20,恋はコーヒーのように……
六月を迎えたばかり、社内の服装はクールビズへと変化したばかりの頃。
宣伝一課に、何かしらの変化の兆しが仕事中の久晴の耳に届く。
子供に戻ったような嬉しさを見せる英美里が、先日開催されたMCバトルに優勝して音楽事務所からオファーを受けたと嬉しそうに報告。
「先月も、大会に優勝していたから音楽事務所が無視するはずはないよな」
と言って、これまでの苦労が無駄では無かったと胸を撫で下ろす久晴。
最も驚いたのは、優菜が許嫁との縁談が決まったことが久晴の耳に入ったこと。
「あっ、あの、結婚式の日取りが来年ですから、寿退社はまだ先で……」
と言って必死に説明する優菜だが、顔はのろけ気味になっている。
当然、女子達は優菜の恋愛話でお祭り騒ぎと化している。
(あの、男性恐怖症の優菜さんに好きな人が……。世の中、何があるのか分からないか……)
と思った久晴は、遠い目で宣伝一課の女子達の会話を見ることしか出来なかった。
そんな中、久晴のスマホに見知らぬチャットが届く。
気になった久晴は、チャットを開くと相手は悪友の一人である里中。
久晴は複雑な表情でチャットの内容を読み上げる。
「この度、結婚することになりました。友達だろう? 助けてくれー!」
久晴は添付された写真を見て、一瞬言葉が出ないほど頭の処理が追い着かない。
なんと、笑顔で泣く里中と赤子を抱く満面の笑みの結婚相手とのペア写真。
真相を聞こうと向井に電話を掛けたら、マル暴の刑事が身籠もった妹の責任を取らせようと捕まえた里中に押し迫っていたと聞くことに。
しかも、刑事は去年から里中を追跡していたと聞いて久晴は唖然とするばかり。
「結婚相手、今年初旬に女の子を出産。当然、DNA検査で疑う余地無しだ」
と笑いを堪えて話す向井に、完全な里中の自業自得だと思いドン引き状態の久晴。
さらに、披露宴では里中の付き合っていた女性達が集まり修羅場と化していたと向井が語ると想像しただけで頭を痛めた久晴は電話を切って小休憩。
当然、真理香達が見逃さず取り上げた久晴のスマホからチャットで仕返し祭り。
久晴も同様に、里中に強烈なことをチャットで返信する。
「反面教師にさせていただきます。これは、自分で何とかして下さい」
これまで里中から受けた仕打ちを許すはずも無く、電話番号などを全て着信拒否して二度と関わらないことを改めて誓う久晴。
その後、監視される状態で完全に逃げ場を失った里中は赴任先である黒井製作所の東北支社で真っ当な社会人生活を強いられることは言うまでもなかった。
他にも、悪友である望月と瀬浪の二人は別々の部署で真っ当な社会人生活を送っている事を久晴の耳に届いている。
そんな中で、久晴は自分自身に悩み始めていた。
(みんな、何かが切っ掛けで変わり始めている……。今の俺、一体何が変わっているのだろう……? それとも、止まったまま変わっていないのか……?)
と思う久晴は、仕事を熟しながら悩み続ける日々。
そんな中、久晴自身が今まで経験したことのない出来事が待ち受けていることを今は知る由もなかった。
数日後、仕事の最中の久晴はスマホの着信音でさえ気づいていない。
「久晴さん、電話の着信が鳴っているわよ! もし、相手がお客様だったら!」
と言って真理香の怒る顔を見て、慌てふためいた久晴はスマホを取り出し電話に出るが既に電話は切れていた。
代わりに、留守電には久晴の母親の声が入っていた。
「久晴、真由子が貴方に会いたいと言うからメールアドレス教えたわよ。母さん」
母の留守電を聞いた久晴は、「何で教えたの」と言わんばかりに頭を抱える。
その様子を見た真理香は、不思議そうな表情で久晴に話し掛ける。
「どうしたの? 何か、悪質なマンション勧誘でもあったの?」
すると、久晴は頭を抱えて正直に真理香に話す。
「母さん、勝手に一つ上の従姉妹にメールアドレスを教えてしまって……。従姉妹、俺の初恋相手で……。出来れば、メールアドレスでさえ教えないで欲しかった……」
その時、久晴は思い出したくない失恋の記憶が昨日のように鮮明に思い出す。
それは、里中が自分の彼女と紹介して一番の理解者だった従姉妹を連れてきた忌まわしき記憶である。
ショックを受けた久晴は、従姉妹だけで無く年頃の女性達と距離を置くようになった原因の一つとなってしまい出来れば会わずに終わらせたかった。
(振られてから、新年の挨拶すら行かないようにしていたのに……)
と思う久晴は、これまで疎遠となった従姉妹の事は忘れるようにしてきた。
