第二十六話 凱旋
さて、と一息ついたところで、僕は立ち上がろうとした。
その時、右足首に激しい痛みが走る。
「うっ……!」
思わず呻き声が漏れ、再び片膝をつく。
どうやら、戦いの最中、どこかで足をくじいてしまったようだ。
戦闘中は、光を使うことに集中していて気がつかなかったが、足首は腫れ上がり、僅かに触れるだけでも激痛が走る。
これでは、まともに歩くことすらできない。
光の里まではかなり距離がある。
「どうしよう……この足じゃ、森を歩いて帰るのは無理だな」
僕は頭を抱えた。
せっかく穢れを祓ったというのに、こんなところで立ち往生するわけにはいかない。
アデリアも僕の足元を見て、心配そうな顔をしている。
その時、僕の足元にいたバルトルが、ふわりと跳び上がって僕の膝の上に乗り、僕の顔をじっと見つめてきた。
そして、まるで僕の困惑を察したかのように、意外な言葉を口にした。
《我に乗るのだ、テオドール》
「は?」
僕は耳を疑った。
バルトルは子猫ほどの大きさしかない。
僕の膝にちょこんと乗っている彼の体は、片手で抱きかかえられるほど小さい。
そんな小さな体で「我に乗れ」だなんて、なにを言っているのだろうか。
疲労で幻聴でも聞こえたのだろうか。
僕は困惑し、アデリアに視線を送ると、彼女は僕とバルトルを交互に見て、なにやらニヤニヤとしている。
「ちょ、アデリア? なにか知ってるのか?」
僕の問いかけに、アデリアはにこやかに笑いながら言った。
「もったいぶらずに見せちゃえばいいのよ、バルトル!」
アデリアの言葉を聞くと、バルトルは僕の膝から地面へとゆっくりと降り立った。
そして、まるで決められた儀式のように、深く息を吸い込んだかと思うと、その小さな体に金色の光が溢れ出した。
その光は、瞬く間にバルトルの全身を包み込み、まるで陽炎のように揺らめき始めた。
光の中心で、バルトルの体がみるみるうちに膨張していく。
骨が軋むような、しかし不快ではない、不思議な音が聞こえたような気がした。
光が強くなるにつれて、僕たちの視界は眩しさに奪われた。
思わず腕で目を覆う。
しかし、目を凝らしてみると、光の向こう側で、明らかに子猫とは異なる、巨大な影が形成されていくのが分かった。
そして、光が収束した時、僕の目の前には、信じられない光景が広がっていた。
そこにいたのは、もはや僕が知る小さな子猫のバルトルではなかった。
全長は3メートルほどもあるだろうか。
しなやかで強靭な四肢を持ち、全身は艶やかな黒い毛並みに覆われている。
顔つきは精悍で、鋭い牙と爪を持つ。
だが、決して恐ろしいわけではなく、むしろ威厳と神秘性を感じさせる。
猫科動物に似ているが、元の世界で僕が見たどんな猫科動物とも違う、まさに聖なる存在というにふさわしい姿だった。
その瞳は、深い黄金色に輝き、僕をまっすぐに見つめていた。
その威風堂々たる姿に、僕はただただ呆然と立ち尽くしていた。
「これは……バルトルなのか……?」
僕の声は、上ずっていた。
まさか、いつも僕の肩にいる小さな相棒が、これほどの力強い姿を秘めていたとは。
バルトルは、その巨大な口を開き、低い、しかし響き渡る声で語り始めた。
その声は、かつての子猫の可愛らしい鳴き声とは似ても似つかない、深みのある、大地の根源から響くような声だった。
「驚いたか、テオドール。これが、我の真の姿。我ら聖獣は、光の癒し手の成長とともに、同じように進化していくのだ」
彼の言葉に、僕はハッとさせられた。
つまり、僕の聖なる力が成長したことで、バルトルもまた、その本来の姿を取り戻すことができたというのか。
「今回、お主が穢れの核を討ち取ったことで、光の癒し手としての力が大きく成長した。その力に呼応し、我もまた、姿を変化させることができるようになったのだ」
バルトルは誇らしそうに、フンと鼻をならした。
その仕草は、以前の小さなバルトルと変わらない、どこか愛らしいものだった。
その隣で、アデリアが楽しそうに僕に話しかけてきた。
「あなたが目を覚ます前に、バルトルが先にこの姿を見せてくれたのよ。私、本当に驚いたわ! まさか、あんなに小さかったバルトルが、こんなに立派な聖獣だったなんて!」
