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無能の烙印と聖なる掌  作者: 英瀬
第二章
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第二十二話 異形

 さらに奥へと進むと、僕たちは息を呑むような異様な光景を目の当たりにした。

 もはや、そこは僕たちが知る森の姿ではなかった。

 生命力に満ち溢れていたはずの緑は、どこにも見当たらない。

 空は鉛色に淀み、太陽の光は少しも届かず、森全体が暗い影に包まれていた。

 足元には、ねっとりとした黒い粘液が広がり、それが不気味な輝きを放っている。

 まるで、森そのものが深い病に冒されているかのようだった。


 木々は、苦痛に喘ぐかのように奇妙な形に変貌している。

 幹はねじれ、枝はあらぬ方向へと伸び、その姿はもはや植物というよりも、おぞましい異形の怪物に見えた。

 葉は黒く枯れ果て、触れると簡単に崩れ落ちるほど脆くなっていた。

 そして、その枝からは、まるで血液のように黒い液体が、ぽたり、ぽたりと音を立てて滴り落ちている。

 その液体が地面の粘液に吸収されるたびに、じゅわりと不快な音が響き、粘液はさらに不気味な光を放つ。

 この粘液は非常に厄介で、僕のブーツがめり込むたび、ずるり、と音がして、引き抜くのに余分な力が必要だった。

 視界の端で、粘液の表面が泡立っているのが見えた。

 まるで、その下に何かが蠢いているかのように。


 空気はさらに重く、そこら中が瘴気で満たされているようだった。

 呼吸をするたびに、肺になにかが粘りつくような感覚がした。

 胸の奥に、鉛を飲み込んだかのような重苦しさが広がる。

 精霊と感応することで得た僕の力も、この穢れに満ちた空間では、まるで霞がかかったようにぼんやりとしていた。

 僕の精神そのものが、穢れに侵食されようとしているかのようだった。


 その時、森の奥から、大地を揺るがすような、不気味な咆哮が響き渡った。

 その音は、僕たちの心臓を直接掴み、強く脈打たせる。

 全身の毛が逆立つような悪寒が走り、背筋が凍りつく。

 理性では理解できない、原始的な恐怖が僕の魂を揺さぶった。

 アデリアは僕の腕を掴み、その指が小刻みに震えているのが分かった。

 バルトルもまた、普段の冷静さを失ったかのように、顔をこわばらせていた。


「あれは……穢れの獣……!」


 アデリアが、震える声で呟いた。

 彼女の顔には、これまでの冒険的な好奇心とは異なる、生々しい恐怖の色が浮かんでいた。

 その瞳には、得体の知れない存在への畏怖が宿っている。

 光の里で、穢れの獣の伝承は聞いていたはずだが、実際に目の当たりにする恐怖は、想像をはるかに超えるものだったのだろう。


 茂みの奥から、ゆっくりと、しかし確実に姿を現したのは、見るも悍ましい姿の獣だった。

 その体は黒い粘液で覆われ、生命力を吸い取られたかのように痩せこけている。

 皮膚は黒ずみ、骨が浮き出るほどに憔悴しきっているのに、その動きは異常なほど敏捷で、異様な生命力を感じさせた。

 目は血液のように赤く光り、口からは毒々しい、黒い息が吐き出されている。

 その息が吐き出されるたびに、周囲の空気がさらに重く、澱んでいくのが分かった。

 それは、かつて森に住んでいた動物が、穢れに完全に侵されて変貌した、悪夢のような姿なのだろう。

 それは、僕が知るどんな動物の形ともかけ離れており、ただ「穢れ」という概念が実体化したようなおぞましさがあった。


 《気をつけるのだ、テオドール! 奴らの攻撃には、穢れが宿っている! 直接触れるな!》


 バルトルが叫んだ。

 彼の声には、いつになく焦りの色が混じっていた。

 穢れの獣は、僕たちに向かって一直線に突進してきた。

 唸り声を上げ、凶悪な爪を剥き出しにして、その巨体からは想像できないほどの速度で、地面の粘液を蹴散らしながら迫ってくる。

 

