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第二の事件

 アッシュトン侯爵夫人のサロンルームは隅々までが一流の美意識に貫かれていた。


 豪勢なガラスのシャンデリアによって照らされたその空間では、部屋の端に置かれたシルクのソファに腰掛けた貴婦人達が、香り高い紅茶を手に、哲学や文学について語り合っていた。その空気は洗練されており、賑やかな舞踏会や夜会とはまったく趣を異にしていた。サロンの主催者であるアッシュトン侯爵夫人は真紅のドレスを着こなす上品な淑女であり、この優雅な空間を体現する存在であった。


 

 ウェストブルック伯爵邸での一件は、ソフィアたちフォスター家に思わぬ余波をもたらした。二人による事件解決が評判になり、フォスター子爵家と交流を持ちたいという貴族から舞踏会や夜会、茶会への招待状が毎日のように届けられるようになったのである。

 

 アッシュトン侯爵夫人のサロンへの招待もその一つだった。侯爵夫人といえば、社交界の中心的存在であり、その交友範囲は貴族にとどまらず、学者や作家、芸術家にも及ぶ。彼女の主催するサロンは名門貴族の貴婦人や知識人達が集う、王都でも屈指の名声を誇る場所である。没落伯爵家の出身であり、現在も成り上がり子爵家の夫人に過ぎないソフィアにとっては縁遠い場のはずだった。しかし、例の事件における彼女の見事な立ち回りが侯爵夫人の耳に入り、ぜひにと招待を受けたのだった。

 

  参加者も調度品ももてなしも全てが最高級のもので彩られたそのサロンの中で、ひときわ目を引く存在があった。アメリア・スタンホープ子爵令嬢である。


 陶器のような白い肌に、淡い紅の唇、絹のようにしなやかなブロンドの髪。貴族としての地位は決して高くないが、その美貌から「社交界の薔薇」と讃えられ、多くの上級貴族が彼女との交流を望んでいた。彼女のような名の通った人物を招くことで、侯爵夫人はサロンの評判をさらに高めようとしたのだろう。

 

 アメリア嬢はソフィアと目が合うと、自ら歩み寄り、ドレスの袖をそっとつまんで、礼儀正しく挨拶をした。


「ごきげんよう、フォスター子爵夫人。本日はお会いできて、大変光栄ですわ」

 

「ご丁寧にありがとうございます。私のことは、どうぞお気軽にソフィアとお呼びください」

 

 ソフィアが穏やかにそう答えると、アメリア嬢はにこりと微笑んだ。もし自分が男性であったなら、たちまち恋に落ちていたかもしれない。そう思わせるほどの美しさだった。

 

「先日のウェストブルック伯爵邸でのご活躍、拝聞しましたわ。ソフィア様が見事に犯人を論破なさり、抵抗する犯人を子爵が鮮やかに取り押さえたとか。まるで一編の物語のようでございます」

 

「えぇ、まぁ……」

 

 幾分誇張された噂のように思われたが、わざわざ訂正するのも気が引けてソフィアは口を濁した。話題を変えようとしたとき、ふと目に留まったのはアメリア嬢の胸元に煌めく大きなルビーのブローチだった。

 

「そのブローチ、とても素敵ですわ。アメリア様にとてもよく似合ってらっしゃいます」

 

「ありがとうございます。亡き祖母から受け継いだものですの。ソフィア様のネックレスも上品でとても素敵ですわ」

 

 貴族社会における美の基準は、決して外見の美しさに限られない。優雅な所作、深い教養、そして慎み深さといった内面の気品があってこそ、真の美とされる。アメリア嬢は外見の美しさもさることながら、ひとつひとつの所作や言葉遣いまでもが洗練されており、まさに完璧な令嬢と呼ぶにふさわしかった。

 

「ソフィア様、あちらの焼き菓子はもう召し上がりまして? 今日のために、外国から招かれた菓子職人が特別にあつらえたものだそうですの」

 

 そう言ってアメリア嬢が菓子の並ぶテーブルへと歩き出した瞬間、彼女の胸元のブローチがふと金具の緩みから外れ、床へと落ちた。その刹那、ちょうど給仕の一人が通りかかっていた。

 

「あっ」

 

 制止の声を上げる間もなく、乾いた音が室内に響いた。パキリ。慌てて足を引いた給仕の足元には、無惨にひしゃげた金具と、粉々に砕けたルビーの破片が散らばっていた。

 

「誠に申し訳ございません。どうかどうかお許しください」

 

 血の気の引いた顔で、給仕は何度も深く頭を下げ、必死に許しを請うた。しかしその声は、アメリア嬢の耳には届いていないようだった。

 

「お婆さまの……お婆さまのブローチが……」

 

