第一の事件(前編)
結婚から三年、ソフィアは穏やかな結婚生活を過ごしていた。
使用人たちは皆優秀で屋敷の管理は行き届いている。レジナルドもソフィアも倹約を重んじ、家計の不安はない。
ただ一つだけ問題なのは、夫であるレジナルドとの関係だった。
夫婦の仲は完全に冷え切っており会話は必要最低限に留まっている。とりわけレジナルドはソフィアに対して一線を引いた態度を崩さなかった。彼女に対してきつく当たることも、礼を欠くこともない。ただ、それ以上に踏み込むことも決してなかった。
それでも対外的には、真面目で寡黙な夫とそれを支える貞淑な妻という理想的なフォスター子爵嫡男夫妻を演じてきたつもりだ。半年前、初代フォスター子爵であるレジナルドの父が亡くなり、レジナルドが家督を継いだ。葬儀から爵位継承に伴う一連の儀礼まで夫妻は滞りなく務め上げた。
そして今月、服喪の期間が明け、いよいよ”フォスター子爵夫妻”としての本格的な社交が始まる。その初めての場となったのがウェストブルック伯爵夫妻が主催する夜会であった。
ソフィアは既婚女性らしい落ち着いた深緑のドレスに身を包み、正装したレジナルドともに会場へと向かう。馬車を降りると、レジナルドが何のためらいもなく手を差し出してくる。ソフィアもまた、自然な所作でそれに応じる。ふたりの間にある距離は、他人には見えない。はたから見れば仲睦まじい理想の夫婦そのものに映っただろう。
主催者である伯爵夫妻に挨拶しようとホールへ一歩足を踏み入れたところで、ソフィアは会場の雰囲気がどこか張り詰めていることに気づいた。他の招待客の視線の先を追うと、会場の中央で一組の男女が剣呑な雰囲気で睨み合っているのが見えた。
「これはこれは、ルイーザ・バークリー嬢ではありませんか。相変わらずお元気そうで何よりだ」
口髭を蓄えた恰幅の良い男性が、やけに芝居がかった口調で、薄いブルーのドレスを纏った女性へと声をかける。その顔には見覚えがあった。
エドワード・アシュワーズ男爵だ。かつては平民であったが、財政難に陥った旧家の領地を買い取ることで地主階級へと成り上がり、男爵の地位を手に入れた。
このような新興貴族は経済的には豊かであっても、血統や伝統を重んじる貴族社会における地位は未だに低く見られている。だからこそ、このような社交の場に積極的に参加し、名実ともに上流階級の一員として認められようと躍起になる。ソフィアたちフォスター子爵家も、程度の差こそあれ、同じ立場だった。
一方のルイーザ嬢とは面識こそ無かったが、その名前には心当たりがあった。数年前に男爵が一方的に婚約破棄した女性の名が、確かそうだったと記憶している。
「まぁお久しぶりですわ、アシュワーズ男爵閣下。そちらこそ相変わらず、ご自分の都合で気ままにお暮らしのようで、結構なことですわ」
「あははは、昔と変わらないカナリアのような美しい声だ。その美声で今夜こそはいいお相手が見つかると良いですな」
その言葉にルイーザ嬢の作り笑いが引きつり、目が冷たく光った。
「どの口が……」
「おぉ恐ろしい。そんな様子ではお目当ての男性が逃げてしまいますぞ。女性は多少見た目に難があっても愛嬌が肝心ですからな」
「黙りなさい!!」
ルイーザ嬢は甲高い声でそう叫ぶと、右手を振り上げ男爵の左頬を容赦なく平手打ちした。ざわめきを押し殺して見守っていた招待客たちから、驚きの声が一斉に漏れる。
「そこまでです」
そのまま乱闘に移りそうな両者の間に割って入ったのはパーティの主催者であるウェストブルック伯爵だった。
「この夜会は、皆さまに心安らかで楽しいひとときを過ごしていただくための場です。どうか、場の空気を乱されませぬよう、ご協力を願います」
口調は穏やかだが、かつて陸軍大佐を務めていた伯爵の威圧感に、二人は黙って引き下がるしかなかった。
「さあ皆さま、本日はようこそお越しくださいました。気を取り直して、お食事に、音楽に、会話に、思い思いのお時間をお楽しみください」
伯爵がよく通る低い声でそう挨拶を告げると、張り詰めた空気が一気に和らいだ。
ほどなくして管弦楽団による演奏が静かに始まり、招待客達は普段通り歓談を始める。ソフィアも子爵夫人として、他の貴婦人達の輪に加わった。
談笑の合間にふと会場の端に目をやると、ルイーザ嬢が一人、所在無げに立ちすくしているのが見えた。
このような夜会は上流階級同士の交流の場であると同時に、未婚の貴族令嬢にとっては良縁を探す貴重な機会でもある。通常であれば知り合いの既婚女性や彼女の親類が未婚の男性を紹介して交際のきっかけを作るものだが、あの騒ぎを目の当たりにした後では誰も彼女に花婿候補を紹介しようなどとは思わないだろう。
その姿にソフィアは少し胸が痛んだ。無礼なのは男爵の方であったにも関わらず、悪目立ちしたのはルイーザ嬢だった。華やかに見える社交界は時として残酷な一面を見せる。
「続いては今宵のためにご用意した特別な演奏です」
時計の針が午後十一時を回った頃、管弦楽団のリーダーがそう告げた。合図と共にヴァイオリンとハープが会場に運び込まれ、ウェストブルック伯爵夫妻が演奏に加わる。
曲目はアンブローズ・コリング作《夏の夜の夜想曲》 。伯爵の奏でるヴァイオリンの品のある旋律と、夫人のハープが紡ぐ繊細な音色が重なり、美しい調べとなって会場を満たしていく。
「なんて優雅なメロディなのかしら」
「今宵に相応しいですわ」
「えぇ、本当に」
招待客は口々に伯爵夫妻を讃え、演奏に耳を傾けた。パーティ開始前の騒動など、すでに遠い出来事のように思われた。
やがて日付が変わり、夜会も終わりに近づいていた。レジナルドが軽く目配せすると、ソフィアはそれに気づき、歓談の輪を抜けて彼のもとへ向かった。
「伯爵、夫人、今夜はお招きいただき本当にありがとうございました。とても心地よいひと時でした」
ウェストブルック伯爵夫妻へ別れの挨拶を済ませたその時、ホールの外から女性の悲鳴が聞こえた。
レジナルドがいち早く悲鳴の聞こえた方向へ駆け出す。ソフィアも裾の長いドレスとハイヒールに足を取られながらも、懸命に後を追った。応接室の前で、一人のメイドが腰を抜かし、蒼白な顔で部屋の中を指差しているのが見えた。
「ひ、人が!血が!」
レジナルドが躊躇なく中へと飛び込む。
「アシュワーズ男爵!」
その名を聞いたソフィアも思わずレジナルドの背後から部屋を覗き込んだ。
黒い礼服に身を包んだ男が、床に倒れたまま動かない。肉付きの良い体格、たっぷりと蓄えた口髭ーー紛れもなく、アシュワーズ男爵その人であった。