それなのに何故、従姉妹の方から迫ってくるのか振られた側の久晴にとって今も想像することが出来ない。
そんな、困惑する久晴のスマホに一通のメールが届き開いてみる。
「お久しぶり、何処かで会って話したいなー。真由子より」
久晴はメールを見た瞬間、身の危険を感じてスマホを隠して平静を装う。
しかし、額から流れる汗が何かを隠している証拠と見抜いた真理香は上手く隙を突いて久晴のスマホを強引に取り上げる。
当然、問題のメールを見た真理香は怖い顔で必要以上に久晴を問い詰める。
「久晴さん、この真由子って誰っ? もしかして、私の知らないところで別の女と付き合っているのっ!」
まるで、浮気を疑って容赦なく詰め寄る愛妻のように真理香はご立腹の様子。
真理香の反応を見て、他のメンバーが仕事そっちのけで久晴に詰め寄ってくる。
仕方なく、久晴は正直にと耐えるしか無かった。
「麻岡真由子、一つ上の従姉妹で隣の家に住んでいる幼馴染み……。初恋の相手でもあり、最初の失恋した経験を俺に与えた相手……」
暗い表情で話す久晴の話を聞いて、先日に一件で記憶が蘇る真理香。
「もしかして、血縁関係のある幼馴染み? 久晴さん?」
と言って真顔で問い掛ける真理香に、静かに頷いて話す久晴の顔は寂しかった。
「当時、法律なんて全く知らなかったからいつも一緒だった……。けど、中学の頃に振られた上に後から法律を知ってからは避けるようになって……」
すると、咲良が不思議そうにメンバーに聞いてくる。
「ところで、何で急に会いたいって向こうから? もう、終わっているはずなのに?」
咲良の問いに琴音が久晴に言い聞かせるように答える。
「もしかしたら、清算をしたいと思っているのじゃない? 久晴さん、必要以上に避けていたからじゃないかしら」
琴音の言葉に反応した久晴は強引に真理香からスマホを奪い返すと、待ち合わせ場所や日時を問い合わせるメールで送り主の真由子に送信する。
その後、久晴のスマホに指定された日時と待ち合わせ場所を指定したメールが届いたのは業務が終わって一時間後。
自室では、久晴は何度も目を通し徹底的に頭の中へインプット。
気がついて窓へ目を向けると、辺りがすっかり暗くなり隣の女子寮から灯りが夜中を告げている。
(向かい側、真理香さんの部屋だよな……。偶然、偶然だけど、去年のことが昨日のように思い出す……)
と思い出す久晴は、今は自分の事を気にしている真理香のためにも過去の恋愛に清算を心に決めるのであった。
週末の早朝、久晴は待ち合わせに指定した目的地へ電車で向かう。
昨日、真理香達には後をつけないよう釘を刺した久晴は一人で向かうと決めた。
それでも、真理香達は後をつけようと久晴の姿が自分達の視界から消えたのを確認して身支度を素早く済ませてから出掛けようとする。
ところが、真理香達の追跡を止めたのは社員寮にはいないはずの琴音である。
「貴女達、久晴さんとの約束を破ってまで追っかけたいわけ?」
と言って腕を組み仁王立ちの琴音は、玄関前に立ち塞がり真理香達には普段は見せない怖い顔を見せる。
真理香達は、仁王立ちの琴音の姿に恐れ無言で自室に戻るしか無かった。
(久晴さん、一人で解決してきなさい。ここは、私が引き留めるから)
と思う琴音は、一人で向かう久晴を静かに見送るのであった。
三十分後、久晴が下車した駅は新橋駅。
早朝だというのに人々が行き交い、己の目的の場所へ向かう。
話し声よりも、歩く靴や車などの騒音が否応無しで耳に入るサラリーマンの街。
(たしか、待ち合わせ場所がSL前だったよな……。遅刻しないよう早く来たが、早すぎたかな……)
と思った久晴は、新橋駅前のSL前に到着すると暇つぶしにスマホで今日のニュースを閲覧する。
一時間近く待つと、一人の女性が久晴の前に姿を現す。
「ハル君、お久しぶりっ。あれっ、前髪切ったの?」
と言って話し掛けてくる女性に久晴は見覚えがあり驚きと疑いが入り交じる。
「もっ、もしかして、真由姉っ? すっかり大人に……」
と言って久晴は、目の前にいる女性の特徴を震えながら観察する。
目の前の女性は、久晴と同じく三十代半ばだというのに若々しく顔にシワ一つ無い透明感のある肌をして世の女性と平均的な背丈。
セミロングのつやのある黒髪、母性を感じるような穏やかで大人の顔つき、落ち着きのある大人のような装いからでも分かる豊満な胸に加えスタイルがいい。
一目見た瞬間、雑誌に出てくるモデルではと疑ってしまうオーラがある。
(真理香さんもスタイルがいいけど、別の意味で魅力がありそうな……。いかん、何考えている俺っ!)
