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無能の烙印と聖なる掌  作者: 英瀬
第一章 
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第一話 翡翠の瞳の少年

 こちらに伸ばされた手と、血の気が引いた友人たちの青い顔が、猛烈な速さで視界から遠ざかっていく。

 強烈な浮遊感。

 風を切る音が耳元で轟き、全身が背面からグシャリと押し潰されたような圧に襲われた。


 空は吸い込まれるほどに深く、青く、まるで絵の具を溶かしたように鮮やかだった。

 視界が歪み、赤と青の色彩が混ざり合い、やがて漆黒の闇に全てが飲み込まれていく。


 僕は、抗う術もなくただ目を閉じ、意識を手放した。




 次に意識が覚醒したとき、僕はまず、身体を包む感触の違いに気づいた。

 冷たくて無機質なコンクリートの地面ではない。

 薄く柔らかでサラサラした手触りのものが、頬に優しく触れる。

 これは、シーツだろうか。


 全身を覆うのは、これまで袖を通したことのない上質な、滑らかな布地。

 わずかに漂う芳香は、僕が知る洗剤や柔軟剤のような、人工的な甘いにおいとは違う。

 自然の草花のような、それでいてどこか高貴な感じがする香りだった。


 ゆっくりと目を開く。

 視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井だった。

 精巧な細工が施された石の柱が天に向かって伸び、その間には、鮮やかな色彩で描かれたフレスコ画が広がっている。

 剣を携えた騎士らしき人物が、威風堂々と魔物と対峙し、その背後には、大きな白い翼を持つ優雅な女性が淡い光を放っていた。

 まるで、中世ヨーロッパに建てられた教会の中の、壁画を見ているような光景だった。


「ここは、どこだ……?」


 かすれた声が漏れる。

 自分の声の高さに違和感を覚え、思わず手元にあるシーツを強く掴んだ。

 手もなんだか小さい。

 指も細く、節も目立たない。

 僕はゆっくりと身を起こし、瞬きを繰り返した。


 最後に覚えているのは、友人の部屋のベランダから落ちたところだ。

 たしかにあのとき、僕は死を覚悟した。

 だから、こんな場所で目覚めるなど、想像すらしていなかった。


 部屋の中を見渡してみる。

 部屋は広々としていて、暖炉には静かに炎が揺らぎ、壁際には細かな彫刻が施された、木製の書棚がずらりと並んでいた。

 棚には、見たことのない言語で書かれた分厚い書物が、ぎっしりと詰まっている。

 部屋の隅には、磨き上げられた金属板が立てかけられていた。

 鏡だとすぐに理解できたそれに、吸い寄せられるように駆け寄った。


 そこに映っていたのは、僕の知る「春浦 連(はるうら れん)」とは似て非なる姿だった。

 艶やかで真黒な髪は肩まで伸び、翡翠の色をした瞳はどこか不安げに揺れている。

 顔立ちはたしかにどこか面影があるが、全体的に丸みを帯び、まるで絵本に出てくるような、まだあどけない少年の顔だった。

 年齢はせいぜい、小学校低学年といったところだろうか。


 混乱が、嵐のように僕の頭の中を駆け巡った。

 これは夢なのか?

 それとも、臨死体験で見た幻覚か?

 あらゆる可能性を模索するが、どれも現実離れしている。


 そのとき、部屋の外から、扉を叩く音と、低く落ち着いた女性の声がした。

 直後に、ゆっくりと開かれた扉のほうを振り返ると、上品なメイド服を身につけた初老の女性が、恭しく頭を下げていた。

 彼女の顔には、僕に見覚えのない、しかし明らかに「仕える側」の表情が浮かんでいる。


「テオドール様、お目覚めでございますか」


 ……テオドール?

 それは、誰のことだ?

 僕は困惑したまま言葉を発することができなかったが、メイドはその様子に気づくことはなく、淡々と続けた。


「お食事の準備ができております。旦那様たちもお待ちですので、広間へどうぞ」


 メイドは流れるような仕草で、僕を誘導するように再度部屋の扉を開いた。

 僕は思考が追いつかないまま、ただ彼女の言うとおりに部屋を出ることしかできなかった。


 広間への廊下は、長く、天井が高く、壁には肖像画がずらりと飾られている。

 どれも、威厳のある顔つきの男女が描かれていた。

 すれ違う使用人たちは、皆、僕を見ると目を伏せ、恭しく頭を下げていく。

 しかし、その視線にはどこか、畏怖のようなものが混じっているように感じられた。


 広間は、さらに広大で、中央には豪華な彫刻が施された大きな木製のテーブルが置かれていた。

 すでに数人が席についている。

 彼らもまた、見慣れない様式の、煌びやかな衣装を身につけていた。


 僕が席に着くと、テーブルの向かい側から、

厳めしい顔つきの中年男性が僕を冷たく見下ろした。

 深い緑色のコートをまとい、腰には長剣が携えられている。

 隣には、優雅なドレスを着た女性が、僕にほとんど目を向けることなく座っていた。


 彼らは、どうやら「テオドール」と呼ばれている僕の両親のようだ。

 しかし、その間には、親子とは思えないほどの距離と、冷たい空気が流れていた。


「テオドール、魔力測定の儀式は明日だ。しっかりと準備しておけ」


 父親と思われる男性が、感情のこもらない声で言い放った。


 (魔力測定…?)


 その言葉が、僕の意識にひっかかった。

 今までの状況から察するに、僕はどうやらあの転落死のあと、別の人間として、今いるこの場所に転生してしまったらしい。

 そして、あの男が言うことが事実ならば、ここは魔法が存在する世界だ。

 元いた世界とは別の「異世界」ということだろう。


「おい、私の話を聞いているのか」


 ひとり思考を巡らせていると、低く冷たい、しかしたしかに怒気や苛立ちをはらんだ声が響いた。


「も、申し訳ありません、父上!魔力測定と聞いて緊張してしまい、言葉に詰まってしまいました」


 なるべく穏やかに、相手を逆撫でないよう気をつけて発言する。

 しかし、返ってきた言葉は想定外のものだった。


「お前に父上などと呼ばれても寒気がするだけだ。今すぐ去れ」


 失敗した。

 このテオドール少年は、どうやら父親との間に、随分と深い溝があるようだ。

 そして、おそらく父親だけでなく、先ほどからこちらを一瞥もしない、あの母親とも最悪の仲なのだろう。


 父親の去れという言葉とともに、男性の使用人が静かに広間の扉を開いた。

 ここで逆らっても仕方がないので、席を立ち、大人しく部屋へと戻ることにした。



 (しかし…魔力測定か)


 部屋に入り、ソファに腰かけて、あの男の言葉を反芻する。

 なぜかその「魔力測定」という単語が、僕の心をざわつかせていた。

 まるで、それが避けて通れない試練であるかのようだ。

 もしかすると、このテオドールという少年の、過去の記憶と反応しているのかもしれない。

 僕は何も理解ができないまま、この日はそのまま眠りについてしまった。

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