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無能の烙印と聖なる掌  作者: 英瀬
第一章 
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外伝:第二話 忠誠と秘めたる想い

 ヴィルト家の広大な屋敷の一角、使用人たちの詰所はいつも喧騒に満ちていた。

 その中でも、一際目を引く存在がいた。

 細身の体に、きりりとした表情。

 そして、誰よりも早く正確に仕事をこなす、給仕係のメイド、ヘルガだ。

 彼女は、他のメイドたちからは一目置かれ、時に畏れられる存在だった。

 しかし、その有能さとは裏腹に、ヘルガの心は常に、屋敷の地下に閉じ込められたある少年のことで占められていた。


 テオドール・フォン・ヴィルト。


 彼が「無能」の烙印を押され、地下へと追いやられたあの日から、ヘルガの日常は一変した。

 以前のテオドールは、おどおどして何一つ自分の意見を言えない、貴族らしくない子どもという印象だった。

 もちろん、メイドとして接する上で不快なことはなかったが、特別な感情を抱くこともなかった。

 しかし、何度目かの魔力測定の日、両親の冷たい眼差しと、言い放たれた残酷な言葉にうなだれる彼の姿を見た時、ヘルガの胸に、今まで感じたことのない強い痛みが走った。

 そして、地下へと連れて行かれる彼の小さな背中を見た時、彼女の心は、激しい怒りと、そして、どうしようもない悲しみに打ち震えた。


 (なぜ……彼はどうしてあんな仕打ちを受けなければならないの!?)


 ヘルガは、ヴィルト家に仕えるメイドとして、この家の規則や常識を誰よりも重んじてきた。

 しかし、魔力がないだけで、幼い子どもを獣同然に扱うこの世界の「常識」が、どうしても納得できなかった。

 いや、納得したくなかった。

 彼女の心は、理不尽な状況に囚われたテオドールへの、深い同情と、そして周りへのかすかな反発で満たされていった。


 ヘルガは、他の使用人たちがテオドールのことを「汚点」「恥晒し」と陰口を叩くのを耳にするたびに、胸が締め付けられる思いだった。

 彼らは、テオドールを人間として扱っていない。

 ただの忌まわしい存在として、無視しているのだ。

 そんな中で、ヘルガは密かに、テオドールを助ける方法を模索し始めた。


 ある日、ヘルガは、テオドールの食事を運ぶ当番になった。

 他のメイドたちは、小窓から皿を押し込むように置くと、一目散に立ち去ってしまう。

 ヘルガも最初はそれに倣っていたが、ある晩、彼女は思い切って部屋の中へと足を踏み入れた。


 薄暗い部屋のベッドで、小さく丸まって眠っているテオドールがいた。

 彼女の気配に気がついたのか、彼は眠りから覚め、その身を起こした。

 彼の頬は、痩せこけ、その瞳には光がなかった。

 まるで、生きる気力を失ってしまったかのようだった。

 その姿を見た瞬間、ヘルガの胸は張り裂けそうになった。


 (ああ、こんなに……こんなにも、お辛かったのですね……)


