22,切り開かれた未来へ
就寝中、久晴は不思議な夢を見た。
それは、蟻のような虫人間の久晴が地獄のような灼熱の大地を歩き続けているところから始まる。
生気の全てを奪い取られているというのに、虫人間の久晴は天までそびえ立つ山脈に焦点を合わせ歩き続けている。
目指す山脈は、灼熱に熱せられているのか赤黒く染まり地獄を彷彿させる。
極限状態の久晴は山脈を目指して進むのだが、歩く度に遠退くような錯覚に襲われる。
(遠い……、果てしなく遠い……)
いつ倒れていてもおかしくないというのに、一歩一歩と歩き続ける久晴。
それでも、山脈は歩み続ける久晴から離れている。
まるで、久晴の苦しむ姿を楽しんでいるようにも見える。
そんな中、歩き続ける久晴に光の階段が突然姿を現す。
久晴が、光の階段に一歩足を踏み入れると何故か体が軽くなる。
さらに、光の階段を上る度に奪われた生気が戻ってくる。
そして、これまで遠退いていた道のりが歩く度に近づいている。
久晴が見上げたら、女神となった真理香が導くように光の階段を作り上げる。
その階段を歩き続けると、温かな光に包まれる久晴であった。
久晴が目を覚ますと、周囲は真っ暗闇の寝室で隣には真理香が幸せそうな寝顔を見せスヤスヤと眠っている。
(不思議な夢だ……。真理香さんが俺を導いているようだ……)
と思う久晴は、真理香の寝顔を見ている。
カレンダーは一月、年が明けたばかりで久晴は年明けの実感がわかない。
二月二日の休日、久晴は玄関を出て真理香を見送る。
臨月を迎えた真理香はタクシーに乗ろうとする際、
「行ってきます、久晴さん。必ず、戻ってくるから」
と言って心配そうな表情の久晴に笑顔を見せる。
真理香を乗せたタクシーは産婦人科へ出発すると、残された久晴はその場で立ち尽くすこととしか出来なかった。
久しぶりの一人っきり、普段なら開放感で自分の趣味の世界に浸る久晴。
だが、真理香の姿が幻影として久晴の目に映り何をしても寂しく感じる。
まさか、一人でいるのが辛いのは今まで経験したことのない久晴。
今は、真理香が安心して戻ってくることを祈り寂しい表情の久晴は、
「たしか、出産予定日は翌日だったよな……」
と呟きカレンダーを静観する。
まさか、思わぬ朗報が待ち受けているなんて……。
翌日の昼間、仕事中の久晴のスマホに一通の電話が入ってくる。
仕事中の久晴は電話に出ると、相手は真理香が今入院している産婦人科の事務員。
「多田野様、奥様に出産の兆候が見られます!」
と事務員が伝えると、驚きの表情で手帳を確認する久晴は、
「えっ、ちょっ、マジですか? 仕事が終わりましたらすぐ向かいます!」
と尋ね疑いを隠すことが出来ない。
産婦人科の事務員は、動揺を隠せない久晴に経緯を事細かく説明する。
今、新たなプロジェクトのプレゼン資料を制作している最中で動けない。
ところが、久晴の様子を見た女上司が気づいて、
「多田野さん、ここは私達に任せて早く病院に行きなさい!」
と命令口調に言って強引に久晴を病院へ行かせる。
「かっ、課長、プレゼンの資料は未完成で……」
と言って躊躇する久晴は、周囲を見渡し同僚のメンバーを伺う。
すると、唯一宣伝一課に残った咲良が笑顔を見せて、
「大丈夫、教え子達を信じて行っちゃいな。それに、初めて子供でしょう」
と言って笑顔で久晴を送り出す。
今の咲良は宣伝一課の姉的存在で、すっかり大人の雰囲気を漂わせている。
咲良の言葉に反応して、同僚達は笑顔で久晴を送り出す。
課長や同僚の気遣いに久晴は思わず深々と頭を下げ、
「すっ、すみません! お言葉に甘えますっ!」
と言い伝えると、スーツ姿で真理香が今入院している産婦人科に向かった。
三十分後、産婦人科に到着した久晴は窓口で問い合わせる。
「ただ今、奥様は分娩室で出産を控えています」
と看護師が説明して、分娩室の扉の前まで久晴を案内する。
案内された久晴は、分娩室の無機質なベンチシートに腰を下ろす。
扉の向こう側では、真理香が新たな命を誕生させるため言い表すことの出来ない苦しみと今闘っている。
久晴は今出来ることは、大人しく神に祈ることのみ。
(どうか、真理香が無事に戻って下さい……。そして、我が子に合わせて下さい……)