と思って赤面する久晴は、邪念を振り払うように必死に首を横に振る。
もしかしたら、目の前の女性が不思議そうな顔で久晴を見ているかもしれない。
そんな中、大人の顔つきの中に久晴の記憶にある顎下のホクロと済んだ黒い瞳で見覚えのある女性であることに気づく。
「私よ、ハル君が真由姉と呼んでいる私。真由子よ」
と言ってクスッと笑う女性を見て、彼女が一つ上の従姉妹である真由子だと確信する久晴は反応に困っていた。
「それにしても、いつ前髪を切ったのっ? 昔のハル君、目がキリッとしていて気に入っていたのに」
と言って真由子が聞いてくると、久晴は去年の出向での出来事を話すと赤面する。
「ハル君って、いい大人になっても恥ずかしがり屋は変わってないね」
と言って笑顔を見せる真由子を見て、頭をかいて何を言えばいいのか分からないなる久晴であった。
その後、久晴と真由子の二人は近くの喫茶店に入店する。
「今の喫茶店って、清潔感あって落ち着きがあるわね。昔って、不良のたまり場のようなイメージで避けていた気がしたな」
と言って、落ち着いた雰囲気の中に清潔感のある店内を見渡す真由子。
「一体、いつの頃? 今は、喫茶店も殆どが禁煙席。大体、煙草を吹かすヤツなんて見たことないのに」
と言い返し呆れ顔の久晴に、クスッと笑って「そうね」と返事する真由子。
テーブル席に座った二人は注文を済ますと、久晴はどうしても気になっていたことを真由子に尋ねる。
「どうして、里中と付き合うように? 噂では、里中に振られたって……?」
「ハル君、緊張しているの? 唇、震えているじゃない」
と言って真由子が指摘すると、久晴は緊張を解そうとコップの水を飲む。
しかし、コップを持とうとする右手も震えて上手く掴むことが出来ない。
「仕方ない、その件に関してハル君に答える日が来ると思ったけど……。正直に答えると、ハル君を独り立ちさせたかったが事の発端だった」
と答える真由子を見て、驚きで緊張感が何処かへ吹っ飛んで硬直する久晴。
真由子は、中学時代の里中との関係を隠すこと無く久晴に話した。
「法律的に結婚出来ないでしょう、私達。だって、ハル君の父親と私の母親は実の姉弟だから。どうにかして、気づかせようと思って友達やクラスの人に相談したら里中さんがハル君の親友と主張してきたから相談したの」
真由子の話を聞いて、久晴は必要以上に離れていたのか何となく謎が解けた。
同時に、真由子は里中に騙されていたことを知ることになる。
「ハル君を独り立ちさせたいと相談を持ち掛けたら、「俺の恋人になれば絶対に諦める」と里中さんに言われて乗ったの。でも、ハル君にはショックが強すぎてトラウマを植え付けてしまった。これは、本当にごめんなさい」
と言って真由子は申し訳なさそうな顔で、一つ年下である久晴に素直に謝った。
「やはり、里中に騙されたって事っ? 真由姉っ?」
と言って久晴は質問すると、ゆっくり頷いて間違いないことを主張する真由子は後に別れたことを語る。
「その後、里中さんが必要以上に電話や待ち伏せで迫ってきたから変に思って……。友達に相談したら、彼がハル君のいじめっ子と知って身の危険を感じたから、着信拒否や会えない理由を誤魔化して場を凌いだの」
「そして、高校進学してからは彼氏が出来たと誤魔化したのでは? 真由姉っ?」
「その通り、ハル君は勘がいいわね。彼、今も自分が振ったと言いふらしたみたい」
真由子の証言で、里中は「自分が振られた」ことを「自分が振った」と大風呂敷に嘘を主張してプライドを保とうとしていたことを知る久晴。
その後、里中がどうなったか真由子に話す久晴。
すると、何を思ったのか真由子は久晴にお願いしてきた。
「ハル君、私に里中さんのメアド教えてくれない? 彼にやり残したことがあるの」
頼まれた久晴は渋い顔して、里中のメールアドレスを教えることにした。
どうやら、真由子は里中に何やら仕返しを企んでいる模様だ。
だが、何を企んでいるのかは知りたくない久晴は話題を変えるように、今の会社に移ったことや以前の会社の苦労話を真由子に語る。
同時に、真由子は十年前に結婚して現在は二児の母親だと久晴に話してくれた。
こうして、時間の許す限り喫茶店で昔話に懐かしむ久晴と真由子の二人であった。
こうして、新橋で様々な場所に出掛けて日が暮れようとしていた頃だろう。
新橋の歩道橋で車の流れを眺める真由子の横顔を見た久晴は、仲良く遊んだ幼い頃の記憶が重なって見える。
「ここって、帰り道でよく通った歩道橋っ? 昔と重ねたら、街もすっかり変わってしまったよな」
と言って久晴は、真由子と一緒に無邪気に遊んだ記憶を懐かしむ。