 ヘルガは、恭しく頭を下げた。

 それは、メイドとしての礼儀でもあったが、それ以上に、一人の人間として、彼への敬意と、そして心からの謝罪の意が込められていた。


「お食事でございます、テオドール様」


 彼女の言葉に、テオドールがゆっくりと顔を上げた。

 その瞳に、ほんのわずかな驚きと、戸惑いの色が宿ったのを、ヘルガは見逃さなかった。

 彼が、どれほど孤独だったか、その表情が物語っていた。


「運んでくださって、ありがとうございます」


 テオドールの口から、感謝の言葉が紡がれた時、ヘルガは不意を突かれたように感じた。

 この屋敷で、彼に感謝の言葉を教える者など、誰もいない。

 ましてや、メイドに頭を下げるなど、ヴィルト家で育った人間にはありえないことだった。

 その瞬間、ヘルガの心に、今まで知らなかったテオドールの一面が強く刻み込まれた。

 彼は、決してなにも言えない愚かな子どもではなかった。

 純粋で、礼儀正しく、そして強い心を持っていたのだ。


「いえ、これが私の仕事ですので」


 ヘルガは、思わずそう答えていた。

 それは、偽りのない本心だった。

 彼が、私の行動に礼を言ってくれたこと、自分が彼に、かすかな光をもたらせたかもしれないことに、ヘルガは小さな喜びを感じていた。


 その日から、ヘルガはテオドールの食事を運ぶたびに、短い言葉を交わすようになった。

 他の使用人たちに気づかれないよう、細心の注意を払って。


「テオドール様、本日のスープは春野菜と魚の―…」


「今晩は、いつもより少し冷え込むと思われます。羽織れるものをお持ちいたしました」


 言葉一つ一つに、彼への気遣いを込めた。

 たとえ、彼の生活環境のすべてを変えることができなくても、せめて、彼の心を少しでも温めたい。

 彼の孤独を、ほんの少しでも癒やしたい。

 それが、ヘルガの偽らざる本心だった。

 彼女にとって、テオドールとの短い会話は、日々の重労働の中での、唯一の心の拠り所となっていった。


 しかし、どんなに気を付けても、噂は広まるものだった。

 特に、テオドールに関する情報は、屋敷中で厳重に管理されている。

 ヘルガの、彼に対する「優しさ」は、すぐに他の使用人たちの間で囁かれ始めた。


 ある日の夕食後、ヘルガが地下室から戻ると、廊下の陰で数名のメイドが彼女を待ち伏せていた。

 彼女たちは、ヘルガを見るなり、冷たい視線を向けた。


「ヘルガ。貴女、あの恥晒しの食事を運んだ時、必ず少し話しているそうじゃない」


 一人のメイドが、刺すような声で言った。

 ヘルガは、とっさに言葉に詰まった。


「なにを言うの。私はただ、職務を全うしているだけだわ」


 ヘルガは、平静を装って答えたが、その声は微かに震えていた。


「とぼけるんじゃないわよ! アレに貴女は心を砕いている。まさか、あの魔力なしに同情でもしているのかしら?」


 別のメイドが、ヘルガの腕を掴んだ。

 その指先が、ヘルガの腕を強く締め付ける。

 抵抗して、その場から立ち去ろうとしたヘルガの頬を、そのメイドは強く平手打ちした。


「っ……!」


 ヘルガは、痛みに声を上げそうになったが、必死にこらえた。


「いいかしら、ヘルガ。アレは、ただの魔力なしじゃない。あれは、化け物なのよ」


 メイドの一人が、囁くように言った。

 その声には、嫌悪と、そして深い恐怖が混じり合っていた。


「貴女は知らないだろうけど、あの化け物は、昔からおかしな力を使うのよ。魔力がないくせに、不気味な力で傷を癒したり、病気を治したりする。旦那様方や執事長たちもあの力を気味悪がって、どうしようもないから地下に閉じ込めたのよ」


 その言葉に、ヘルガは目を見開いた。

 テオドールが、以前から力を使っていた?