と心の中で、必死になって神に祈り続けていた。
先日、映画の主催者側にオーディション用のCGを送って結果が控えている。
オーディションの合格通知よりも、出産と戦っている真理香が一番心配の久晴。
出来れば居合わせたい、出来れば声を掛けたい、だが分娩室前で待つことしか出来ないことにもどかしさを感じる久晴。
時間だけが無情にも過ぎていき、ベンチに座るだけの久晴は大空の向こうにいると思われる様々の神に祈り続ける。
下手したら、地獄の閻魔様に祈っているかもしれない。
祈り続けて一時間が過ぎようとした頃、幻聴ではない産声が久晴の耳に届く。
間違いなく、この世に新たな命が降り立った証の産声。
久晴は、産声を聞いて安堵すると同時に真理香の容態が気になり不安になる。
分娩室から姿を現した医師は、不安の表情を見せる久晴に告げる。
「おめでとうございます、元気な女の子ですよ。母子共に健康です」
その一言で、緊張の糸から解放された久晴は安堵の表情を見せる。
医師からは生まれてきたのは女の子だと告げられたが、生まれた赤子の性別よりも真理香が無事に戻ってきたことに居ても立ってもいられない久晴は、
「早く、早く、真理香さんに合わせてくださいっ!」
と訴え医師に懇願し逸る気持ちを抑えることが出来ない。
プロポーズして嫁としてきた真理香、映画のCGクリエイターのオーディションの応募で悩んだとき背中を押してくれた真理香。
そして、新たな生命を与える大役を務めた真理香。
この後、子育てという名の大仕事が待ち受けているが今は真理香の側に居たい。
逸る気持ちを抑えきれない久晴を見た医師は、
「出産が終わったばかりです。しばらく、お待ちください」
と言い残し分娩室を後にする。
それから、真理香に面会が許されたのは出産が終わって一時間後。
病室を訪れた久晴は、出産が終わって疲れた真理香を見て無意識に歩み寄る。
ところが、真理香は手でストップの合図を出す。
「まずは、先に赤ちゃんを抱かせて。久晴さんに、紹介したいから」
と言って、看護師の手を借りて赤子を自分の手に抱く。
生まれたばかりの赤子は、真理香の腕の中でスヤスヤと寝息を立てて眠っている。
「はじめまして、この人が私の自慢のパパですよ」
と言って真理香は、夫である久晴を呼び寄せる。
ようやく、真理香の側に来ることを許された久晴はベッド側の椅子に腰を下ろし目線を合わせると、
「よく頑張ったね、真理香さん……。本当にありがとう、新たな命をこの世に与えてくれて……」
と優しく声を掛け、抱き締めたい思いを必死に堪えている。
「でも、まだ頭の中は真っ白……。我が子を抱くと、誕生させた実感が……」
と言う放心状態が続く真理香は、今にも溢れ出しそうな涙目で久晴を見詰める。
その時、頑張った我が子を褒める父親のように真理香の頭を撫で微笑む久晴。
頭を撫でられた真理香は、安心したのか穏やかな表情を見せる。
久晴は、スマホで自分の家族や真理香の家族に出産が無事に終わったことを報告。
先に来たのは真理香の家族で、祖父の遼太郎と真理香の両親と二人の兄。
尚、遼太郎は今年の三月末で会長職を退陣することが決まったばかり。
遼太郎は、真理香が今抱いている赤子を見て、
「まさか、ひ孫を見ることが出来るなんて。夢を叶えてくれて、二人ともありがとう」
と言って労いの言葉を掛ける。
真理香の父は、四月から副社長から社長に昇格することが決まった。
真理香の父も、赤子を見て嬉しそうに労いの言葉を掛けてくる。
そこへ、久晴の家族が姿を現す。
その時、久晴は母がいないことに気がつき自分の父親に問い掛ける。
「もう縁を切った。あの毒女、生活費や仕送りを好き勝手に使いやがって」
と久晴の父親が、苦虫を噛み殺すように怒りを抑えて久晴に話す。
なんと、母親は生活費や仕送りをブランド物のバックや高額なエステ通いに加え、ホストにまで注ぎ込むなどの贅沢三昧していたことを兄の口から話す。
「……と言うわけで、今のところ両家の間で離婚調停中。昔、浪費癖が酷く母方の家族も手を焼いて……。結婚してからは、浪費癖が治ったと思っていたが……」
と久晴の兄は困った顔で、言いにくい現状を弟である久晴に話した。
