第一の事件(後編)
被害者はチャールズ・アシュワーズ男爵。ウェストブルック伯爵夫妻が主催した夜会の招待客の一人である。
午前零時過ぎ、応接間で腹部を刺されて死亡しているのを偶然部屋の前を通りがかったメイドにより発見された。凶器はおそらく遺体の側に落ちていた短剣。この部屋に装飾用として飾られていたものだった。
「皆さんの話を総合するとこういうことでよろしいですね?」
真夜中に呼び出された警吏、ジェームズ・コンフォート卿は眠そうに目を擦りながらそういった。
「ええ、間違いありません」
夜会の参加者を代表し、ウェストブルック伯爵が応じた。
「部屋に飾ってあった調度品が薙ぎ倒されています。おそらく犯人に襲われた際に激しく抵抗したのでしょう」
コンフォート卿は遺体の発見現場である応接間を注意深く見渡しながら、ある一点に目をとめた。
「床に落ちた置き時計が壊れ、午後十時を指したまま止まっています。犯行時刻はこの付近と見て間違いないでしょうな」
その言葉を聞いた招待客の一人が思い出したように口を開いた。
「午後十時といえば、丁度、伯爵夫妻の演奏が始まった頃です」
「みな演奏に聞き惚れていましたから、誰かが会場をこっそり出入りしても気付きませんわ」
その証言に耳を傾けながら、コンフォート卿は参加者たちを見渡し、重々しく告げた。
「なるほど、となると容疑者は伯爵夫妻と管弦楽団を除くこの屋敷にいた全員となりますな」
“容疑者”という言葉に、どこか他人事だった招待客の顔色が変わった。夜会の参加者は地位や名声を誇る貴族たちばかりである。そんな彼らにとって殺人事件の容疑者などという汚名は、たとえ一時的なものでも決して許容できるものではなかった。
「そういえばパーティの始まる前にルイーザ嬢が男爵と口論しているのを見ました」
「私も見ました」
「私も」
誰かの一言を皮切りに、招待客達は口々にルイーザ嬢と男爵の確執を語った。皆に押し出されるようにして前に出たルイーザ嬢に、コンフォート卿が問いかける。
「ルイーザ嬢、午後十時ごろ、あなたはどこで何をしていましたか?」
「もちろん夜会の会場におりましたわ」
「では、それを証明できる方は? どなたかと一緒にいらしたとか」
その質問に、ルイーザ嬢は俯き、消え入りそうな声で答えた。
「いいえ……ずっと一人でおりました」
「なるほど、つまり犯行は可能ということですね」
断定めいた言い方に、彼女の顔がさっと青ざめる。
「待ってください、確かにあの男を心の底から憎んでいましたけど、殺したりなどしていません!信じてください!」
必死に否定するルイーザ嬢に対し、周囲の視線は冷ややかであった。
数年前に一方的に婚約破棄された挙句、今日の夜会でも大衆の面前で恥をかかされたルイーザ・バークリー嬢は、男爵の殺害を決意し、夜会の最中に人知れず男爵を呼び出した。部屋の調度品を薙ぎ倒すほどの抵抗に遭いながらも、なんとか男爵の腹部に短剣を突き刺し、死に至らしめた。
事件の顛末として、一応筋は通っているように思われた。
ルイーザ嬢の犯行として事件が処理されようとしたその時――
「一つ、よろしいでしょうか」
控えめながらも澄んだ声で、ソフィアが静寂を破った。コンフォート卿は怪訝な顔をしながらも、意見を聞く姿勢を見せる。
「男爵の遺体をよく見ると、奇妙な点がありますわ。まず第一に男爵の服や髪は綺麗に整ったままですし、腕や顔に傷もありません。それに、陶磁器の破片が、彼の遺体の上に落ちています。刃物を持った犯人に襲われて、部屋の調度品を薙ぎ倒しながら抵抗したにしては少々不自然ではありませんか?」
か弱き貴婦人が、遺体を怖れることもなく平然と観察している姿に、コンフォート卿はもちろん招待客達も言葉を失っていた。ソフィアはそんな反応を意に介さず、言葉を続ける。
「思うに、犯人は男爵を刺殺した後に、あえて部屋を荒らしたのではないでしょうか」
「なぜそんなことを?」
「おそらく犯行時刻を誤魔化すためでしょう」
まだ理解の追いついていない様子のコンフォート卿に、ソフィアは丁寧に説明した。
「つまり犯人は男爵を秘密裏にこの応接間に呼び出し、刺殺した。そして置き時計の針を午後十時にずらした上で、床に叩きつけて破壊した。時計だけが壊れていたら目立ちますから、その後に他の調度品も床に落としてカモフラージュしたのでしょう。そうして犯行時刻を誤認させ、自分のアリバイのある時間帯に犯行が行われたと思わせたのです」
