外伝:第五話 祖父の心
その晩、月が精霊の森の梢を照らし、里全体が神秘的な光に包まれていた。
テオドールが穢れの源へと旅立つ前の最後の夜だ。
長老である私は、いつも瞑想する大木の根元に座っていたが、その心は決して穏やかではなかった。
明日の旅立ちを前に、テオドールの「聖なる癒やしの力」がどれほど深まったかを確認し、最後の助言を与えることはできた。
彼の瞳に宿る決意の光は、古の預言に謳われた「光の癒やし手」そのものだった。
しかし、私の胸中には、それとは別の、深く個人的な感情が渦巻いていた。
「お祖父様」
静寂を破って、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、私の孫、アデリアだった。
月明かりに照らされた彼女の金色の髪は、まるで精霊の輝きを宿したかのように美しかったが、その表情は、いつになく真剣だった。
普段の奔放な明るさは鳴りを潜め、その淡い桃色の瞳には、確固たる決意が宿っているのが見て取れた。
「こんな夜更けに、どうしたのだ、アデリア。明日はテオドール殿たちの大切な旅立ちの日だぞ」
私は努めて穏やかな声で尋ねた。
孫の考えていることは、痛いほどわかっていた。
だが、里の長として、安易にその願いを認めるわけにはいかなかった。
アデリアはまっすぐに私の目を見つめた。
「お祖父様、私はテオドールとともに旅立ちます。彼を一人にはできません」
やはり、そう来たか。
私は深く息を吐いた。
長老として、私はアデリアが持つ精霊との強い繋がりと、類稀な森の知識が、テオドールの旅路にとってどれほど重要であるかを理解していた。
彼女の明るさと行動力は、テオドールの心の支えにもなるだろう。
だが、祖父としては……。
「アデリア、それはならぬ。お前はまだ若い。穢れの源へと向かう旅は、想像を絶するほど過酷だ。里の結界すら侵食するほどの穢れの力は、お前のような未熟な者では、到底太刀打ちできない。この里に残って、精霊の森を守るのがお前の役目だ」
私の言葉は、アデリアを案じる、祖父としての本心だった。
彼女は、まだ里の安全な場所で育つべき年頃だ。
穢れに蝕まれた世界での旅など、私には到底許せるものではなかった。
しかし、アデリアの決意は揺らがなかった。
彼女は一歩前に踏み出し、その声には、今まで聞いたことのないほどの強い意志が込められていた。
「未熟だとおっしゃいますか、お祖父様。確かに私は、お祖父様や里の皆のように、何百年も生きた経験はありません。でも、テオドールは、たった一人で穢れの村に行き、人々を救いました。彼の心は、誰よりも清らかで、誰よりも強い。私が隣にいれば、きっと彼の力になれます。それに、私が最も精霊の声を聞き、森の道を識る者だということは、お祖父様が一番よくご存知のはずです」
彼女の言葉は、ぐうの音も出ないほどに正論だった。
アデリアの精霊との繋がりは、里のエルフの中でも群を抜いていた。
そして、この森の隅々まで知り尽くしている彼女がいなければ、テオドールは道に迷い、危険な目に遭う可能性も高まるだろう。
里の長としての理性が、彼女の同行の必要性を訴えかけてくる。
だが、祖父としての感情が、それを強く拒んだ。
アデリアは私の、そしてこの里の未来そのものだ。
彼女を危険に晒すことは、私にとって何よりも耐え難いことだった。
「アデリア……お前を失うことは、私には耐えられない。もしものことがあれば、私は……」
私の声が震えた。
エルフは長寿ゆえに、別れになによりも弱い。
特に、愛する者が自ら危険に飛び込んでいく姿を見るのは、耐えがたい苦痛だった。
アデリアは、私の言葉を聞き、少しだけ悲しそうな顔をした。
しかし、その瞳の輝きは失われなかった。
「お祖父様。テオドールがもし、穢れの源を断ち切れなければ、この里も、そして私たちが大切にしている森も、いずれは穢れに飲み込まれてしまいます。私たちが今、安全な場所にいられるのは、テオドールが命がけで穢れと向き合っているからです。彼がたった一人でその重荷を背負おうとしているのに、見て見ぬふりなどできません」
彼女の言葉は、私の心を深く抉った。
アデリアの言葉には、テオドールへの深い信頼と、世界を守ろうとする強い使命感が宿っていた。
それは、私が里の長として、エルフが守るべきものとして、代々伝えてきた精神そのものだった。
彼女は、私の教えを誰よりも深く理解し、実践しようとしているのだ。
私は目を閉じ、深く瞑想した。
精霊たちの声が、私の中に響き渡る。
彼らは、アデリアの決意を支持しているかのようだった。
この子の意志は、もはや私の一存で止められるものではない。
彼女は、私たちが守ってきた預言の光を、自らの足で追い求めようとしている。
「……わかった、アデリア」
私はゆっくりと目を開き、孫の顔をまっすぐに見つめた。
私の声は、諦めではなく、彼女の成長と決意を認める、静かな響きを持っていた。
「だが、約束してくれ。どんな時も、テオドール殿とバルトル殿から離れず、危険な場所には決して飛び込まないこと。そして、必ず、この里へ無事に帰って来ること。お前は、この里の希望なのだから」
アデリアの顔に、安堵と喜びの表情が広がった。
彼女は、満面の笑みで頷いた。
「はい、お祖父様! 必ず、帰ってきます! テオドールを、そしてこの世界を守るために、精一杯力を尽くしてくるわ!」
アデリアはそう言うと、私に抱きついてきた。
その抱擁は、温かく、そして力強かった。
私は、彼女の背中を優しく撫でながら、改めて覚悟を決めた。
「光の里の長、ウルバノ・ド・ナラトレ・ベルティーニが命ずる。行け、アデリアよ。そして、テオドール殿とともに、世界に光を取り戻してくるのだ。お前たちの旅路に、精霊たちの加護があらんことを」
「アデリア・ド・ナラトリス・ベルティーニ、心より拝命いたします!」
私は、愛する孫の成長と、その決意の言葉を胸に、静かに夜空を見上げた。
月光は変わらず森を照らし、その光は、テオドールとアデリアの旅路をも、優しく導いてくれると信じた。