さらに、自分の母親が専門学校時代の進路相談で就職を率先させた首謀者だと自分の兄から聞かされショックを受ける久晴。
どうやら、携帯やスマホに仕送りを要求したのは自分の使えるお金を手に入れるためと言わなくても何となく分かってきたからだ。
「仕送り分は責任持って返済する。お前達、もう仕送りしなくていいぞ」
と久晴の父親は、申し訳なさそうな表情で息子二人に深々と頭を下げる。
見かねた遼太郎は、久晴と久晴の家族を宥めるように説得する。
「今は家庭の問題を持ち込まないでくれ。せっかく、真理香がお腹を痛めてひ孫を産んだというのに」
久晴と久晴の家族は遼太郎に注意され自分達の暗い話を控え、再び出産という大仕事を終えた真理香に労うのであった。
しばらくして、出産の大仕事を終えた真理香のいる病室内では両家の微笑ましいお祝いムードの雰囲気が今も続いている状態。
そんな中、久晴の胸から振動が伝わりスマホを取り出すと英文のメールが届く。
一応、「おめでとう」のところまでは自力で訳せるのだが後が分からない。
もしかしたら、何かのウイルスか送信したメールのエラーメッセージと思い申し訳ない表情で真理香に見せる。
すると、真理香は笑顔で翻訳したメールの内容を久晴に簡単に伝える。
「久晴さん、CGクリエイターのオーディション合格よっ! これで、世界デビューの足がかりが出来たじゃない! おめでとう!」
応募したのは久晴だというのに、自分が受かったように大喜びする真理香。
なんと、映画のCGクリエイターのオーディション合格に驚きで実感が沸かない久晴はどのような顔をすればいいのか分からない。
そこへ、久晴の父親が周囲を気にすることなく猛反対。
「また、くだらん遊びでっ! どこの馬の骨かは知らぬが、ワシが説教してやるっ!」
すると、真理香の兄二人が久晴のスマホを見て著名な映画監督だと気付く。
「この人、数々の映画をヒットさせアカデミー賞の受賞歴がある大物の映画監督だよ。しかも、直筆のサインと写真が入っているから本物に間違いない筈だけど」
「大物の映画監督に、「馬の骨」と言うのは無知にも程があるのでは」
真理香の兄達の説明で、頑固だった父親の表情が驚きで信念が崩れ始める。
さらに、久晴の背中を後押しするように遼太郎が父親に説教する。
「時代は変わり続けているというのに、自分の経験や考えを息子に押しつけるのは心が狭いですぞ。もう少し、視野を広げて見ることが出来ないのかね」
頑固者である久晴の父親だが、遼太郎の説教には軟化せざる得ず少し困惑する。
そんな中、真理香の父親である現副社長からネタバレの発言をする。
「真理香の選んだ男に、このような才能があるのは次期社長として喜ばしいことです。事実確認の上、全面的に彼をサポートしますのでご安心を」
真理香の父親の一言で、久晴や他の真理香の家族の顔が一瞬凍り付いてしまう。
当然、真理香が自分の父親である現副社長に怒った顔で睨み付ける。
真理香の怖い顔を見た現副社長が、周囲を見渡し秘密事項だと思い出し気まずい表情を見せるが手遅れなのは言うまでもなかった。
その瞬間、久晴の父親と兄は結婚相手が次期社長令嬢と知り驚き問い詰める。
すると、久晴は困った表情で自分の家族に正直に話す。
「真理香さん、普通の生活に憧れて……。もし、家族にバレたりしたら母さんの金の無心の対象にされると思って……」
久晴の説明で、母親の金の無心から守る手段として伏せていたことを知る。
もし、次期社長令嬢と結婚したと久晴の母親が知ったら必要以上に金の無心をして派手な散財していたことは火を見るより明らか。
幸いにも、久晴が妻である真理香の素性を知られること無く離婚したことに胸を撫で下ろす久晴の父親は、
「まさか、真理香が次期社長令嬢とは……。苦労を掛けたな、久晴……」
と言って、息子である久晴に申し訳なさそうな顔を見せる。
だが、久晴のオーディションの合格通知を信用することは出来ず、
「最近、変なメールやSNSでの詐欺が横行していると聞く。これが、本物だと確信が出来るまで信用しないぞ」
と言い残し久晴の兄と共に真理香の居る病室を後にする。
久晴は、自分の父と兄の後ろ姿を黙って見送ることしか出来なかった。
そんな中、大騒ぎだというのに真理香の腕の中でスヤスヤと眠る赤子。
