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第三の事件(前編)

 ウェストブルック伯爵邸での事件の解決、そしてアッシュトン侯爵家との交友により、近頃、フォスター子爵家の評判は右肩上がりだった。


 かつては彼らを「成り上がり」と嘲っていた名門貴族達も、侯爵夫人の威光を前にしては口をつぐむしかなかった。それどころか、今や社交界で最も勢いのある家として、フォスター子爵家との交誼を求めて、手のひらを返す者まで現れる始末である。

 

 領地経営や近衛士官としての職務で多忙なレジナルドに代わり、日々届く招待状の確認と返信はソフィアの務めであった。彼女は毎朝の朝食後、私室にて届けられた手紙に目を通すのを日課としていた。

 

 ある日、その中の一通、ノースフォード伯爵からの舞踏会の招待状を開封した際、ソフィアは形式通りの文面の傍らに、小さく書き添えられたメッセージに気がついた。

 

---

ご相談したいことがあります。

当日少しお時間をください。

マリアンヌ

---

 

 マリアンヌというのはノースフォード伯爵夫人のファーストネームだ。美しいカリグラフィーとは対照的な走り書きに、ただならぬものを感じたソフィアは、一瞬、レジナルドに伝えるべきか迷ったが、すぐに思い直した。伯爵夫人の相談の内容がわからないうちに男性である彼に伝えるのは軽率に思えたからだ。

 ソフィアは添え書きには触れず、あくまで形式に則って出席の旨のみを返信した。


 

 ノースフォード伯爵夫妻と顔を合わせるのは、今回が初めてだった。舞踏会の開始前、招待客を出迎える彼らの姿は、まさに理想的な貴族の夫婦そのものであった。レジナルドと同様に若くして爵位を継いだという伯爵はレジナルドとは対照的に、愛想よく来客に声をかけていた。その傍らに寄り添う伯爵夫人マリアンヌは、決して出しゃばることなく、ただ口元に上品な微笑みをたたえていた。その佇まいは、良妻の見本ともいうべきものであった。

 

 舞踏会が始まると、ソフィアは彼女に話しかける機会を窺った。けれども、今をときめくフォスター子爵夫人と一曲踊りたいという紳士たちが後を絶たず、ソフィアは休む間もなく次々とダンスに引き出されることとなった。

 

「きゃあ」

 

 五曲目に差しかかった頃、マリアンヌの小さな悲鳴が聞こえた。ソフィアが慌てて視線を向けると、マリアンヌのドレスの背中の紐が切れ、身ごろがはだけそうになっていた。

 

「奥様、こちらへ」

 

 すぐさま侍女が駆け寄り、彼女を支えるようにして会場の外へ連れ出した。場内がざわつく中、ノースフォード伯爵が招待客に向けて朗らかに声をかけた。

 

「皆様、このあたりでひと息入れましょう。別室に軽食と飲み物を用意しております」

 

 ソフィアはこれ幸いとばかりに別室へ移動し、グラスワインで喉を潤した。顔見知りの貴族たちと談笑していたところ、やがて着替えを済ませたマリアンヌが姿を見せた。ソフィアはすぐに彼女のもとへと向かい、ドレスの裾を軽く摘んで丁寧に挨拶した。

 

「ノースフォード伯爵夫人。はじめまして。フォスター子爵夫人、ソフィアと申します。先日のご招待状にて仰っていた件ですが……」

 

 そう切り出すと、マリアンヌはたちまち深刻な面持ちとなった。

 

「そのことですが、なんと申し上げたら良いか……」

 

 彼女は言葉を濁しながら、給仕によりサーブされたワインに口をつけた。その瞬間、マリアンヌは突然激しく咳き込み、その場に倒れ込んだ。

 

「伯爵夫人!?」

 

 彼女は口から血の混じった泡を吐き、苦しげにもがいた末に、やがてぴたりと動かなくなった。

 

 異変に気づいた招待客たちがざわめきながら集まり、その様子から彼女がすでに息絶えていることを察すると、場内にはひととき、氷のような沈黙が降りた。

 

「皆さま、その場を動かないように」

 

 招待客の一人で、この地区の治安判事を務めるフレデリック・ノックス男爵が前へと歩み出ながら告げた。男爵はマリアンヌの遺体に近づき、とくに口元を入念に観察する。

 

「死因は中毒死とみて間違いなさそうです。おそらくワインに毒が混ぜられていたのでしょう」

 

 そう言ってから、男爵はマリアンヌの傍らで立ち尽くしていたソフィアに目を向け、鋭く問いかけた。

 

「フォスター子爵夫人、伯爵夫人に何をなさいました?」

 