 アメリア嬢の美しい瞳から溢れ出た涙が、頬を伝い、床を静かに濡らした。

 

 先ほどまで和やかな雰囲気に包まれていたサロンは気まずい沈黙に満たされ、ただアメリア嬢の嗚咽だけが響いていた。


 その静寂を破ったのは、サロンの主であるアッシュトン侯爵夫人であった。


「この度は、当家の使用人が取り返しのつかぬ過ちを犯し、誠に申し訳ございません」

 

 侯爵夫人は深々と頭を垂れ、アメリア嬢に謝意を示した。

 

「お婆さまとの思い出が詰まった形見には到底及ばぬものですが、せめてもの償いとして、私から、いいえ、アッシュトン侯爵家から新しいブローチをお贈りさせていただきます」

 

 アメリア嬢はハンカチで涙を拭い、姿勢を正すと、しとやかに一礼した。

 

「お心遣い感謝いたします……」

 

 室内の視線が二人のやりとりに注がれる中、ソフィアは一人、床に散らばるルビーの破片を見つめていた。言葉では上手く言い表せないが、心の奥底で何かが引っかかるのを感じていた。

 

 ソフィアは何気なく破片の一つを拾い上げ、傍らの水の入ったグラスにそっと落とした。すると、それは水面に浮かび上がり、沈む気配さえ見せなかった。思わず声を上げそうになったその瞬間、侯爵夫人が人差し指を唇に当て、静かに制した。

 

 ブローチに使用されているルビーが本物であれば破片は水に沈んでいくはずである。破片が浮いたということはブローチはイミテーションを使用した安物に違いない。つまり、アメリア嬢は安物のブローチが壊されたと因縁をつけ、侯爵家から高価なブローチを受け取ろうとしているということになる。そして侯爵夫人はそれを承知の上で彼女に弁償を申し出たのだ。

 

 スタンホープ子爵家は上級貴族ではないものの、伝統ある家柄であり、困窮の噂は聞いたことがない。このような家には大抵お抱えの宝石商がついており、知らず知らずのうちに偽物をつかまされたということも考えにくい。

 

 アメリア嬢はなぜこの詐欺とも言える行為を働いたのか。そして何より不可解なのは、なぜ侯爵夫人はそれを看過したのか。

 

 騒ぎによってサロンに悪評が立つことを嫌った?あるいは、二人は実は裏で通じており、共謀して侯爵家から金品を騙し取ることが目的だった?

 

 茶会の余韻を胸に、フォスター邸に戻ったソフィアは、答えの見えない疑念を一人胸に抱きながら、静かに思索を巡らせていた。

 

 しかし、この一件の真相は、意外にも早く明らかとなった。

 

 茶会から一月ほど経ったある日、アッシュトン侯爵家の次女がカーライル侯爵家の長男と婚約したとの知らせが飛びこんできたのである。カーライル侯爵令息といえば、アメリア嬢と舞踏会で親しく言葉を交わす様子や、二人きりでの観劇が何度も目撃されている人物だ。彼らが親密な関係であることは、もはや社交界では公然の秘密だった。そのカーライル侯爵令息がアッシュトン侯爵の次女と結婚するというのだ。つまりアメリア嬢にとってアッシュトン侯爵夫人は恋人の結婚相手の母ということになる。

 

 あの騒動は、侯爵家に恋人を奪われたアメリア嬢によるささやかな意趣返しだったのだろう。そして侯爵夫人はそれを察し、金銭的な手打ちをもって穏便な収束を図った。侯爵家から贈られた新たなブローチは、娘婿となる令息との”別れの代償”、いわば手切れ金であったのかもしれない。

 

 すべてを悟ったソフィアは、事件の真実をそっと胸の内に秘めた。

 

 恋愛や金銭を巡る醜聞は、社交界では格好の噂話となる。しかし、あの気品ある令嬢アメリアと、賢明な侯爵夫人、そして彼女たちが作り上げた洗練されたサロンに、そのような俗事はふさわしくない。

 

 無闇に真実を暴こうとせず、あえて沈黙を守ること。それもまた、上流階級に求められる矜持の一つである。

 

 数ヶ月後、ソフィアとレジナルドのもとに、アッシュトン侯爵家より、一通の招待状が届いた。侯爵令嬢の結婚式への招待である。その末尾には、侯爵夫人の自筆で「当家の”親しい友人”として、ぜひご臨席賜りたく」と添えられていた。名門貴族であるアッシュトン侯爵家との交流は、成り上がり子爵家であるフォスター家にとって大いなる栄誉である。それはおそらく、真実を知ってしまったソフィアへの、侯爵夫人なりの穏やかな”口止め料”なのだろう。


 上辺と内情が巧みにすれ違う貴族社会では、時にこうした沈黙こそが、美徳とされる。

 

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