「よく覚えているわね、ハル君。私、子供の頃に戻れたらやり直せるかな」
と言う真由子を見て、何を感じたのか緊張の糸が張る久晴は後で何を言うのか想像が出来た。
「ハル君、関係をやり直さない? 昔、無邪気に遊んだ子供の頃のように」
と言って真由子は、なんとも言えない表情で久晴に迫ってきた。
そう、真由子は久晴に関係の修復を迫ってきたのだ。
その時、真由子の顔を見て関係を戻したいと最初は魔が差したが、今付き合っている真理香や琴音の言葉を思い出し我に戻る久晴。
久晴は勇気を振り絞って思いっきり頭を下げ、
「ゴメン、今は気になる彼女がいて裏切ることが出来ない。それに、俺達は血縁関係のある従兄弟同士。どう足掻いても、法律的に結婚は無理だから……」
と言って断る理由を真由子に伝える。
もしかしたら、真由子を泣かせてしまったのではと罪悪感を抱く久晴。
だが、頭を上げて真由子の顔を見ると何故か笑顔だった。
「ハル君、私の知らない間に大人な考えを待つようになったね。もし、ハル君が受け入れたら夫に顔を合わせることが出来なかったから安心した」
と言うと、久晴の頭を撫でて褒める真由子。
久晴は、子供扱いされたと思い不満そうな顔で笑顔の真由子を睨む。
「もし、ハル君が戻りたいと言ってきたらダメって怒るつもりだった。でも、ちゃんと断ったから褒めているの。これで、お互い前に進むことが出来るって」
と言って久晴の褒める真由子は、胸の奥底で詰まっていた何かが取れて安堵する表情を見せる。
同時に、久晴も胸にしまっていた物が整理した気分であった。
「じゃあ、最後は背中を向いて別れましょう。お互い、涙を見せないように」
と言って提案する真由子に乗る形で、新橋駅の方角に振り向く久晴。
同時に、真由子も久晴と反対の方へ振り向き別れる準備が出来る。
そんな中、何を思ったのか久晴は真由子に伝えようと思って言おうとしたとき、
「振り向かない。私達、前に進むと決めたでしょ。でも、恋に臆病にならないで」
と真由子が先に言って口を封じられた久晴は、何も言えなくなり手が震えてくる。
久晴の震える手を見た真由子は、慰めように優しく言い伝える。
「もし、困ったことがあったら相談に乗るから安心して」
すると、別れる決心がついた久晴は真由子に感謝の言葉を伝えて歩き出す。
「ありがとう、真由姉……。俺、前に進むよ……」
そのとき、久晴の耳に入ったのは真由子が履くヒールの乾いた音。
どんよりとした雲行きの中、電車に乗って新橋を後にする久晴は終始無言だった。
久晴が社員寮に戻ると、食堂では真理香や宣伝一課の女子メンバーがテーブルを囲んで待ち構えていた。
久晴の顔を一目見た琴音は、何かを察したのか労うような言葉を掛ける。
「どうやら、過去の清算は終わったようね。私、家に帰るわね」
琴音は、何事とも無く社員寮を去って行った。
久晴は、何を言うことなく自室に戻ろうとする。
真理香は、久晴の背中を見て何も思ったのか抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと、公なところで抱きつかないで! はっ、恥ずかしいから!」
と言って驚いた久晴は、抱きついてきた真理香に注意をする。
それでも、真理香は久晴の背中から話そうとはしなかった。
「泣いている、久晴さん……。ハグしてあげるから、元気になって……」
真理香の言葉に反応した久晴は、必死になって強がりを見せる。
「べっ、別に泣いてないって。大丈夫、何時もの俺だから!」
「ウソ、背中で思いっきり泣いている。辛かったでしょう、叶わぬ初恋……」
と言って真理香は、久晴の心を見透かすように抱きつく。
それでも、久晴が強がりを見せるが真理香は抱きついたまま言い返して繰り返し。
そんな、真理香の健気な思いやりがジワリと心に堪える久晴であった。
窓を見ると、外は久晴の心を現すように雨が降り始めていた。
こうして、久晴の叶わぬ初恋物語は静かに終止符を打った……。
一週間後、久晴宛に一通のフォトメールが届く。
なんと、送り主は真由子で姓も旧姓で麻岡とカッコで記載している。
気になって開封すると、真由子を中心に結婚相手の旦那と子供二人の家族写真。
真由子が直筆の締めで「結婚十年目、今一番幸せです。ハル君も、早く幸せになってね」と読み終わり、晴れ渡った空を見上げて心の中でエールを送る久晴。
(ありがとう、真由姉こそ幸せに……)
その久晴はというと、真理香に連れられてコスプレイベントの付き添いで都内の某会場に来ている。
当然、真理香はコスプレイヤー北欧まりんになりきり会場を楽しんでいる。
久晴は、心配そうな顔で楽しんでいる真理香を見守ることしかできない。