 この家の主人や他の使用人たちが、以前からずっと異常なほどに彼を「異端者」として蔑んでいた理由はそこにあったのだ。


「貴女が傷を負えば、あの化け物は必ずその不気味な力で貴女を癒やそうとするわ。そうだわ、私たちがそれを試してやるのよ!」


 その日から、ヘルガの地獄が始まった。

 毎日、テオドールの部屋に食事を運ぼうとすると、その前に、他の使用人たちによって、彼女の体に小さな切り傷や痣がつけられた。

 腕、足、時には顔にまで。

 彼らは、ヘルガに傷をつけるたびに、冷たい言葉を突きつけた。


「どうかしら? 今日はどんな化け物の力で、その傷を治してもらうの?」

「貴女があんな化け物に優しくするから、屋敷全体が穢れるのよ!」

「異端者に心を砕くのはやめて! 貴女も同じ目にあうわよ!」


 ヘルガは、彼らの言葉を耳にしながらも、心では決して信じなかった。

 たしかにテオドールは、彼女の傷に気づくたびに、不安そうな目をして、心配の声をかけていた。

 だが、彼女に対しておかしな力を振るったことは一度もなかった。

 過去の出来事の噂話など、自分で見聞きしたわけではない。

 所詮眉唾物だと、彼女は意志を固くしていた。


 ヘルガは、毎日新しい傷をつけられながらも、今まで通りテオドールの元へ通い続けた。

 他の使用人たちの視線が、まるで網のようにヘルガを絡め取るが、彼女はひたすら耐え忍んだ。

 テオドールが、わずかでも自分に感謝の言葉をかけてくれるだけで、ヘルガの心は満たされた。


 そんなある日、痺れを切らしたメイドたちに、ヘルガはいつもよりひどい傷をつけられた。

 ヘルガがテオドールの部屋へ向かうところを捕まえ、使用人用の階段の踊り場で、隠し持っていたナイフで、彼女の腕に、これまでの比ではない深い切り傷をつけたのだ。


「ヘルガ、あんたってばまだわからないの!?あいつは、あんたが思っているような可愛い子どもじゃないのよ!? 人間じゃない、化け物なの! 」


 腕からは、鮮血が止めどなく流れ落ちる。

 ヘルガは、膝から崩れ落ち、うめき声を漏らした。

 意識が遠のきそうになるほどの激しい痛みだった。

 彼女は、恐怖と痛みで、もう立ち上がる元気もほとんどなかった。

 しかし、刻々とテオドールの食事の時間が迫っている。

 なんとしても、彼に食事を届けなければならない。


 少し遅れてしまったが、やっとの思いで、ヘルガはテオドールの元へ食事を運んだ。

 傷をきちんと手当てする暇はなかったが、先ほどより出血は幾分かましになっている。

 ヘルガが遅れてしまったことの謝罪を述べると、テオドールは、彼女の左腕の傷に気づいた。

 当然である。

 彼は、毎日、ほとんど見えないような小さな傷にも、気を配っていたのだから。


 テオドールが、ヘルガに触れた瞬間、彼女の心臓が大きく跳ね上がった。

 そして、彼の掌から放たれる、淡い光。

 その光が、みるみるうちに腕の傷を癒やしていく。

 痛みは消え、皮膚は元通りになる。

 ヘルガは、自分の腕を何度も見つめ、それからテオドールの顔をまじまじと見つめた。


 (これは……! なんて、なんて温かい光……!)


 その光は、魔力とは全く違うものだった。

 魔力は、冷たく、時に荒々しい力を伴うが、テオドールの光は、まるで陽だまりのように温かく、魂の奥底まで染み渡るようだった。

 しかし同時に、ヘルガの心には、これまで散々叩き込まれてきた「テオドールは怪しげな力を使う化け物」という言葉が、彼女に強烈な拒否反応を引き起こした。


「な、なんなのよ、その力は……!」


 ヘルガは、思わず声を上げていた。

 恐怖と、困惑と、そして、抗いがたい畏敬の念が混じり合う。

 体は、反射的に後ずさっていた。

 テオドールが、屋敷の人間たちに、地下に追いやられた理由。

 それが、この異質な力によるものだったのだと、彼女は悟った。


 ヘルガは逃げるように、テオドールの元から走り去った。



 (私は……私は、彼を恐れてしまった……!)


 しばらくの間、ヘルガは激しい自己嫌悪に陥った。

 彼を救いたいと願いながら、結局、恐怖に飲み込まれ、彼を傷つけてしまった。

 テオドールが、どんな顔で自分を見ていたか、怖くて確認できなかった。

 他のメイドがテオドールの食事を運んでいるのを見ると、さらに心が痛んだ。

 自分は、彼から希望を奪ってしまったのだ、と。


 しかし、その間にも、ヘルガの心の中には、テオドールの力が持つ「温かさ」が強く残っていた。

 あの光は、決して邪悪なものではなかった。

 むしろ、限りなく優しく、命を慈しむ力だった。


 (私は、なんて愚かだったのかしら…… テオドール様こそが、この世界が必要としている光!)


 ヘルガは、悩みに悩んだあと、強く決意した。

 彼がどんな力を持っていようと、彼が何者であろうと、自分は彼を信じ、彼の味方になろうと。


 その夜、ヘルガは、テオドールの部屋にそっと食事を運んだ。

 他のメイドたちに紛れて、誰にも気づかれないように。

 皿の裏に、こっそりと小さな手紙を添えて。

 それは、震える手で、歪な文字で書いた、粗末な、しかしたしかに、彼女の本心が詰まったものだった。


 《テオドール様。貴方の力は、決して恐ろしいものではございません。私は、貴方の温かい光を覚えております。どうか、ご無事で。いつか、貴方が笑顔ですごせる日が来ることを心より願っております。ヘルガより》


 この手紙に乗せた想いが、彼に届くことを、ただひたすらに願った。

 そして、この屋敷から、彼がいつか自由に羽ばたく日が来ることを、心から願った。


 ヘルガは、それからも密かにテオドールを見守り続けた。

 いつか、彼がこの地下室から解放され、その聖なる光で世界を照らす日が来ることを、彼女は強く信じていた。

 その日のために、彼女はこの屋敷の中で、ひっそりと、しかし確固たる忠誠を誓い続けていた。

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