増税だ増税だ増税だ!
蝉の全盛、世は夏休み真っ只中。彼もまた日々の重圧から解放され、趣味のゴルフを側近たちと楽しんだのち、道が混んでいるからという理由でヘリコプターで都心に戻ろうとしていた。
彼にはそれができる。なぜなら彼は総理大臣なのだ。
だが、さすがの総理と言えど、不運な事故。ヘリの墜落を阻止することはできなかった。
「うぅ……」
地面、雑草と落ち葉の上。むくりと起き上がった総理は顔を歪めた。自身を囲む木々、そこにとまる蝉たちの鳴き声に、まるで四方八方からジリリリと目覚まし時計の音を浴びせられている気分。最悪の目覚めだ。しかし、ぼやけていた頭の中が徐々にハッキリしていくほどにその最悪は更新されていく。
見回すが周りにヘリ、その残骸はない。機体から放り出されたのだろうか。覚えていない。どれくらい時間が経ったのかも。スマートフォンは失くし、おまけに腕時計は壊れたようで動かない。
チャーターしたヘリでゴルフ場を発ったのは午後三時ごろ。木々の間から降り注ぐ陽射しの感じからして、まだ夕方ではなさそうだが……。
総理はぐぅと声を漏らし、膝に手を当て立ち上がった。森の中は涼しいがあくまでそれは比較的に、の話。水色の麻のシャツは背中に大きな楕円形のシミを作り、土で薄汚れた白のチノパンの尻の部分にも汗をかいている。
「体力は……あるつもりだが……ひぃ、ふぅ、国会にルームランナーを導入することを……検討しないとな……ははは……」
と、ひとり、冗談でも飛ばさなければやってられない。不安と蝉たちの声で気が狂いそうになるのをひしひしと感じていた。
総理は山道を歩き続け、その間もひとり、喋り続けた。無計画、無意味……でもなかった。ついに人と出会ったその時、総理の口はなめらかに動いた。
「あぁ、いやぁ、まさに神のお導き。救いの手というのはあるのですねぇ。この近くの方ですか? いやぁ、乗っていたヘリが墜落してしまいましてねぇ」
「……神の導き? おめぇ、宗教狂いか?」
「え、ああいえ、そういうわけでは、宗教狂いって、ははは……あの、あなたは」
「おれはトダというもんだ」
「トダさんね、いやぁどうもどうも。それであなたのお家はどちらに」
「……あのなぁ、おめえ、人の名前を聞いといて自分は名乗らねぇってなんだ? そもそもまず、おめえから名乗るべきじゃねえか? おれが優しいから答えてやったけども」
「え、あ、ああ、すみません……え、あれ、あはは、えーと、お気づきになられてませんかな? ええと、ゴホン。どうも、この国の総理大臣やっている者です」
ニカッと笑う総理。だが『ああ、そういやあんたは!』という反応を期待していただけに、トダのその怪訝な顔に総理は戸惑った。
「え、あの、本当に総理なんですけど」
「ソウリさんね、ソウリ。で、なんだ、うちがどうとかって。まあ、おれはちょうど村に戻るところだったから、一緒に来るか?」
「お、おお、村! ええ、ええぜひともお願いします」
オッタテ村というらしいその村は二人が山を下り始め、およそ十分ほどで辿り着いた。
聞いたことがない名であったが何とも思わなかった。それも当然だ。総理大臣であるが村どころか、県の名前と配置を訊かれすべて正しく答えられる自信はないのだから。
「ここが村の入り口だ。あそこにいるのはオオキさんだ。まず――」
「ああ、どうも。あ、それでトダさん。聞きそびれたのですが携帯電話などは、お持ちでない……ですよね?」
「あぁ? うちには電話自体ねーよ」
「え! その、オオキさんもですか?」
「ああ、だーれも。でもミトの婆さんのところにはあるかもしれん。村唯一の雑貨屋だ。あとは村長のところか。まあ、会えるかどうかはわからんがな、忙しい人なんでなぁ」