アデリアは目を輝かせ、興奮した様子で語る。
彼女は僕よりも先にこの光景を目にしていたのか。
僕は、あらためてバルトルの巨大な姿を見つめる。
その表情には、これまでの苦難を共に乗り越えてきた、深い絆が感じられた。
アデリアもまた、僕の隣で満面の笑みを浮かべている。
穢れの森の瘴気が晴れ、柔らかな光が差し込む中で、バルトルの威厳ある姿と、アデリアの屈託のない笑顔、そして彼らが僕の成長を喜んでくれているという事実が、僕の心に温かいものを広げた。
本当に、僕たちはやり遂げたんだ。
この世界の命運をかけた戦いを、僕たちは乗り越えたんだ。
その安堵感と達成感、そして何よりも、二人の仲間と分かち合う喜びが、僕の心を満たした。
足の痛みも、この温かい感情の前では、もはや気にならないほどだった。
バルトルの背中に跨がると、その毛並みは驚くほど柔らかく、暖かかった。
まるで上質な絨毯に包まれているようだ。
彼の体からは、微かに聖なる光の香りがした。
巨大な体から発せられる鼓動は力強く、それは僕の足元から全身に伝わってくる。
アデリアも僕の後ろに乗り込み、しっかりと僕の腰に腕を回して捕まった。
「さあ、光の里へ戻るぞ!」
バルトルの力強い声が響き渡り、彼は大地を蹴って走り出した。
その動きは想像以上に滑らかで、ほとんど揺れを感じさせない。
森の中を、巨大な聖獣が駆けていく。
穢れの痕跡が残る森の景色が、僕たちの横をあっという間に過ぎ去っていく。
日が高く昇り、陽光が森の奥深くまで差し込む頃、僕たちはようやく光の里へとたどり着いた。
里の入り口には、いつものように見張りのエルフたちが立っていた。
しかし、彼らの表情は、これまでの不安げなものとは打って変わって、驚きと喜びで輝いていた。
彼らは僕たちの姿を認めると、一斉に歓声を上げ始めた。
「テオドール殿だ! アデリア様もご無事だ!」
「あれは……聖獣様か?おお… なんと神々しい!」
エルフたちの声は、瞬く間に里全体に広がり、里の住民たちが次々と僕たちを出迎えるために集まってきた。
里の中央広場に到着すると、そこにはすでに多くのエルフたちが集まっていた。
彼らの顔には、安堵と喜び、そして期待の入り混じった表情が浮かんでいる。
その中心には、光の里の長老である師匠が立っていた。
バルトルが静かに足を止め、僕とアデリアは彼の背中から降りた。
僕の足の怪我は、バルトルの背中に乗っていたおかげで悪化することはなかったが、まだ痛みは残っていた。
師匠は、僕たちを一目見るなり、その目に大粒の涙を浮かべた。
そして、真っ先にアデリアの元へと歩み寄ると、その体を強く、しかし優しく抱きしめた。
「アデリアよ……よくぞ無事で帰ってきてくれた……!」
師匠の声は震え、その目からはとめどなく涙が溢れている。
アデリアもまた、長老の腕の中で目を閉じ、その温かさを享受しているようだった。
二人の間には、長きにわたる不安と再会の喜びが満ち溢れていた。
里の住民たちも、その光景を見て、涙を流したり、安堵のため息をついたりしている。
しばらくして、師匠はアデリアを抱きしめる腕を解き、僕へと向き直った。
その目は、まだ涙で潤んでいたが、その奥には強い感謝の念が宿っていた。
「テオドール殿……よくぞ、よくぞここまで……! この里を、そしてこの世界を救ってくださった! あなたのおかげで、穢れの脅威は去ったのだ……!」
長老は深く頭を下げ、その声は里全体に響き渡った。
彼の言葉は、僕の心に深く染み渡り、これまでの苦労と痛みが、報われたような気がした。
僕もまた、長老の言葉に胸がいっぱいになり、自然と頭を下げていた。
そして、長老は顔を上げ、満面の笑みで宣言した。
「今日は宴だ! 穢れの脅威が去りし今、皆で喜びを分かち合おうではないか!」
長老の言葉に、里のエルフたちは一斉に歓声を上げた。
彼らは喜びを爆発させ、互いに抱き合ったり、歌を歌い始めたり、踊り始めたりした。
子供たちは広場を駆け回り、真の姿のバルトルに興味津々で近づこうとする。
バルトルもまた、その大きな体で子供たちの頭を優しく撫でていた。
里全体が、喜びと祝祭の雰囲気に包まれていく。
僕の心にも、温かい光が差し込むのを感じた。