「まるで、産まれたばかりの真理香を思い出すわね。病室で騒いでいる中、こうやって眠っていたわね」
と真理香の母親が話し思い出すと、遼太郎も真理香の赤子を見て、
「そうだな、眠る真理香を見て大物になると言ったな」
と言って、ほのぼのとした表情を見せる。
真理香は恥ずかしがり、久晴を含めた真理香の家族は新たな命を喜ぶ。
二月三日、多田野家に長女が誕生。
六日後、タクシー降りてきた真理香は赤子を抱いて幸せな笑顔。
自宅の前では、久晴が笑顔で帰ってきた真理香に声を掛ける。
「お帰り、真理香さん。本当に帰ってきてありがとう」
すると、入院する際に言ったことを思い出した真理香は、
「ただいま。言ったでしょう、必ず戻ってきますって」
と返事して微笑むと、真理香が臨月を迎えたころから思い返す久晴。
入院前、タクシーに乗る真理香を見て不安そうな顔をしたことや、再び一人になって寂しい気持ちを久しぶりに体験したこと。
そして、病室で真理香に再会して安堵したこと。
真理香が帰ってきて一安心の久晴だが、真理香は新たな家族の一員を連れてきた。
間違いなく、久晴と真理香との愛の結晶である赤子である。
自宅に入ると、真理香が帰ってきて怒られないよう久晴は部屋の掃除を徹底。
だが、部屋には赤子のためのベビーグッズが一室を占拠している光景に改めて子育てが始まることを実感する真理香。
「今度は、俺が真理香の子育てをアシストする番」
と言って久晴は、子育てを手伝うことを宣言する。
真理香は、子育てを手伝うと言った久晴に感謝しながらも病室での一件を思い出し妙に気になり久晴に問い掛ける。
「それより、合格通知が来たから映画会社からオファーが?」
心配そうな真理香を見た久晴は、気にする素振りを見せず笑顔で返答する。
「それは、お義父さんが事実確認するまでは大丈夫」
久晴の返答が心強く思えた真理香は、
「子育ても、夫を支えるのも、妻である私の勤め。それに、心強い先輩もいるから」
と言ってスマホを久晴に見せる。
不思議に思った久晴は、気になって真理香のスマホを見る。
すると、従姉妹の真由子や里中の妻のアドレスが登録されている。
一体、何処でアドレスを手に入れたのか謎の久晴は質問すると、
「秘密よ、これだけは。女のネットワーク網、以外と広いのよ」
と真理香は言うだけで教えようとしない。
やはり、真理香には敵わないと思った久晴であった。
二週間後、真理香が戻ってからは子育てに悪戦苦闘するも娘の成長を楽しむ久晴。
久晴の父親が宣言通り、仕送り分が全額返済され経済的に負担が軽くなった。
勿論、返済の仕送りは子供の養育費に充てることは真理香と相談して決めた。
初めての子育て、父として何が出来るのか仕事を熟しながら真理香と共に家事を熟す久晴。
そんな中、久晴のスマホから電話が掛かってくる。
電話に出ると、相手は真理香の父親からだ。
「久晴君、大至急で応接室に来てくれ! 事実確認したら、米国から来日してきた映画監督と主催側のプロデューサーが訪問してきた!」
なんと、オーディションの主催側である映画監督とプロデューサーが会社に訪問。
その話を聞いた瞬間、上司に事情を説明して指定された応接室に向かう久晴。
既に、応接室には育休中の真理香が応接室のソファーに座って待っている。
どうやら、真理香の父親が通訳として会社に呼び寄せたようだ。
無論、産まれたばかりの我が子も連れてきている。
「真理香、育休中で申し訳ない」
と言って頭を下げる副社長に、真理香は気にする素振りを見せなかった。
そんな中、米国から来たというのに、
「ご心配なく。ある程度、日本語を話すことが出来ます」
と映画監督が流暢な日本語で話してきて驚く久晴。
もちろん、来日した目的は久晴に来年公開を予定している映画のCG制作の依頼。
依頼内容を聞いた瞬間、合格通知が本物である事を説明しなくても十分理解する久晴。
当然、来社してきた久晴の家族も本物の映画監督を間近にして疑う余地はなく、
「久晴、今回はワシの負けだ……。皆様、久晴のことを宜しくお願いします……」
と言って息子である久晴の才能を認めるしか無かった。
そんな中、赤子の泣き声が突然聞こえて真理香が我が手に抱き寄せあやす。