総理はフンと鼻で笑い、トダとオオキが怪訝な顔をすると慌てて笑顔を取り繕った。
忙しい? 会えるかどうかわからない? 向こうから会いたいと言い出すだろうが。こっちは総理大臣だぞ。と、総理はそう思ったが、トダと何か話しているあのオオキという男もまた総理を見てもなにもそれらしい反応をしていないことから総理は少し不安を覚えた。
相当な、ど田舎。いや、もしかしたら土汚れで顔がよく見えないのかもしれない。
そう思い、総理はシャツの裾をまくり上げ、顔をゴシゴシと拭った。シャツについた土汚れは汗で色濃く、目立った。
「おい、ソウリ」
「え、あ、はい」
馴染みのない、というか初めて耳にする呼び名に総理は戸惑った。
「金あるか?」
「か、金? えっと、あ、財布! 財布がありました! ははは。え、でも、なんで……。お礼とか案内料とかですか?」
「ちげぇちげぇ、村に入るには金が要るんだ」
「あぁ、え、まあ、いいですけど……。あ、でも小銭が……カードは使えまーせ……んよね。はい。あ、じゃあお札で。お釣りはもらえますか」
「チッ」
オオキが総理の手からお札をふんだくると小汚い紺のウエストポーチから取り出した小銭を総理の手のひらに叩きつけるように渡した。
疲労で抗議するのも面倒だった総理は黙ってそれを財布にしまい、村の中へと入った。
「それでトダさん。雑貨屋さんというのは?」
村の中に入り安心したのだろう、そう口にした総理の中に安堵と疲労が込み上げてきて、どこか夢心地に。頬が緩んだ。
雑貨屋。つまり物流があるというわけだ。案外、すぐに迎えが来るかもしれない。早くこんな村から……と、自分の中にあるこの村、それにトダに対する嫌悪感を自覚した総理は、キュッと顔を引き締めそれが滲み出ないよう隠すことに努めた。
「あそこだ。と、ああ、駄目だよまったく」
前方を指さしながら振り返ったトダが総理を見て、ため息をつく。
「はい?」
「通行税を払わないと」
「通行……税?」
「そこの箱。ほら、さっきのお釣り出して……よし、これでいい」
トダが総理の手から取った硬貨数枚を木の箱の中に入れると、乾いた音がした。
そして財布をポケットにしまう総理を目にすると、また顔を顰め「ああ、すぐしまうなよ。まだいるんだからよ。たくっ……」と吐き捨てるように言い、ついでとばかりに地面に唾を吐いた。総理は訊ねる。
「まだって、え、まさかその各家の前にあるのはポストじゃなく」
「そう、通行税を収める箱だよ。料金はわかったろ。ほら、いくぞ」
郷に入っては郷に従え。総理は自分にそう言い聞かせ、木の箱に小銭を落とし続ける。そして、件の雑貨屋に通行税を収め、ふぅと息を吐いた総理は、もう一つ箱があることに気づいた。
「……あれ、これ」
「ああ、そっちの箱は入店税だ」
「……はい」
ガラガラと、雑貨屋の引き戸を開けると上にかかっていた蜘蛛の巣がちぎれたようで、糸がフワっと舞い上がり、蜘蛛が慌てて逃げていくのが見えた。
中に入る。小さな砂利を踏んだ音がよく聞こえた。
「あれがミトの婆さんだ」
「あ、ああ、どうもどうも。総理大臣です」
薄暗い店内。濃い赤色の平たい座布団はほとんど黒く見えた。その上で正座するそれはまるで牙のないセイウチのようだと総理は思った。
「……どうもぉ」
厚ぼったい瞼は開かれないままであったが眠っていたわけでも、死んでいたわけでもないとわかり、総理はホッとした。
しかし、なによりも総理を安心させたのは、ミトさんの隣にある薄ピンク色の大きなダイヤル式の電話であった。
年代物の特殊簡易公衆電話。硬貨投入口があった。
「ええと、ミトさん。電話を使わせてもらえますか?」