何を考えたのか真理香は、満面の笑みを振り撒いて心配そうな顔で見守る久晴にちょっかいを仕掛けてくる。
「あれっ、泣いている? 私の友達から聞いたけど、失恋が辛かったの?」
それを聞いた久晴は、思わず本名を言いそうになったが堪えて必死に止めようとする。
「ちょ、ちょっと、それっ、ネタバレですって! しかも、人前で言う事じゃ……!」
それでも、真理香はスカートの丈が極端に短い明治風の女侍のコスプレ姿で久晴を挑発する。
「そこの冴えないオッサンよ、私を見て元気になりたまえっ!」
まるで、久晴の失恋体験を吹っ飛ばそうとする真理香の体を張っている。
だが、久晴からは余計なお節介でしかならず慌てふためく。
それでも、真理香は楽しそうな笑顔でウインクをして久晴を態度で慰める。
しばらくして、久晴が真理香の体を張った慰めにようやく気付く。
迷惑ながらも真理香のお節介が、妙にうれしく思う一日の久晴であった。
それから、月日が流れ八月の夏季休業が明けた頃。
社内では、真理香が心配そうな表情で久晴の仕事ぶりを静観する。
真理香が心配そうに静観されているにも拘らず、普段通りに自分の業務を熟す久晴は既に失恋のショックから完全に立ち直ったとアピールしているようにも見える。
別れるとき、「前に進む」と心に決めている久晴に落ち込んでいる暇はない。
真理香と付き合って一年、転勤騒動や痴漢冤罪などのトラブルに巻き込まれメンタル的にやられていたが今は真由子との約束が久晴の心の支えとなっている。
心配そうな真理香に、肩か軽く叩く琴音が声を掛けてくる。
「この様子からして、失恋のショックは立ち直っているみたいね。久晴さん、私達が思ったよりメンタルは弱くなかったようね」
琴音の言葉に、真理香は安堵の表情を見せ自分の業務に戻る。
そんな中、秘書課に配属している女子社員の一人が宣伝一課に姿を現す。
「多田野さん、多田野久晴さんはいますでしょうか?」
その声に反応した久晴は、手を挙げて自分がいることを主張する。
すると、女性社員が久晴のところへ歩み寄り預かった伝言を言い伝える。
「多田野さん、会長から本日の昼休みに会長室へ」
女性社員の伝言に、何一つ心当たりが思い浮かばず首を傾げる久晴。
伝え終えた女性社員は、何一つ話すことなく宣伝一課を後にする。
まるで、自分の存在を消すくノ一のように静かであった。
いち早く反応した真理香は、気になって久晴に尋ねてくる。
「久晴さん、何か悪いことでもしたの?」
「いや、自分でも心当たりはないはずだけど……」
と言って、再び首を傾げる久晴。
その時、何を思ったのか普段は注意をしない琴音が珍しく二人の注意をする。
「二人とも、私語を慎んで仕事に集中しなさい!」
久晴と真理香の二人は、琴音に注意され自分の業務に戻るのであった。
今、分かっていることは遼太郎のいる会長室に来ることだけがわかる久晴。
この後、新たな難題が待ち受けていることを今は知る由もない久晴であった。
こうして、昼休みを迎えて言われた通り遼太郎がいる会長室へ足を運ぶ久晴。
思い起こせば、会長室へ来るのはイギリス出張以来のことである。
緊張した面持ちで、久晴は会長室の扉をノックすると、
「多田野です。秘書課の伝言通り来ました」
と言い伝えると、扉の向こうから遼太郎の声が聞こえる。
「多田野君か、話したいことがあるから入ってきなさい」
すると、緊張を緩めることなくドアに手をかけゆっくり開けると会長室に足を踏み入れる久晴。
会長室には、遼太郎以外は誰もいない。
「今日は、二人だけの話がしたい。肩の力を抜いて入ってきなさい、多田野君」
と言って遼太郎が招き入れると、久晴は会長室の中央の奥にある立派な長机のところまで歩み寄る。
「立ち話は疲れるだろうから手前のソファーに座りなさい、多田野君」
と言って、長机の手前にあるガラスのローテーブルのある応接用の革張りソファーに移動する遼太郎。
久晴は、遼太郎に言われるままソファーに腰を下ろす。
「真理香から話しを聞いたが、叶わぬ初恋を清算したそうではないか。正直、思い出すだけでも辛いだろう?」
と問い掛ける遼太郎は、ティーカップに入れた熱いコーヒーを差し出す。
まさか、真理香が自分の祖父に言い触らすとは想定外の久晴は動揺する。
同時に、知られてしまった事に観念して自分の心情を遼太郎に打ち明ける。
「はっ、はい、思い出す度に辛いです。でも、別れる際に「前に進む」と約束しました。だから、今は凹んでいる暇はありません」
久晴の胸の内を聞いた遼太郎は、穏やかな表情でティーカップのホットコーヒーを一口飲む。
そんな中、久晴はティーカップを不思議そうに観察する。