映画監督が赤子に関して説明を求められたとき、
「実を言うと、妻の出産を終えた同時に合格通知を受けまして……」
と返答して恥ずかしがる久晴は赤子をあやす真理香を見守る。
久晴の説明を聞いた映画監督は、真理香の赤子をあやす姿に微笑ましく見守り、
「我々として、貴方達の家庭環境を壊さないよう配慮します。ご安心を」
と言って久晴に握手を求めてきた。
動揺する久晴に、真理香は笑顔で握手に応じるよう促す。
「海外では、握手は信頼の証なの」
と真理香が説明すると、映画監督の握手に久晴は手を差し伸ばし応じる。
同時に、視野の狭さを痛感した久晴の家族は肩を落とし立ち去る。
立ち去る自分の父と兄の背中を目で追う久晴は、敗北を認めて立ち去る闇落ちした自分と重なる。
同時に、先日見た夢が正夢である事を実感するのであった。
翌年の年始、公開された映画が世界主要都市で上映され大ヒット。
勿論、映画の登場したCGの中に久晴が制作した作品がメインとして映っている。
その後、メイキング動画で久晴がインタビューを受ける姿が動画で配信。
当然、動画配信に目が入った業界の大手から久晴の在籍する会社に問合せが殺到。
これを受け社内会議を開いた結果、創作物を専門に扱うクリエイター部門の新設が満了一致で決定し久晴は専属クリエイター第一号となる。
久晴は、子供の頃から憧れていたCGクリエイターに手が届いた瞬間だった。
今の久晴の業務は、業界のオファーに対応するべくCG制作に取り組む毎日。
それに伴い、これまで受け持っていた宣伝一課のグラフィック担当は新卒で入社したばかりの将介が引き継ぐことに。
久晴の活躍を知った久晴の兄が電話で、
「才能があるなら早く認めるべきだった。悪いことした、遠回りさせてしまって」
と言って労いの言葉を掛ける。
久晴の兄の話では、離婚した母親に操れたことに加え自分の視野の狭さを知った久晴の父親は頑固者という名の毒気がすっかり抜け丸くなったそうだ。
一方、離婚して帰郷した久晴の母親は隔離された生活を強いられている。
四十代半ばの若さの魔法は一年足らずで失い、今は年相応の老婆へと変貌を遂げているという。
「……親父からは、母さんから電話が掛かっても絶対に出るなって」
と兄から注意されたが、元から関わる気が無い久晴。
今は、妻である真理香と共に家族の新たな形を模索しながら構築中。
そんな中、久晴に更なる嬉しい出来事が長女誕生から二年の月日が過ぎた頃。
五月五日のこどもの日、真理香は双子を出産。
しかも、男の子と女の子の二卵性双生児。
真っ先に産婦人科の病院に駆けつけた久晴は、
「さすがに、二人同時に抱くのは無理があるだろう」
と言って長女の手を取り真理香が横になるベッドに歩み寄る。
真理香は、出産で疲れ切っているというのに笑顔で久晴に話し掛ける。
「今までの人生、こんな奇跡的な嬉しいこと初めて……。しかも、自分で誕生させたことに誇りに思えてくる……」
久晴は微笑み、頑張った真理香の頭を撫で褒めてあげる。
「見てごらん、君達のお姉ちゃんだよ」
と言って長女を抱き上げる久晴は、産まれたばかりの双子を見せてあげる。
「久晴さん、産まれたばかりで目が開いてないというのに……」
と言って微笑む真理香だが、長女は自覚があるのか赤子に笑顔を見せる。
その後、前配属先の宣伝一課のメンバーが真理香の病室に面会にやってくる。
久晴の妻が社長令嬢だと初めて知って皆驚くが、まとめ役の咲良が場を宥めて落ち着かせると久晴と真理香を祝福する。
しばらくして、元会長の遼太郎ら真理香の家族と久晴の家族が姿を現す。
「まさか、双子が生まれるなんて嬉しい限り。なんだか、長生きできそうだ」
と言って、穏やかな笑顔で出産を祝う遼太郎。
後に、近衛家から真理香の事をよく知る家政婦の一人が志願してベビーシッターとして出向くのは後の話。
そんな中、久晴のスマホに母親が「孫に会いたい」とDMで入ってくる。
当然、皆一致で「つけ上がるから止めなさい」と言われ久晴は着信拒否。
その日を最後に、久晴の母親と関わることは無くなった。
だが、いつまでも嬉しいことは続くことは無く、真理香の双子出産から翌年三月某日に悲しい別れが突然訪れた。