「私は何も……ただ会話していただけですわ」

 

 そのやり取りを見ていた招待客の一人が、思い出したように口を開いた。

 

「そういえば今日のフォスター子爵夫人、やけに伯爵夫人の様子を気にされていましたわ」

 

 それは、マリアンヌに話しかける機会をうかがっていただけだったのだが、この状況ではいかにも疑わしく響いた。

 

 そして、それに続くように誰かが囁く。

 

「もしかして”あの噂”は本当でしたの?」

 

「”あの噂”とは?」

 

ノックス男爵が問い返すが、答える者はいない。ただ沈黙が広がる中、招待客たちの視線が一斉にレジナルドに向けられた。まるで、彼こそが答えを知っているとでもいうかのように。


 衆目に晒されたレジナルドは、気まずそうに口を開いた。

 

「確かに、ノースフォード子爵夫人ーーマリアンヌは、私の元婚約者です」

 

 それは、ソフィアにとって青天の霹靂であった。あの美しい伯爵夫人と、レジナルドがかつて婚約していたなんて。あまりの衝撃に、ソフィアは言葉を失う。

 

 その隙を突くように、男爵が物知り顔で推理を語り始めた。

 

「なるほど。つまり、フォスター子爵夫人はノースフォード伯爵夫人が子爵の元婚約者ということを知り、嫉妬に駆られてワインに毒を混ぜた。そういうことでよろしいですな?」

 

「違います!」

 

 ソフィアは即座に否定した。嘘はなかった。彼女はワインに何も加えていないし、そもそもレジナルドがマリアンヌと婚約していたことすら今の今まで知らなかった。しかし、どれだけ否定しても、状況は彼女に不利だった。

 

「では貴女以外の誰が伯爵夫人を手にかけたのか、お得意の推理でぜひ解き明かしていただきたい」

 

「それは……」

 

 男爵の挑発的な言葉に、ソフィアは言葉を詰まらせる。

 

 マリアンヌの飲んだワインは給仕によって提供されたものだ。ワインはボトルで提供されており、同じボトルから複数人がワインを飲んでいる。給仕係は複数おり、マリアンヌがその給仕に声をかけたのも偶然のはずだ。

 

 だが、マリアンヌ殺害の現場に、彼女の元婚約者であるレジナルドとその妻ソフィアが居合わせたのは偶然だろうか。なによりマリアンヌは、死の直前に何かを伝えようとしていた。

 

 何かが引っかかる。けれど、それが何なのか。思考は霧に包まれたままだ。

 

「フォスター子爵夫人、貴女をノースフォード伯爵夫人殺害の容疑で逮捕します」

 

 ソフィアが考えをまとめるより早く、男爵は無情にもそう告げた。



 治安判事により逮捕された容疑者は通常留置所に送られる。とはいえ、貴族であるソフィアを平民と同じ雑居房に収容するわけにもいかず、彼女にはベッドや椅子など最低限の家具が備え付けられた独房があてがわれた。

 

 ソフィアは座り慣れない固い椅子に腰を下ろし、じっと思案に沈んでいた。

 

 これから始まるであろう取り調べや裁判のこと。マリアンヌを殺し、ソフィアに罪を着せた真犯人の正体。そして、レジナルドとマリアンヌの過去の関係について――なぜ黙っていたのかとソフィアは心の中でレジナルドを責めた。


 しかしすぐに、それも無理がないと思い直す。自分達は夫婦と言えど形だけで、結婚前の私的なことまで打ち明け合うような間柄ではなかった。ソフィアだって招待状の隅に書かれていたマリアンヌからの私信をレジナルドに見せるのを躊躇った。今思うと、あれはおそらくレジナルドが見るのを期待したものだったのだろう。


 確かに彼女は助けを求めるサインを出していた。それなのに、自分は何もできなかった。

 

 ソフィアが自責の念に駆られていると、不意に独房の前に人影が現れた。黒い礼服に身を包んだ長身の影――レジナルド、その人であった。

 

「レジナルド様!?なぜここに……」

 

 驚いて声を上げるソフィアを彼はそっと制した。

 

「看守に賄賂を握らせました。長居はできませんが、貴女に伝えなければならないことがありまして」

 

 そう言いながら、レジナルドは鉄格子越しにソフィアの手を取り、静かに握った。

 

「貴女のことは私が必ず助けます」

 

 真っ黒な双眸にじっと見つめられ、ソフィアが言葉を失っていると、レジナルドは返事を待たずに足早に去っていった。

 

 一人残されたソフィアは、全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。

 

「急になんですの……」

 

 隙間風の吹き込む独房の中だというのに、やたら頬が熱かった。

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