そのティーカップは、客先用としても十分立派だがアンティークな雰囲気があり高価そうにも見える。
だが、今は夏だというのにホットコーヒーは変に思う久晴は首を傾げる。
すると、ホットコーヒーを飲みながらティーカップの事を語り出す遼太郎は遠い目で窓を眺める。
「これは、十年程前に亡くなった妻の形見だ。ワシは、このティーカップでコーヒーを飲むのが日課になっている」
遼太郎の話を聞いて、真理香がクオーターだと思い出す久晴。
さらに、遼太郎はイギリスで出会った女性と結婚した日のことを語る。
「結婚すると聞いて、母方の両親がワシに圧力を掛けて猛反対したときは手が震えていた。その時、妻が「日本で幸せになる」って言い切って自分の両親に度胸を見せた。もし、妻と出会っていなかったら今のワシは無かったと思う」
その話を聞いて、遼太郎が決して平坦な道のりを歩んではおらず苦労したことを実感すると同時に会社が大きくなった影から支えた人がいることを知る久晴。
「これは、当時ワシが妻のためにイギリスから買った物だ。ワシがこれでコーヒーを飲むと、妻が笑いながら「これは紅茶を飲むものよ」と注意されたな」
と言う遼太郎は、遠い目で亡き妻との思い出に浸る姿は何処か寂しそうに思える。
そんな中、遼太郎は真理香の事で話題を切り替え久晴に質問してくる。
「ところで、真理香と付き合って何年目になる?」
「えーとっ、二年目になりますけど……」
と返答して、緊張した面持ちで何が来るのか全く予測できない久晴。
すると、久晴が今まで経験したことがない事を遼太郎が言い出してきた。
「今度は、多田野君の方から真理香に仕掛けてみたらどうかね? 恋人の件、真理香の方から仕掛けたと聞いている。だから、今度は多田野君から告白してみないか?」
遼太郎の突然な発言に、動揺した久晴は狼狽えて思い浮かぶことを唇が震えながら言い出す。
「そっ、そそそっ……。それって……、結婚の告白ですか……?」
「それ以外、他に無いはずだぞ。過去の恋を清算した今の君なら、安心して真理香を預けられると思っている。今度は多田野君、君が真理香に歩み寄る番だぞ」
と言って遼太郎は、真理香との結婚を打診してきた。
これには、久晴も想定外で神妙な面持ちで今の胸の内を遼太郎に打ち明ける。
「すいません、正直言って今の自分は真理香さんと釣り合える男とは思っていません。年も一回り離れている上に、金銭的に彼女を養える自信が全く……」
すると、遼太郎は今差し出しているコーヒーを例えて久晴に問い掛ける。
「あらかじめ、例えが悪くて申し訳ない。君が、他人の飲み残したコーヒーをどうする? まさか、そのままとは言わないだろうが」
「はっ、はい……、流しに捨てて器は洗います……。それ以外、答えはないと……」
と言って久晴は、遼太郎の問いに不安そうな表情で返答する。
久晴が返答すると、遼太郎は再びコーヒーを一口飲んで話し掛ける。
「その通りだ。今のお前は、飲み残しを片付けるように過去の恋物語を清算した。今度は、目の前にある差し出したコーヒーを君がどのように飲むのかだな」
話を聞いて、自分の目の前にあるホットコーヒーを真理香だと思うと手を出す勇気が出ない久晴は固唾を呑む。
「君達が、どのような答えを出すかは尊重する。ワシも八十歳の大台を迎えた身、近々会社を息子達や他の社員に継がせるつもりだ」
と言う遼太郎を見た久晴は、何かを悟ったようにも見え言葉を失う。
そんな中、何を思ったのか遼太郎は穏やかな笑顔で久晴に自分の願望を語る。
「出来れば、君達が結婚してひ孫の顔を見る。それが、ワシの最後の願望だ」
それを聞いた久晴は、プレッシャーに耐えかね条件反射でソファーから立ち上がると遼太郎に頭を下げ会長室を去ろうとする。
遼太郎は笑顔で久晴を呼び止めると、
「せめて、コーヒーを飲み終えてから帰りなさい。せっかく、入れたコーヒーを飲まずに出て行くのは失礼だぞ」
と言ってコーヒーを勧めてきた。
久晴は早くで退室しようとコーヒーを一気に飲み干そうとするが、熱かったのか思わず噴き零してしまう。
それを見た遼太郎は、笑いながら久晴にアドバイスを送る。
「焦ることはない、焦ることは。告白のタイミングは、君に任せる」
その時、久晴は顔を赤くしながらコーヒーを飲むことしか出来なかった。
職場に戻る際、遼太郎の言葉で悩み続ける久晴。
真理香は久晴の暗い顔を見て心配してきたが、
「大丈夫、詰まらない個人的な悩みだから……」
と返答して無理に明るく振る舞う久晴。
だが、仕事中でもプライベートでも心の奥底で自問自答を繰り返す久晴。
(……果たして、自分は真理香さんと釣り合える男だろか……?)