近衞遼太郎、老衰により九十一歳で生涯を閉じる。
曇天の空、参列者の深い悲しみを表すように冷たい雨が降り続いている。
当然、久晴と真理香も子供達を引き連れ遼太郎の葬儀に参列している。
遺影の前で、悲しみに暮れる久晴は遼太郎との思い出を振り返る。
真理香と結婚を打診、オーディションの相談、全て遼太郎と深く関わっている。
もし、遼太郎が関わっていなかったら真理香との結婚することもオーディションのチャンスも無かったに違いない。
久晴は、遺影の遼太郎に深々と頭を下げ感謝を伝える。
真理香は、涙を浮かべて遺影の遼太郎に訴え動こうとしない。
「御祖父様、長生きできそうだと言ったのに……」
久晴は、悲しみに暮れる真理香を連れ遼太郎の遺影を後にする。
まるで、血の通った娘を連れて行く心優しき父親のように。
そんな中、ディスプレイか生前に撮影した遼太郎が映し出される。
「皆さん驚くと思うが、年が明けた頃に撮影を取り直している。もしも、これを見ているのであれば言わなくても分かるだろう。この度、近衛遼太郎はこの世から旅立つことになった」
と遼太郎の声が流れると、葬儀に参列した人達は悲しみに暮れる。
そう、これは遼太郎が残したお別れVTRである。
ディスプレイに映る遼太郎は、自分の死を悟ったのか何故か穏やかな顔である。
遼太郎は、集まった息子達や孫達を想像してお別れの挨拶をする。
そんな中、悲しみに暮れる久晴と真理香の番がやってくる。
「久晴君、真理香を貰ってくれてありがとう。真理香、ひ孫達の顔を見せてくれて心から感謝する。これで、先立たれた妻に良い土産話を持って行けそうだ」
遼太郎の声を聞いて、深い悲しみを必死に堪えるのに精一杯。
撮影の最後に、遼太郎は何かを察したのか最後に言い残す。
「皆さん、これはワシの新たな旅立ちだ。無理かもしれないが、暗い顔はせず温かい目で見送ってくれ。そろそろ、ワシは先に旅立った妻に会いに行くよ」
遼太郎のVTRが終わると、役目を終えたディスプレイは無情にも真っ暗になる。
遼太郎の葬儀が一段落し、悲しみに暮れる久晴と真理香は子供達を預けている別室に姿を現す。
深い悲しみで涙を流す真理香を見た長女は、心配そうな表情で手を伸ばし真理香の頭を撫でている。
久晴は、その光景に深く印象に残った。
だが、遼太郎という心の支えを失ったというのに悲しみに浸る余裕は無く、仕事と家庭に追われる毎日の久晴。
今の心の支えは、妻である真理香と三人の子供達。
そして、SDカードにコピーして貰った遼太郎のお別れVTR。
遼太郎のVTRを見る度に、自分が思い悩んで真理香に相談する度に、久晴は元気を取り戻し仕事と家庭を両立するのであった。
そして、真理香と結婚して十五年の大晦日。
開催中の冬コミ、企業ブースの特設ステージに声優陣と共に姿を現す久晴。
結婚してからは遠ざかっていたコミケ、制作スタッフの一人として参列するなんて嬉しい誤算の久晴は少し緊張している。
ステージの最前列には、真理香とコスプレした三人の子供達が座って久晴を見守る。
子供達が誕生してからは、再び髪を伸ばした真理香は眼鏡を掛けている。
久晴は気になって、髪を伸ばした理由を真理香に聞くと、
「今度は、久晴さんと共に子供達が立派に育つための願掛け」
と返答し明るく笑顔の中に自使命感が伝わってくる。
今の真理香は執行役員で、仕事と家庭の両立を図るべくリモートワークがメインで週一で出社して仕事を続けている。
真理香の行動力に頭が上がらない久晴だが、一家の大黒柱として負けずに仕事と家庭の両立に模索する日々。
ステージに上がる久晴は、真理香と三人の子供達に手を振って声援に応える。
真理香のアドバイスで、コンプレックスの鋭い目付きをマイルドにするため眼鏡を掛け、大勢の人達の好印象を与えるため一人称を「俺」から「僕」へと言い換えるよう今も意識している。
そんな中、久晴は過去を振り返ると自分の中に疑問に思ったことがある。
それは、真理香にプロポーズするとき髪の白い自分は誰の化身なのか。
今は、闇落ちした自分と共に姿を見ることはなくなった。
もしかしたら、これまで眠っていた積極的な自分なのかもしれないのか、背中を押してくれる人達が髪の白い自分を生み出したのかもしれない。