 僕はすぐに「聖なる癒やしの力」を発動させようとした。

 手のひらから微かな光が溢れ出すのを感じる。

 しかし、この強大な穢れの塊を前に、一瞬、戸惑いと、そして微かな恐れが生じた。

 村で癒やした病とは、明らかにレベルが違う。

 熱病や外傷とは異なり、これは根源的な「悪意」の塊だ。

 これは、もはや「病」ではなく、「脅威」だった。

 僕の力が本当に通用するのか、という疑念が、心の奥底で渦巻いた。

 精霊のささやきも、この空間の瘴気によってかき消されそうになっていた。


 その僅かな隙に、穢れの獣が僕の目の前に迫っていた。

 その巨大な、黒い爪が、僕に振り下ろされようとする。

 その爪には、おぞましい粘液が絡みつき、禍々しい輝きを放っていた。

 獣の腐敗した息が、僕の顔にかかる。

 全身の毛穴が開くような悪寒に襲われた。


「しっかりしなさい!テオドール!」


 アデリアが、僕の名前を叫んだ。

 その瞬間、僕の体は反射的に動いた。

 彼女の声が、僕の意識を現実へと引き戻してくれたのだ。


 恐怖を振り払うように、掌から放たれる光が、穢れの獣の体に触れる。

 すると、獣の体から、煙のようなものが立ち上り、苦悶の声を上げた。

 キィィィィィィィィィィィィィィィィッ!と、耳をつんざくような甲高い叫び声が森に響き渡った。

 獣の動きが、わずかに鈍る。

 僕の光が、奴の穢れた魂を確かに傷つけたのだ。

 僕の掌から放たれた光は、穢れの粘液を蒸発させ、獣の皮膚を焼くように侵食していく。


 《効いている! テオドール、怯むな! お主の光は、奴らを浄化できる!》


 バルトルの言葉が、わずかに残る僕の心の迷いを吹き飛ばした。

 そうだ、僕は精霊と感応し、今のこの聖なる力を授かったのだ。

 この力を信じなければならない。

 僕は再び集中し、精霊との感応で得た力を込めて、より強力な光を放つ。

 僕の掌から放たれた光は、太陽の光線のように強烈に輝き、穢れの獣の全身を包み込んだ。

 穢れの獣は、僕の光に苦しみ、怯えたように後ずさりする。

 その黒い体から、浄化される際に発生する白い煙が、まるで獣の苦痛を具現化したかのように立ち上っていく。

 煙は瘴気の空気に溶け込み、僕たちの視界を遮った。


 しかし、穢れの獣は一匹だけではなかった。

 白い煙が晴れると、僕たちの後方、そして側面から、さらに二匹の穢れの獣が姿を現した。

 三方向から囲まれ、僕たちは絶対的な窮地に立たされる。

 彼らの目には、明確な敵意と、僕たちの光を排除しようとする邪悪な意志が宿っていた。

 一体の獣は、獲物を狩るかのように低く唸りながら、僕の背後から回り込もうとしていた。

 もう一体は、巨大な前足で地面を叩き、粘液を飛び散らせながら、僕たちを威嚇している。


「ああ、もうっ、キリがない!」


 アデリアが短剣を構え、素早く動き出した。

 彼女は、光の里で剣術を学んでおり、その身のこなしは俊敏だった。

 風を切り裂くような速さで、一体の穢れの獣の側面へと駆け寄り、その黒い皮膚に短剣を突き立てる。

 短剣には、光の里に伝わる秘薬の毒が塗られており、穢れの獣の動きを一時的に麻痺させることができる。

 毒が作用すると、獣は動きを鈍らせ、よろめいた。

 だが、その効果は一時的なものだ。

 完全に動きを止めることはできない。


 僕は、三匹の穢れの獣から同時に攻撃を受けながら、懸命に光の力を放ち続けた。

 僕の聖なる光は、一体の獣に集中して放つことで効果を発揮する。

 しかし、三方向からの攻撃を受け、僕は複数の獣に同時に対応しなければならなかった。

 精霊との感応で得た新たな力は、穢れの獣を一時的に退けることはできたが、完全に浄化するまでには至らない。

 穢れは、しぶとく獣の魂にへばりついている。

 僕の体力は、急速に消耗していく。

 呼吸は荒くなり、汗が額を伝う。

 このままでは、ジリ貧だ。

 僕の光が弱まるたびに、穢れの獣たちの目がより一層、獰猛に輝くように感じられた。


「バルトル……どうすれば……」


 僕の問いに、バルトルは冷静に、しかし切迫した声で答えた。

 彼の視線は、周囲を警戒しながらも、森のさらに奥へと向けられている。


 《テオドール、ここを突破するのだ! 穢れの源は、奴らをいくら倒してもまた新たな個体を湧き出させてくる。前に進むしかない! ここで立ち止まれば、飲み込まれるだけだ!》


 バルトルの言葉は、僕の心に強く響いた。

 そうだ、この穢れの森は、穢れの源から無限に穢れの獣を生み出している。

 ここで立ち止まり、目の前の獣と戦い続けても、いずれ僕たちの体力は尽き、穢れに飲み込まれてしまうだろう。

 唯一の道は、源を断つことだ。


 僕たちは、バルトルの指示に従い、穢れの獣たちの猛攻をかわしながら、森のさらに奥へと、必死に進んでいく。

 アデリアは、毒を塗った短剣で獣たちの動きを牽制し、僕がその隙に光を放って浄化する。

 バルトルは、魔力の障壁で獣たちの突進を阻む。

 一つ、また一つと、穢れの獣を退けながら、僕たちは前へ進んだ。

 その道のりは、まるで悪夢のようだった。

 粘液に足を取られ、瘴気に呼吸を奪われながら、僕たちは必死に足を動かし続けた。


 穢れの源が近づくにつれて、僕たちの心臓の鼓動は激しくなり、未知の脅威に対する緊張感は、かつてないほど高まっていった。

 森の奥から、さらに大きく、悍ましい咆哮が響き渡る。

 それは、今まで聞いたどの咆哮よりも、重く、深く、僕たちの魂に直接語りかけるようだった。

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