皇帝は立ち止まらない。ただし、踏み越えもしない
石段を踏みしめる音が、一定の間隔で響いていた。
黄金に輝く全身鎧を纏いながらも、その歩みは速い。息は乱れず、足取りに迷いもない。
アトラは走っていた。
階段の縁から眼下を見下ろせば、かつてヒカリと並んで歩いた街並みが広がっている。
朝の名残を留めた屋根、風に揺れる木々、遠くで人が行き交う気配。
この高さからでも、それらは確かに「生きている」と分かった。
――良い街だ。
その感想が、ふと脳裏をよぎる。
だが皇帝は立ち止まらない。視線を前へ戻し、足を進める。
岩陰から、影が躍り出た。
「先に進ませるな!」
甲高い声と同時に、妖精近衛騎士が姿を現す。
背後には上級妖精騎士が五体。いずれもこの世界に降り立った妖精の中枢――選び抜かれた精鋭だ。
近衛騎士が両腕を広げる。
空間が歪み、十本の光の槍が宙に現れた。
上級騎士たちもそれぞれの手に光を収束させ、次々と槍を構築していく。
「ロイヤルアークナイツたる私が此処にいる以上――
皇帝よ、貴様はここから先へは進めぬ!」
広場で、アトラは足を止めた。
ほんの一瞬。
その仕草は、疲労でも躊躇でもない。ただ――予定外の出来事に向けられた、静かな確認だった。
皇帝は溜息を一つ吐く。
怒りはない。焦りもない。
ただ、時間を奪われたことへの淡い失望だけがそこにあった。
「イムリア帝国当代皇帝である我に――随分と大きく出たな」
アトラは視線を上げる。
見下ろすその眼差しに、侮蔑はない。
そこにあるのは、ただ事実を測る冷静さだった。
「我が名において、道化が踊ることを許そう」
近衛騎士の表情が歪む。
嘲られたと理解した瞬間、彼らは一斉に攻撃を開始した。
光の槍が放たれる。
だが――
「……な……?」
槍は届かない。
アトラが軽く視線を動かしただけで、空間に淡い光の障壁が展開された。
放たれたすべての槍が、見えない壁に縫い止められたように静止する。
妖精騎士たちが息を呑む。
「避けろ!」
一体が叫ぶ。
気づいた時には遅かった。
彼らの足元に、赤い魔法陣が描かれていた。
咄嗟に飛び退ろうとする。
次の瞬間、地面から三メートルに達する炎柱が噴き上がった。
妖精騎士たちは、一歩も前へ進めないまま、
ただ皇帝が走り抜けていく背中を見送ることしかできなかった。
――圧倒。
しかし、それでも皇帝の攻撃は広場の中央に限定されていた。
炎は階段を越えず、光は街の方向へ向けられない。
その事実に気づく者はいない。
だが、確かにそこには「選ばれた範囲」があった。
◇
場面は変わる。
「ヒカリちゃん……これ……」
焼け焦げた大地を前に、かなでが足を止める。
空間は裂け、岩は溶け、階段の一部は崩れていた。
ヒカリは周囲を見渡す。
無秩序な破壊ではない。
必要な場所だけが、切り取られたように壊されている。
「……皇帝ね」
その名を、ヒカリは小さく口にする。
そして無意識に、振り返る。
遥か下――街の方向を。
何も起きていない。
煙も、悲鳴も、炎もない。
「先を急ぎましょう」
そう言って前を向くヒカリの胸元で、
ネックレスが、わずかに脈動した。
それは警告ではなかった。
ただ、静かな違和感。
――あの人は、選んでいる。
その意味を、ヒカリはまだ言葉にできない。
けれど確かに、何かが「削られている」ことだけは感じ取っていた。
石段の先で、世界樹の光が揺れている。
そしてその背後には、
まだ――人々の営みが息づいていた