それでも、結果的に人生を好転する大きなターニングポイントになった。
真理香と結ばれることが無ければ、今の自分はいなかったに違いないと思う久晴。
今も、心の中で髪の白い自分に感謝する久晴。
オーディションの合格通知後は、闇落ちした自分と白い髪の自分が久晴の目の前に姿を現すことはなくなった。
家族に見守られる久晴は、トークショーで新作アニメのCG制作途中の苦労話や来場客の質問に答えられる範囲内で応対する。
そんな中、声優陣の一人が結婚生活を長続きさせる秘訣について質問してきた。
相手は、先日結婚したばかりの若手の女性声優。
その質問に、照れながらも自分なりの答えを話す久晴。
「簡単そうで難しいかもしれないですけど、結婚してくれた人の期待を裏切らないことかな。そして、悩んだとき向かい合って相談することではないでしょうか」
久晴の回答を聞いた真理香は、少し顔を赤くしながらも改めて惚れ直したように笑顔を見せる。
冬コミ閉会後、三人の子供達を挟んで真理香と共に帰路に就く久晴。
「せっかくだから、今日は何処かで食事にする?」
と久晴が提案すると、三人の子供達の反応は様々である。
長女と次女は喜んでいるが、長男だけは顔を赤くして恥ずかしがっている。
「やはり、無理やりコスプレさせたのが恥ずかしがったのかな?」
と言って真理香は、長男の反応を見て出会ったばかりの久晴と思い出を重ねる。
それに対して、真理香の血を受け継いだのか長女と次女の二人はコスプレを楽しんでいたのか再びコミケや関連イベントに参加したがっている。
久晴は言いたいのを堪え、長女と次女がどのような成長を見せるのか恐ろしくも父親として温かく静観する。
そんな中、大家族の見掛ける多田野家の五人。
大家族の中に見覚えのある男を見た久晴は驚き思わず呟いてしまう。
「あれって、里中だよな……? えっ、昔とイメージが全然違うような……」
なんと、里中は家族サービスで東京に来ていることを初めて知る久晴。
今の里中は、頬が痩せこけゾンビのように痩せ細り筋骨隆々の姿は面影すらない。
その一方、結婚した女性は元気が有り余っているのか若々しい装いで里中を飼い犬のように連れ回している。
里中の子供達は七人で、大半を占めているのは女の子。
「里中の奥さんから、徹底的な浮気防止をしたら大家族になったって」
と笑顔で話す真理香の顔を見て、改めて女の恐ろしさを痛感する久晴。
おそらく、従姉妹である真由子の仕業に違いないと想像が出来る。
「大丈夫、久晴さんは私達を裏切るようなことしないと信じているから」
と言う真理香は、久晴が浮気のような横道に逸れる人ではないと信じ切っている。
その一言でプレッシャーに感じたが、ステージで話したことを思い出し結婚した真理香を裏切ることが出来ないと思う久晴。
そんな中、真理香は何を思ったのか久晴と子供達に提案を持ち掛ける。
「みんな、食事が終わったら神田明神に行きましょう。私達の思い出巡り、子供達にも体験して欲しいから」
「そうだな、大晦日だしな。でも、願いが叶ったからくじは引かないけど」
と言う久晴は、神田明神でのくじ引きを今も恐れている。
真理香は、告白後のことを思い出しクスッと笑いながらも十分理解する。
そんな、散策しながら思いで巡りをする久晴と真理香と三人の子供達であった。
その後、久晴はCGクリエイターとして名が知られるようになると、彼のもとにアシストするスタッフや夢を追い掛けるCGクリエイターなど多くの人達が集まるようになる。
久晴は、手助けしてくれる仲間に感謝しながらCGクリエイターの仕事に勤しむ。
朝礼の場で、仲間達を集め久晴が自分の経験談を話すことがある。
「この職に辿り着くまで、様々な妨害や猛反発で遠回りしてきました。もし、良き理解者に出会っていなかったら今の自分はいなかったと思います」
勿論、良き理解者とは今は亡き遼太郎や妻である真理香の事である。
その言葉に、スタッフやクリエイターは久晴の苦労が言わなくて伝わってくる。
「ここでは、良きライバルでもあり励まして支え合う友人でもあります。皆さんが、ここで切磋琢磨することを僕は望みます」
