序章
「私は、レジナルド・フォスターを夫として愛し、敬い、貞節を守ることを、神の御前に誓います」
レイブンヒル伯爵令嬢ソフィアは十八歳になった年の夏、王都郊外の荘厳な礼拝堂でその言葉を口にした。澄んだ声が石造りの天井に反響し、祭壇の蝋燭が揺れる。
神前の誓いを終えた二人は向き合い、新郎から新婦への指輪の贈呈へ移る。レジナルドがソフィアの手を取り、薬指に指輪を滑らせた。
「この指輪を、私の変わらぬ愛の証としてあなたに贈ります」
その言葉を聞いた瞬間、ソフィアの青い瞳からそっと一筋の涙がこぼれ落ちた。それは頬を伝い彼女の純白のドレスに染みを作る。
レジナルドははっと息を呑んで気まずそうに視線を逸らした。
※
ソフィア・レイブンヒルは生まれついて聡明な子供だった。五歳で母語のほか三つの外国語を話し、十歳で大学生向けの難解な学術書を読破してみせた。その才気を目の当たりにした父、レイブンヒル伯爵は深いため息をつきこう呟いた。
「この子が男であったらさぞや出世しただろうに」
この国で貴族の家に生まれた女性に期待されるのは学問の才でも立身出世でもなく、少しでも高い地位と多くの富を持つ家への嫁入りだ。
才気溢れるソフィア・レイブンヒル嬢も例外ではない。むしろ彼女には、他の令嬢たち以上に切実な理由があった。かつて隆盛を誇ったレイブンヒル伯爵家は今や見る影もなく、屋敷の壁紙は剥がれ、使用人の数も減り続けている。父の伯爵は誇り高くも世事に疎く、財産の管理はすでに破綻寸前だった。そんな実家を財政的に支えられる家との縁を結ぶこと。それが彼女に課せられた使命だった。
そんな事情を抱えるレイブンヒル伯爵家において、レジナルド・フォスターは申し分のない結婚相手だった。彼の実家は先祖が不動産業で築いた莫大な資産を有する新興の子爵家である。格式の面ではソフィアの家に及ばないものの、財政の立て直しを急ぐレイブンヒル家と、上級貴族との縁戚を望むフォスター家の思惑は見事に一致していた。
典型的な家同士の都合による政略結婚だが、ソフィアは内心安堵していた。これで屋敷の使用人たちに給金を支払える。将来家を継ぐ弟に相応しい教育を受けさせてやれる。家族にもう惨めな思いをさせなくて済む。そのためなら、与えられた役割を全うする覚悟はあった。
レジナルドとソフィアの結婚が正式に決まった後、ソフィアはフォスター子爵邸に招かれた。既に結婚は決定事項であるにも関わらず、レジナルドと顔を合わせるのはこれが初めてであった。
フォスター子爵邸の応接室に通されたソフィアは、付き添いの母、レイブンヒル伯爵夫人とともに深く一礼した。控えめな濃紺のドレスに身を包んだ伯爵夫人が落ち着いた声で口を開く。
「レイブンヒル伯爵の妻にございます。こちらは娘のソフィア。ご招待にあずかり、感謝いたします」
「ようこそお越しくださいました、伯爵夫人、令嬢。こちらが我が息子レジナルドでございます」
子爵に促され、青年――レジナルド・フォスターが一歩前に出た。
王宮の近衛士官を務めるという彼は長身痩躯ながら姿勢がよく、無駄のない所作の一つ一つに洗練された育ちの良さと軍人らしい規律が滲み出ていた。黒曜石のように艶やかな黒髪はきっちりと撫でつけられ、鋭さを湛えた漆黒の瞳がこちらをまっすぐに見据えている。
「レジナルド・フォスターにございます。お目にかかれて光栄です、レイブンヒル伯爵令嬢」
そう言って彼は一礼し、ソフィアの右手の甲に儀礼的なキスをする。
「こちらこそ、お目にかかれてうれしゅうございますわ」
ソフィアもまたそれに応じて控えめに会釈を返す。声色に緊張の影が混じらぬよう、懸命に抑えていた。
「さあ、どうぞ皆様、お掛けください。今日という日が、実り多いものとなりますように」
沈黙が落ちる前に、子爵が和やかな口調で場をつないだ。香りの高い紅茶と上品な茶菓子が運ばれ、応接間には穏やかな談笑が満ちていった。
時計の針が一刻の終わりを告げるころ、レイブンヒル伯爵夫人は品の良い微笑みを浮かべて立ち上がった。
「それでは、私どもはこれにて失礼いたします。本日は温かくお迎えくださり、誠にありがとうございました」
ソフィアもまた母に倣ってそっと立ち上がり、静かに一礼して、応接間を後にした。執事により静かに扉が閉められたその直後、扉の向こうから怒りを抑えたようなレジナルドの声が漏れ聞こえてきた。ソフィアは思わず足を止め、盗み聞きなどはしたないと思いながらもつい耳をすませる。
「……ソフィアは……趣味じゃない」
その言葉の意味を理解した瞬間、ソフィアの胸の奥に冷たいものが差し込んだ。
彼女の容姿は決して不器量ではないが、かといって特段の美しさを備えているわけでもなかった。このくすんだ茶色の髪が美しいブロンドであれば、もっと瞳が大きければ、鼻筋が通っていれば。少女らしい願いと共に、何度鏡の前でため息をついたことか。
もとより互いに恋焦がれての結婚ではないことは重々承知だったが、それでもレジナルドの言葉は十八歳になったばかりのソフィアの心にずしりと重くのしかかった。
そして迎えた婚姻の日、左手の薬指に金色の指輪が光るのを見て自然と涙がこぼれた。花嫁が結婚式の最中に涙を流すとは、レジナルドもさぞ驚いただろうが、ソフィア自身もまたこみ上げる感情に戸惑っていた。
レジナルドとの結婚が嫌というわけでは決してない。貴族の令嬢として結婚に求めるのは愛よりも両家の利益だ。この結婚でレイブンヒル伯爵家にかつての輝きが取り戻せるなら、それは何よりも幸福なことである。
ただほんの少しだけ感傷的になっただけだ。ソフィアは自らにそう言い聞かせた。
その晩、レジナルドは彼女の寝室を訪れることはなかった。
こうして二人の結婚生活は静かに始まった。