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無能の烙印と聖なる掌  作者: 英瀬
第二章
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第九話 はじめての夜明け

 ヴィルト家の地下室の扉が、軋む音を立てて開いた。

 物音を立てず、静かに上階を目指す少年が一人。

 いや、正しくは、少年の影に身を潜めるもう一匹も、そこにいる。

 地下を抜け出し、一階に到着した彼の鼻をくすぐるのは、もう嗅ぎ慣れてしまった、カビ臭い匂いではない。

 はじめてこの世界で覚醒したときに感じた、あの上品な草花の香りである。

 少年は、まだ少し、ここでこの芳香に酔っていたいと思いもしたが、夜が明ける前にこの屋敷には、別れを告げなければならない。


 たった一度。

 彼がここをくぐり、外の世界へ足を踏み出すことが許された回数だ。

 そんな経験からか、彼は眼前にあるこの屋敷の扉を、決して越えられない高い壁のように感じてしまっていた。


《テオドール、お主はもう大丈夫だ。我が常に側にいよう。なにも心配することはない》


 低く耳ざわりのいい声が、少年の頭の中だけに響く。


「ああ、そうだね。ありがとう、バルトル』


 テオドールと呼ばれた少年は、小さな声で頭に響いた声に返答し、あらためて目の前の扉と向き合い、そのノブに手を伸ばした。




 ひんやりとした空気が肌を撫で、土と草の匂いが鼻腔をくすぐる。

 これまで閉じ込められていた地下とも、あの屋敷の中ともまるで違う、生きた世界の匂いだった。


 僕、テオドールは、小さな背負い袋を背負い、肩に乗せたバルトルとともに、静かに屋敷を後にした。

 足音を忍ばせ、裏門へと向かう。

 普段は頑丈に鍵がかかっているはずの裏門が、なぜか半開きになっていた。

 わずかな隙間から差し込む月明かりが、僕たちを招き入れているかのように、銀色の筋を描いている。


「これは……」


 バルトルが、僕の肩で小さく身震いした。

 その琥珀の瞳が、夜闇の中で微かに輝いている。


《偶然ではない。お主を導く力が、ここに働いているのだ。そして、この扉の向こうに、お主が進むべき道がある》


 バルトルの言葉に、僕は深く頷いた。

 誰かが僕たちを助けてくれたのか、あるいは本当に見えない力が働いたのか。

 どちらにせよ、これは僕にとって、自由への唯一の道だった。

 ヴィルト家での生活は、僕の魂を蝕むばかりだった。

 ここから抜け出すことは、僕自身の尊厳を取り戻すことでもあった。


 裏門をくぐり、屋敷の敷地から抜け出す。

 後ろを振り返ると、ヴィルト家の威圧的な屋敷が、夜の闇に溶け込んで見えた。

 もう、あそこに戻ることはない。

 僕の心は、解放感と、そしてかすかな寂しさで満たされた。

 前世の家や家族、友人たちへの思いが、胸の奥で小さくうずく。

 だが、今は前へ進むしかない。


 夜が明けきらない道を、僕とバルトルはひたすら歩いた。

 舗装されていない土の道は、歩くたびに柔らかく足に沈む。

 冷たい風が吹き付け、旅装の薄い布地が、容赦なく体を冷やす。

 しかし、その寒さすら、僕には新鮮で、生きてる証のように感じられた。

 アスファルトの道しか知らなかった僕にとって、土の感触は、この世界に足を踏み入れたことを実感させるものだった。


「バルトル、これからどこへ向かえばいいんだ?」


 僕の問いに、バルトルは頭の上でしっぽを揺らした。


《穢れの源を探すのだ。それは、この世界のどこか深き場所に隠されている。しかし、その痕跡は、各地に現れ始めている。まずは、最も近い街へ向かおう。情報が得られるやもしれぬ》


 バルトルの言葉に従い、僕たちは東へと進路を取った。

 まだ日が昇りきっていない森の中は、木々の影が長く伸び、道は見えにくい。

 獣の鳴き声が遠くから聞こえ、時折、何かの気配を感じては、二人で身を潜めた。

 ここは、僕の知る世界とはまったく違う。

 危険と隣り合わせなのだと、改めて実感する。

 僕の体は、この数ヶ月の地下室での生活で、だいぶ体力が落ちている。

 幼い体であることも相まって、すぐに息が上がる。


 数時間歩き続けただろうか。

 空はすっかり明るくなり、太陽の光が森の木々の間から差し込んできた。

 その光に、僕の疲労はさらに増した。

 子供の体は、大人の体のように頑丈ではない。

 足は棒のようになり、喉は乾ききっていた。


「バルトル、少し休もうか……」


 僕が地面にへたり込むと、バルトルは僕の膝の上に飛び乗ってきた。

 その小さな体は、僕の疲労を癒やそうとするかのように、温かく感じられた。


《無理をするな、テオドール。お主の体は、まだこの世界の環境に慣れていない。焦る必要はない。長い旅になるのだから》


 バルトルは、僕の額にそっとその小さな額を擦り付けた。

 その瞬間、僕の体の中に、微かな温かさが流れ込んできた。

 疲労が、ほんの少しだけ和らいだような気がした。

 バルトルは、僕の力を補うだけでなく、僕の心にも寄り添ってくれる。

 その優しさが、僕の折れそうな心を繋ぎとめてくれた。


 持ってきた硬い肉片をかじり、水筒の水を飲む。

 肉は硬く、喉を通すのも一苦労だったが、空腹には代えられない。

 味気ない食事だったが、今はそれが唯一の栄養源だ。

 食べ終えると、バルトルは再び僕の肩に乗り、周囲を警戒するように、琥珀の瞳をきょろきょろと動かした。

 バルトルの鋭い視線が、隠れた危険を見抜いているかのようだった。

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