「どうぞ」そう言いスッと差し出した手。それは電話に向けたものではなく総理に対してだったので、まさかと総理は思った。
「……通信税」
「いや、それって税って言いますか? 電話代って、ああそれは別にあるんですか。硬貨を入れる場所がありますもんね……。はいはい、いいですよ」
無駄な議論は国会だけで十分。総理は素直に金を払い、そして受話器を手に取った。が……。
「あ、あの、これ、使い方あってますよね? 何も音がしないんですけど……」
「ひひひっ。壊れてましたかねぇ」
「ははははっ」
笑う二人。総理は大きく息を吐いた。本当は怒鳴り散らしたかったがそれで済ました。大丈夫だ。不敬な輩には慣れている。マスコミというな。
頼みの綱は彼ら、この村しかない。そして、ショーケース型のこれまたレトロな雰囲気の冷蔵庫が目に入った。総理は体の渇きを自覚すると内側から締め上げられるような喉の痛みを感じた。
「ふぅー、あの、水をいただきますね。はい、代金」
「ちょっと」
「はぁ……まさか冷蔵庫を開けるにも税金ですか?」
「いや、消費税」
「ああ、それはそうだ」
その後、総理は退店税なるものを支払い、そしてまた通行税をことごとく取られ、トダと共に村長の家の前に来た。
「本当に村長は電話を持っているんですかねぇ」
総理は厭味ったらしくそう言った。税金ではあるがここまでしっっかりと金を払ったことで、どこか気が大きく、お客様気分になっていた。
「さあな」
「さあなって……まあ、いいですよ。入りましょう。ああ、ここもですか。入店、いや、入室税か、もうなんでもいいや……」
「お疲れのようですなぁ」
硬貨を木の箱に入れた瞬間、家の戸が開き、出迎えた村長がそう言った。まるで金を入れたタイミングを見計らったかのようだと総理は思った。
「どうも、村長のアンノです」
「アンノさん……どうも」
総理大臣です。という気は失せていた。どうせこいつも知らないのだろうと。
「ソウリですよね?」
「えっ! 私のこと知っているんですか!? はははは! なんだもう、さすがは村長ですなぁ!」
「今さっき、ミトさんから電話で聞きました」
「ああ、そう……いやあの店、他に電話があったのかクソッ。と、失礼。ではあなたも電話をお持ちなんですね? よければ貸していただけないですか?」
「ああ、いいですとも。玄関の壁にあります。でも」
「ああはいはい。通信税ですね。どうぞ、お釣りありますか? はいどうも。では……いや、これ、電話じゃないでしょ!」
「ひひひひ。伝声管というやつですわ。よその家とパイプで繋がっていましてな。まあ、聞こえは悪いんですがねひひひひひっ」
アンノはケタケタと笑った。トダも後ろで追従するように笑う。
総理はフンと鼻から息を吐き、くるりと体の向きを変え、一歩踏み出す。
「じゃあ、もう結構です。失礼します。お世話様でした」
「ああ、電話ならこの奥、ほら廊下にありますよ」
「えっ、なんだもう。じゃあそれをお貸しくださいよ」
総理はまた向きを変え、笑顔を作り、家に上がろうとした。が、それをアンノが手で制した。
「あ、待って」
「はい?」
「入室税」
「いや、さっき払ったでしょう」
「でも一度、家から出たから」
「すぅー……はい、どうぞ。じゃあ」
「あ、足りない」
「はい? さっきと同じだけ払いましたけど」
「増税されたので」
「……この、わずかな間にか」
「はい、国民から搾り取ることに関しては仕事が早いので」
「皮肉か?」
「なんのとことやらひひひひひっ」
「はぁー……いくらなんでもこの村は異常だ!」
「そう言われましても、何せ国に納める税金が多いものですからねぇ」
「ふん、そんなこと言って、あんたが搾取しているんじゃないか?」