と言って朝礼を締め括る久晴は、仲間達が協力して新たな作品に取り組む姿を見てディスプレイに向かうのであった。
勿論、家庭のことを疎かにはせず子供達に仕事風景を見学させたり休日になれば家族サービスをしたりしてコミュニケーションを図っている。
久晴の仕事ぶりに興味を示したのか、長男が自分の目に焼き付けている。
後に、久晴の長男が建築デザイナーになることは後の話。
真理香も、会社の役員として仕事をしながら育児に専念する。
仕事の都合上では近衛の苗字を名乗っているが、家庭に戻れば多田野の苗字を名乗り笑顔の似合う奥さんとして近所では評判となる。
勿論、近衛家からやって来た家政婦の協力があっての評判。
夫である久晴を支える良き妻として、子供達の良き母として、今日も邁進する真理香である。
これからも、家族を第一に考え協力し合う久晴と真理香であった。
それから、結婚四十年の節目を迎えようとしている頃。
風俗や浮気のチャンスが幾度もあったが横道には逸れず、寂しがり屋の真理香のことを配慮して何時も隣にいる友人みたいな夫婦生活を今も続けている久晴。
結婚四十年の節目を迎え、白髪だらけの老人となった久晴は隣の真理香と共に窓から見える風景をリクライニングチェアに揺られながら眺めている。
真理香も同様、年相応にも拘わらず気品が漂う美しい老婆となっていた。
現在、久晴は高齢を考慮し仕事のメインがリモートワークによる相談役で、余程の問題や重要な依頼を除き第一線から退いている。
かつて真理香が背中を押してくれたように、今度は夢を追う若手や中堅の背中を押してあげる番だと自分に言い聞かせ仕事上のアドバイスやサポート役に徹している。
真理香も、会社の役員を後進に譲り第二の人生を始めたばかり。
五月の中頃、窓からは雲一つない晴天で新緑が広がるのどかな田園風景で名画をリアルに再現したような景色。
子供達が独立して五年後、真理香と相談して東京郊外に引っ越した。
引っ越した理由は、交通の利便性と田園風景を彷彿させる景色。
新居のデザインを担当したのは長男で、一定の日の光を考慮して窓は北向きに設定している。
久晴と真理香は、新たに共通の趣味であるキャンプのような気分を楽しむ毎日。
そんな、窓から見える田園風景を楽しそうに眺める真理香に久晴は話し掛ける。
「真理香さん、実はお願いがあって話を聞いてくれないか?」
「どうしたの? 畏まった顔をして、あなたっ?」
と言って真理香は態と惚けると、久晴は気にすることなく思わず注意してしまう。
「その呼び方はズルいな。二人きりの時は、名前で呼び合おうと約束したのに」
「あら、そうでしたわね。まさか、久晴さんに言われるなんて私も年ね」
と真理香は、ゆとりのある笑顔で久晴との会話を楽しんでいる。
その時、真理香の笑顔を見て手の内に踊らされていると悟り頭の上がらない久晴。
そんな中、久晴は後先のことを考え真理香に約束事を話し掛ける。
「僕より先に、あの世へ旅立たないでおくれ。天国で、君を迎える準備がしたいから」
すると、真理香は穏やかな笑顔で久晴に返事と問い返しをする。
「簡単そうで難しいけど、出来るだけ努力します。その代わり、私が先に旅立ったら子供達のために少しでも長生きして下さいね。久晴さん」
真理香のお願いに、少し困った顔をして久晴は返事する。
「これも、簡単そうで難しいな……。でも、出来るだけ頑張りますよ。真理香さん」
会話する二人の姿は、まるで結婚して間もない頃の二人と重なって見えた。
そんな中、大人になった三人の子供達が家族を引き連れ訪問してくる。
今日は、久晴と真理香が結婚して四十年目のお祝いで家に集まっていた。
賑やかになった新居では、メインである久晴と真理香を中心にパーティーが開催。
その時、円満の秘訣を質問されると久晴と真理香は笑顔で答える。
「それは、隠し事せず最愛の人と二人で向き合って困難を乗り越えること」
その答えに、大人になった子供達は意外な難題だと気がつき困った表情で自分の配偶者と顔を合わせる。
久晴と真理香の二人は、相談し合って困難やトラブルを上手く乗り切っていた。
この先も、二人で相談し合って乗り切る久晴と真理香。
その時、雲一つ無い青空から遼太郎の穏やかな笑顔が見えたような気がする久晴であった。