空間の癖、転移制限、玉座周辺の歪み。
しばらくして、低く呟く。
「……見つけた」
その瞬間、アトラは片手を前に突き出した。
空間が、悲鳴のような軋みを上げて裂ける。
歪んだ四角形の門が、無理やり世界に縫い留められた。
同時に、アトラの口から血が溢れ落ちる。
「――っ!」
ヒカリが駆け寄ろうとする。
「アトラさん!」
だが彼は、震える手を上げて制した。
「来るな……」
荒い息の合間に、言葉を絞り出す。
「私が奪ってしまった、この世界の未来を……
どうか、取り戻してほしい」
真っ直ぐに、ヒカリを見る。
「誰でもない。
君たち自身の未来のためにだ」
ほのかが一歩前に出る。
「私はここに残る。
ゲートの維持を手伝うわ。制御に手を貸せば、負担は減らせる」
ヒカリは、かなでと視線を交わし、強く頷いた。
二人は、歪む光の門へと踏み出す。
背後で、アトラの存在が、確かに削れていくのを感じながら――。