「ほう、身に覚えがあるからそう思いになるのですか?」
「どういう意味だ」
「さあ、なんでしょうね。ささ、お支払いください」
「……ああ、はい。これで文句ないだろう」
「あと」
「なんなんですか……」
「腕時計税と眼鏡税も」
「眼鏡……ああ、胸ポケットにあるが。いや、持っているだけで税を取るのか! それに腕時計なんて壊れているんだぞ! あんた、自分をポルポトか何かだとでも思っているのか!?」
「決まり事ですのでねぇ。ただ税を納めていただくだけです。持っている者はね。死ぬまで。いや、死んだ後も払ってもらいましょうかね。墓石税だひひひひ」
「あんた……狂って、いや、いい。ほら、払うよ! 釣りはいらない! ついでにこの腕時計もやるよ! 電話借りるぞ! ああぁぁぁ! これ、線が切れてるじゃないか!」
「はい。飾りですので。使えるとは言ってませんよひひひひ」
「あぁぁぁぁぁぁ! もういい、歩いて道路まで行く! そうすれば話の通じる人に会えるでしょう! あなたたちと違ってね!」
「お帰りの際も通行税をお支払いくださいね。トダさん。お見送りしてね。あ、増税されましたのでお気を付けください。ひひひひひ」
「いいや、払わん! 大体方角はわかる! 家の前の道を通らなければいいんだろう!」
「ああ、裏から行きますと……」
「あぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「肥溜めが、ひひひひひひひっ」
「はははははははっ!」
「ついでに用を足されてはいかがですかー? その税もいただきますがねぇいひひひひひひ」
「くっせぇくっせぇ。不潔税もかけましょうや、ははははははっ!」
「税とは……そんなものでは……」
肥溜めの中でもがく総理。臭気と蝉の鳴き声、そして彼らの笑い声が総理を取り巻くようにぐるぐると。総理は目眩を起こし、口をワナワナ震わせた。嗚咽と唾に混じり、出た言葉もまた、笑い声に掻き消されていく……。
「総理、総理?」
「ん、ああ、なんだね?」
「いえ、お帰りなさいませ、と。ご無事で何よりです」
「ああ……」
国会議事堂へ向かう車内にて、虚空を見つめる総理に秘書官は不安そうな顔をした。そして、精一杯明るい声で総理を褒め称える。ひとり、山の中を彷徨い続けてよく自力で生還しましたね、と。
総理はそれをぼんやりと聞く。それを見て秘書官は、おずおずと申し出る。
「総理……事故からまだ一週間しかたってませんし、やはりもう少しお休みになられた方が……国民もきっと心配して」
「……いだ」
唇を震わせる総理。秘書官は「はい?」と聞き返した。
「……増税だ」
「総理?」
「呼吸税を導入にしよう。二酸化炭素、温暖化問題に結び付ければいい」
「え、あの」
「サラリーマンの税金を見直し、退職金に増税。あと失業手当にも課税し、ああ、そうだ自動車税があるのだ。自転車税に歩行税もあっていいだろう。美男美女にも税金を。賢い者にも税金をかけよう。恵まれているからな。ああ、それから運動ができる者も、あ、じゃあ運動ができない者、顔が醜い者にもかければ完璧じゃないか? 平等平等。漏らしがないようにな」
……あのあと、あの村について調べさせたがその場所すら分からなかった。幻覚だと周りから疑いの目を向けられたがあれは確かに存在する。奴らの醜悪な顔、臭い。この恥辱と共に忘れられるはずもない。
……復讐してやる。この国のどこかにいる以上、増税すれば奴らにも少なからず影響があるはずだ。そうとも、どこに隠れようともすべて丸ごと焼き払ってしまえばいいのだ。
「で、ですが総理」
「はははははははははは! 増税だ増税だ増税だ増税だ増税だ!」