心の中でつぶやく久晴に、答えが見つけ出すことが出来ず時間だけが過ぎる……。
一週間後、悩み続ける久晴は遼太郎の言葉が否応なしに思い浮かぶ。
(……告白のタイミングは、君に任せる……)
誰にも相談できず、複雑に絡み合い苛立ちと不安が交錯する久晴。
それでも、同僚には心配させまいと作り笑いで場を誤魔化していた。
だが、人妻の琴音は久晴が悩んでいることを見抜き二人っきりを見計らい、
「久晴さん、会長から何言われたの? もしかして、真理香への告白?」
と言って、直球的な質問を久晴に仕掛けてきた。
琴音の直球的な質問に、久晴は必死になって誤魔化そうとする。
「べっ、別に、何でも無いですよ……。俺、ヲタクだから恋愛なんて無理に……」
「久晴さんが、自分を否定しているとき何か隠している証拠。私が、相談に乗るから」
と琴音は、笑顔で久晴の抱える悩みを聞こうとする。
久晴は観念したのか、遼太郎から結婚を打診されたことを正直に琴音に話した。
遼太郎に打診され、悩みと不安と苛立ちが重なり合っていることを。
琴音は、久晴が胸の内を受け止めているように静かに耳を傾けていた。
少しでも、久晴が背負っている心の重みが軽くなればと思って……。
身の上相談を受ける琴音は笑顔で久晴の心境を受け止め問い掛ける。
「久晴さんは、真理香のこと今も好きなんでしょ?」
すると、久晴は素直に答える子供のように自分の気持ちを堪える。
「今でも好きです……。出来れば、このまま続けばいいと……」
すると、琴音は当たり前のようなことを言い始め久晴を説得した。
「久晴さんには耳の痛い話だけど、自分の都合とは関係なく時間が過ぎると人の心は変わってくるの。本当に、彼女が好きなら貴方の方から歩み寄ってみたら?」
「でも、真理香さんがどんな返事が来るのか怖くて……」
「久晴さん、恋愛もそうだけど難しく考えない。好きなら素直に言えばいいし、一緒にいたいなら「一緒にいてください」と言えばいいだけ。要は、簡単なことよ」
久晴は、説教のような琴音の返答が余計重くのし掛かる。
心配なのは、告白して振られた場合に一生口を利いてくれないのではという不安。
その時、琴音は自分の経験談を久晴に話した。
「待つ側って、結構しんどいのよ。今の夫とデートするとき、心の準備は出来ているのに何時告白してくれるのかドキドキした待っていた記憶が今でも覚えているわ」
琴音の経験談を聞いて、余計自信を失いそうになる久晴。
「とにかく、一度や二度でもダメなら何度でもアタックしなさい。諦めずに何度もアタックすれば、真理香は貴方を受け入れてくれるはずよ」
と体育会系な助言を言って、久晴の背中を軽く叩いて去って行く琴音。
久晴は、去って行く琴音の背中を見て真理香と重なった。
(待つ側はしんどい、分かっているけど……)
心の中で理解できても、奥底では天使と悪魔が戦い続ける自分がいた。
その後、隣の席にいる真理香を意識しすぎて仕事に集中できない久晴。
真理香が心配そうに声を掛けたが、無理に明るく振る舞う久晴だが琴音の言っていたことが余計プレッシャーとなり日を増すことで重くなっていた……。
その日を境に、久晴の隣にいる真理香を余計に意識して仕事に手が着かない。
その久晴を見て琴音が、久晴の耳元で注意する。
「今は、仕事に集中! 変に意識したら、真理香さんに気づかれるわよ!」
琴音に注意された久晴は、顔を赤くしながらも慌ててパソコンに目を向ける。
そんな久晴を見た真理香は、気になって話し掛けてくる。
「どうしたの? 顔、赤いわよ?」
すると、久晴は苦笑いしながらノートを団扇代わりにして誤魔化した。
「だっ、大丈夫! 俺、今は暑がりだから」
久晴の様子がおかしいと思った真理香は首を傾げながらも、
「もしかして、悪質なマンション勧誘に悩んでいるの? そんなヤツ、構っていたら余計に疲れるだけよ」
と言って笑顔を見せる。
真理香の的を外した発言に、悟られていないと心の中で一安心する久晴であった。
