第五話 小さな命
また、暫くの時がたっただろうか。
あの夜以来、ヘルガは僕の元へやって来ていない。
相変わらず、食事は朝と夜の二度、扉についた小窓から置かれるが、足音が聞き馴染んだヘルガのものではないことを、僕は悟ってしまう。
以前は、連の頃のように筋トレをしたり、今を打開すべく、なにかと思考を巡らせたりしたが、もうそんな気にはまったくなれない。
人として扱われず、誰にも必要とされていない現実が、僕を絶望の淵に追いやってしまった。
食事もまともに喉を通らず、このままでは僕は衰弱死してしまうんだろう。
だが、別にそれでいいじゃないか。
誰にも求められていないのなら、こんな人生終わりにしてしまえばいい。
元々連の人生は、あの転落死のときに終わっているのだから。
テオドールのことなんて、はじめから僕には関係のないことだったんだ。
そんなふうに、ベットの上でただ時間が過ぎるのをぼーっと待つだけだった、その時。
部屋の隅に雑多に置かれた、なにも入っていない古びた木箱の裏から、カタンと微かに物音が聞こえた。
「………?」
顔だけをそちらに向けるが、なにも聞こえない。
自分の勘違いだったかと、また元の体勢に戻った。
《カタカタッ》
今度こそ、はっきりと聞こえた。
なにかが空の木箱を揺するような音。
僕はゆっくりと立ち上がり、音のするほうへと歩み寄った。
恐る恐る木箱をどけてみると、そこにいたのは、あの日の子猫だった。
いや、少し違う。
あのときよりも、体はひどく痩せ細り、呼吸は浅く、かすかに震えている。
(こいつは…まさか、あのときの…?)
―春浦連 転落前―
秋晴れの空がとても美しい日の昼下がり、僕は友人のマンションの一室で、窓の外を眺めていた。
眼下には、小さく見えている車や人々が忙しなく動き、その喧騒は、八階のこの高さまで届くことはなかった。
大学のサークル仲間の引越しを、他の友人とともに手伝い、今しがたすべてが終わったところだ。
「はい、これ」
一段落してリラックスしていると、家主の友人が僕に缶コーヒーを手渡してきた。
「おっサンキュー」
蓋を開けて一口飲みながら、煙草を吸いにベランダへ出た友人を追って、僕も外へと向かう。
しばらく談笑していると、ふと眼下で微かに動く、見慣れない黒い塊があることに気づいた。
「あれ、なんだ?」
友人が煙を吐き出しながら、僕の視線の先を追った。
「ん? ゴミじゃね?」
僕は目を凝らした。
それは動かないゴミのようにも見えたが、よく見ると、時折、ほんのわずかに震えているようだった。
黒い塊は、ベランダの手すりの外側に設置されている、細い雨どいに辛うじて捕まっているようだった。
「あれ、猫じゃないか?」
僕が呟くと、友人も身を乗り出した。
「え、マジで? こんなところに?」
二人でさらに目を凝らすと、それは間違いなく小さな子猫だった。
黒く濡れた毛並みで、弱々しく丸まっている。
時折、「ミャア…」と途切れそうなか細い鳴き声が聞こえてくる。
「落ちそうだぞ!」
僕は思わず声を上げた。
子猫は、今にも雨どいから滑り落ち、地面に叩きつけられそうになっていた。
「どうする? 管理人さんに連絡するか?」
友人が言った。
僕は即座に首を横に振った。
「そんな時間はないよ!あんなに弱ってる。今すぐ助けないと!」
僕の心臓は、早鐘のように打ちはじめた。
見捨てるなんて考えられなかった。
小さな命が、今にも消えようとしている。
日々、獣医になるべく必死に勉強をしている身としては、放っておける状況ではなかった。
僕はいてもたってもいられず、ベランダの手すりに手をかけた。
「おい、危ないぞ!」
友人が慌てて僕の腕を掴もうとしたが、僕はもう行動に移していた。
躊躇なくベランダの柵に跨り、身を乗り出した。
八階という高さは、足がすくむほどだったが、眼下の子猫の姿が、僕の恐怖心を麻痺させた。
昨日は一日中雨が降っていた。
ベランダの柵は、触れるとひんやりとしていて、所々まだ水滴も残っている。
僕は、慎重に手すりを掴み、少しずつ体を外へと移動させていく。
下を見下ろすと、地面が遥か遠くに感じられ、眩暈がした。
友人が、心配そうな声を上げているのが聞こえたが、僕はそれに答える余裕はなかった。
子猫は、まだ弱々しく鳴いていた。連は、体を精一杯伸ばし、手を下へと伸ばした。
あと少し……指先が、かろうじて子猫の濡れた毛に触れた。
「よし!」
僕は、慎重に子猫を掴み上げた。
その体は、想像以上に小さく、そして軽い。
まるで、手のひらに乗せた羽毛のようだった。
子猫は、恐怖のあまりか、弱っているからか、小さく震えていた。
「大丈夫だ、もう安全だよ」
僕は、子猫に語りかける。
このまま子猫を抱えた状態で、体勢を戻さなければならない。
僕は、慎重に手すりを掴み直し、少しずつ体を内側へと引き寄せようとした。
そのときだった。
握っていた柵から、僕の手がずるりと滑り落ちる。
昨日の雨で濡れていたせいだ。
「うわっ!」
僕は、咄嗟に柵を掴み直そうとしたが、すでに遅かった。
僕の体は、バランスを失い、重力に従って傾きはじめた。
抱きしめていた子猫を落とさないように、必死に腕に力を込めたが、この体は、まるで制御不能の物体のように、ベランダから離れていった。
友人と、彼が呼んできたであろうの他の友人たちの叫び声が、耳の奥で木霊した。
「連ーっ!」
僕は、信じられないようなスローモーションの中で、自分が落下していくのを感じた。
下から吹き上げてくる風が、髪を逆立てる。
眼前の景色が、猛烈な速さで遠のいていく。
(ああ、落ちる……)
恐怖よりも先に、後悔の念が僕の頭をよぎった。
あんな危険なことをするべきではなかった。
だが、同時に、この胸にいる子猫を助けられたことは、ほんのわずかだが、僕の心に残る慰めだった。
僕は、最後まで腕の中の子猫を離さなかった。
小さな命を、自分の身を挺してでも守りたかった。
強烈な衝撃が、僕の全身を襲った。
世界が、音を立てて崩れ落ちるような感覚。
痛みを感じる間もなく、僕の意識は、永遠の闇へと落ちていった。
僕の腕の中で守られた子猫は、辛うじて衝撃を免れ、近くの植え込みに投げ出されたが、その小さな体は、すでに動くことはなかった。
秋晴れの雲ひとつない空の下、二つの小さな命が、静かに息絶えていた。
友人たちの悲痛な叫びが、マンションのベランダに、いつまでも響き渡っていた。