「となると、午後十時に確固たるアリバイがある人物がむしろ怪しいとなりますが……」
コンフォート卿の言葉に、会場中の視線が一斉に伯爵夫妻へと集まる。突然槍玉に上げられた伯爵夫人は何度も首を横に振って否定した。
「誰がそんな恐ろしいことができるものですか。神に誓ってそのようなことはしておりません」
伯爵も怒気を押し殺した声で言い返した。
「確かに、子爵夫人の仰る通り、犯人は犯行時刻を誤認させようと細工をしたのでしょう。ですが、それだけで我々夫婦のどちらかが犯人であると決めつけるのは些か乱暴ではないですか?」
その威圧に、さすがのソフィアもわずかに気圧された。
「刺し傷をよく見てください」
そこで口を開いたのは、今まで沈黙を守っていたレジナルドだった。
「犯人は男爵の腹部に短剣を刺した後、刃を九十度捻り、傷口に空気を入れることで絶命させています。男爵はとても肉付きが良いですから、普通に腹部に刺しただけでは致命傷を与えるのは難しい。だからこういう刺し方をする必要があったのでしょう」
そしてレジナルドが事件の核心をついた。
「これは訓練を受けた軍人の技術です。女性の細腕ではとてもできるものではない」
誰もが、言葉を失った。ウェストブルック伯爵が昨年まで陸軍の大佐であったことを知っていたからだ。
「どうやら詳しいお話を聞かせていただく必要がありそうですな」
コンフォート卿が促すと、伯爵はついに観念したように肩を落とし、堰を切ったように語り始めた。
ウェストブルック伯爵は数年前に父親から爵位を受け継ぎ、伯爵家が代々所有する広大な領地の領主となった。軍人としては優秀だった伯爵も、領地経営の才能には乏しかったようで、領地から得られる地代は年々減少していった。その一方で、使用人の給金、邸宅の維持費、社交費用等、歴史ある名門伯爵家としての体面を維持するための費用はどんどん嵩み、家計は火の車だった。ついぞ貯金が底をつき、伯爵は最後の手段として金を借りることにした。
その貸主こそが、チャールズ・アシュワーズ男爵だった。伯爵は財政の立て直しを図るために長く勤めていた軍を辞め、領地経営に専念したものの、事態は好転しなかった。首が回らなくなった頃、男爵は借金の担保となっていた伯爵家所領の土地を譲渡するよう要求した。それが彼の常套手段だった。かつて平民だった彼は、そうやって土地を奪い、財を築き、爵位を得たのである。
代々受け継いできた領地を元平民の成金に明け渡すなど、誇り高い名門貴族である伯爵にとって耐え難い屈辱であった。伯爵は男爵の殺害を決意し、自邸で開催する夜会に彼を招待した。そしてあえて男爵と確執のあるルイーザ嬢も招待することで両者にトラブルが起きるよう仕向け、彼女に疑いが向くようにした。
それがこの事件の真相だった。
帰りの馬車の中、ソフィアは一人気まずい思いを抱えていた。
結婚以来、黙って夫を支える貞淑な妻という体面を崩さずにやってきたつもりだ。なのに、いくら事件を解決するためとはいえ、殺人現場に堂々立ち入り犯人のトリックを暴くなど、出過ぎた真似をしてしまったと反省していた。普段レジナルドはソフィアの振る舞いのついて口出しをすることはないが、今回ばかりは苦言を呈されるかもしれない。彼女にも言い分はあるものの、叱責は甘んじて受け入れるつもりだった。
だが、レジナルドの口からこぼれたのは意外な言葉だった。
「ありがとうございます」
「えぇっと、どういたしまして?」
唐突な感謝にソフィアは面食らう。何か礼を言われるようなことをしただろうか。いやそんな覚えはない。
「傷を一目見た瞬間、私は伯爵の犯行を確信しました。だが犯行時刻の謎がどうしても解けなかった。あなたがアリバイを崩してくれたおかげで助かりました」
「そう、ですの」
叱責されると思っていた心が、不意にほどける。ソフィアは安堵すると同時に、照れくさくなり、視線をそらした。レジナルドもまた窓の外の景色に目を向ける。
夫婦の会話がそれ以上続くことなく、沈黙が馬車の中を満たした。
二人を乗せた馬車がフォスター邸を目指し夜の王都を駆ける。蹄鉄が石畳を打つ乾いた音だけが、静かな街に反響しながら、やがて遠ざかっていった。