そんな、フレッシャーと戦い続ける久晴の心境が変わる出来事が発生した。
その日は十一月半ばの夜、社宅寮の自室で起きた出来事だった。
仕事帰り、自室に戻るとひどく疲れたのか泥のように即座に就寝する久晴。
就寝中、久晴は不思議な夢を見ることになる。
その夢は、霧に包まれハッキリと見えない状況から始まる。
霧に包まれ視界が悪く、状況が分からず身動きの取れない久晴は叫んでみる。
「誰かいますかーっ! いたら返事をしてくださいーっ!」
だが、久晴の耳に誰一人として声はなく静寂な世界が広がる。
霧の広がる世界、誰一人としていない場所、動くことの出来ない久晴は声だけで誰かいるか探ることしか出来なかった。
無情にも、誰一人いるわけもなく返ってくるのは静寂のみ。
その時、前の霧が晴れ真理香が知らない男と腕組んで一緒に歩く光景を目の当たりにした久晴は思わず何度も叫び続ける。
「真理香さん、俺ですっ! 久晴ですっ!」
しかし、暗い表情の真理香は腕組む男性と一緒に久晴から離れて行く。
その瞬間、久晴は条件反射で真理香を追い掛けようとする。
ところが、誰かが腕を引っ張られ身動きが取れない。
後ろを振り向くと、腕を引っ張っているのは目の色が違う闇落ちの久晴である。
闇落ちの自分を見た瞬間、背筋が凍り付き恐怖で顔が引き攣る久晴。
闇落ちの久晴は、恐怖で顔が引き攣る久晴に非情なことを言い放つ。
「考えてみろ、彼女は大会社のお嬢様だ。そんな、夢物語が永遠に続くはずはない」
その瞬間、ベッドから起き上がり冬だというのに凄い寝汗をかいていた。
周囲を見渡し自分の部屋だと分かると、胸を撫で下ろし夢だと安堵する久晴。
同時に、闇落ちした自分を見たとき眠っている負の自分だとハッキリと分かる。
思い出す度に、真理香を失いたくない気持ちと真理香と釣り合える自分なのかを自問自答する自分との板挟みで悩み続ける久晴。
同じ頃、真理香は家族集まっての夕食会が終わって社員寮に戻っている最中。
真理香を乗せたタクシーは、赤信号と渋滞が重なり停車中。
タクシーの中で真理香は、自分の父親がお見合いを進めてきたとき祖父である遼太郎が止めてきて問い掛けられたことから思い返す。
(今、付き合っている多田野君と上手くいっている? これから、どうしたい?)
その時、真理香は「出来れば一緒に暮らしたい」と正直に返答した。
遼太郎は、「彼のために試練を与えてみたら」とアドバイスされ不満そうに呟く。
「分かってる……。分かっているけど……」
既に、真理香は久晴と共に過ごしたいと決心が着いていた。
遼太郎に言われ、心の中でもどかしい気持ちが募る真理香は暗い顔をする。
そんな中、タクシーの窓越しにホストと思われる高級ブランドを身に纏った若者達を囲んで年配の女性達が談笑する光景が偶然に目に入る真理香。
その光景を見た真理香の耳に、自分の耳を疑いそうなことが聞こえてくる。
「多田野さん、何時も羽振りがいいわね。本当に、大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫よ。今の私、夫と息子達という最強のATMがあるから」
「もし、誰かに聞かれたら騒動になるのじゃない?」
と年配の女性同士の談笑を聞いた真理香は、「多田野」という苗字に心当たりがあり窓越しで息を殺して静観する。
すると、久晴が写真で見せてくれた母親と同一の年配の女性がいる。
一目見たら、三十代か四十代と疑いそうなレベルの若さを保っている。
だが、久晴の年齢を考えたら六十代の大台を迎えているはず。
若作りの女性が久晴の母親なのか、それとも他人なのかは現段階では謎である。
そんな中、信号機が青に変わり渋滞から解放されたタクシーは無情にも目的地の社員寮へと再び走り出す。
謎を残したまま、タクシーの窓越しに静観することしか出来ない真理香であった。
当然、社員寮にいる久晴は自分の母親について全く知らない。
この後、久晴の決断が自分の人生を左右することを今は知る由もなかった。