2,天使《コスプレイヤー》と二年参り
小晦日(十二月三十日のこと)の夜、久晴は東京行きの深夜バスに乗車したばかり。
バスから眺める街並みの景色は、スプリンクラーの散水と融雪剤により路面は露わになったが未だに銀世界。
幸いにも、ここ一週間の天気予報は雲一つ無い快晴で雪の降る心配はない。
久晴は、一昨日仕事納めで昨日から年末年始七連休の真っ只中。
東北支店に転勤して三年目、葛谷や畠田に振り回され真面に休んだ記憶は全くなく仕事に追われる毎日。
久々の休みで、絶対に行きたかったところがあり深夜バスで東京に向かう。
年末なのか、深夜バスは満員状態で空いている座席はない。
久晴は、期待に胸を膨らませ翌朝の東京の光景が今か今かと待ち遠しい。
バスに揺られる長旅に加え長時間の激務による疲労が蓄積した久晴は、窓際の座席に座ったまま寝落ちしてしまう。
寝落ちした久晴は、先日見た夢と同じ夢を見ていた。
そう、暗闇の中で光り輝く天使が祈りを捧げている夢である。
だが、今度は前回見た夢とは違い天使の顔がハッキリと目視できる。
大人と少女の中間の顔立ちに、血管が浮き出そうな白い肌。
そして、腰まで届きそうなくらいの長いブロンドの金髪は光が透き通りそうで他の人が見たら白人女性と見間違えてもおかしくはない。
そんな彼女の姿に、心を奪われたのかゆっくり近づく久晴。
すると、久晴の気配を察したのか天使は祈りを止め歩み寄ってきた。
天使の行動に久晴は、慌てて離れようとするが足が思うように動かない。
天使が久晴の目の前に立ち止まり、
「なぜ、前髪で顔を隠すの? こんなに格好いいのに……」
と言って久晴のトレードマークである長い前髪を手でかき上げる。
コンプレックスの目付きを見られた久晴は、顔全体が真っ赤に染まり恥ずかしさの余り何を言えばいいのか分からず思考回路がパニック状態。
そのとき、バスの揺れで目を覚まし周囲を見渡して夢であることに胸を撫で下ろす。
「いつもは、近づく寸前で連れ戻されるというのに……」
と久晴は誰にも聞こえないような声で夢の記憶を思い返す。
そのとき、カーテン越しから光が差し込み開けると高層ビルの街並みが見える。
間違えなく、東京へ来たことを実感する久晴は喜びを噛みしめる。
(待っていろよ、東京ビックサイト! そして、お久しぶりの冬コミ!)
と心の中はワクワク感で満たさせる久晴。
この後、思わぬトラブルによって運命の出会いが待っていることを……。
そして、見た夢が正夢になることを久晴本人が知る由もなかった……。
大晦日の早朝、雲一つも無ければ雨や雪の心配は皆無の快晴で青空が広がる。
深夜バスで夜を明かした久晴は、寝ぼけ眼で電車に乗って東京ビックサイトへ向かう。
東京ビックサイト、様々なイベントが開かれる巨大施設。
その中でも、ヲタク達にとって外すことの出来ないビッグイベント。
コミックマーケット、夏と冬の年二回東京ビックサイトで開催される一大イベント。
小晦日と大晦日の二日間、冬のコミックマーケットが開催される。
久晴は、三年ぶりのコミックマーケットの一般参加に胸を躍らせる。
三年前までは、例え仕事が忙しくても毎年のように来場していた久晴。
ところが、東北に転勤してからは仕事による激務の毎日で休日だというのにプライベートで休めた記憶は皆無に等しい。
当然、多忙な毎日でコミケに行ける機会が無くなるのは当たり前。
だから、三年ぶりのコミケは久晴にとって夢のようで初めて来場する気分と同じくらいにテンションが揚がりまくっている。
電車が、東京ビックサイトへ近づくにつれ期待の膨らみが大きくなる。
まるで、アインシュタインの相対性理論に「好きな人が隣にいると時間の流れを早く感じる」と感覚を久晴は今体験している。
そして、電車は国際展示場駅に到着した久晴は目の前に広がる光景に実感する。
東京ビックサイト前は、乾いた北風の寒さが厳しい早朝だというのに長蛇の列。
中には、禁止されているにも拘わらず前日に野宿をして待ち侘びる強者もいる。
久晴はその長蛇の列に来場した実感をヒシヒシと噛み締め、
「そういえば、東北へ転勤して何年が経つのだろう……」
と呟いて駆け足で長蛇の列の最後尾に向かう。
それにしても、誰が見ても久晴の服装は誰が見ても見窄らしい。
特に、黒のロングコートは裾が解れ一見したら浮浪者のようにも見える。
その上、少し猫背でボサボサの髪型に加え目元が隠れるくらいの長い前髪が浮浪者の印象を強めている。
やはり、生活費だけで預貯金がほとんど無い低賃金では余裕がないのかもしれない。
それでも、絶対に行きたかったコミケに来場できただけでも嬉しい久晴。
列に並び開催を待つ久晴は、スマホの時間を見ながら今か今かと待ち侘びる姿は期待に胸を膨らませる子供のようだ。
最後尾で並んだはずの久晴の背後は、数分もしないうちに列となり気がつかない内に長蛇の中程へと変化。
こうして、時刻は開催時刻である午前十時を迎え玄関前の扉が開かれる。
すると、開かれた同時に人々が吸い込まれるように入場する。
当然、久晴も押されながらビックサイトの中へと入って行くのと同時に冬コミ道中の開幕である。
館内の広大なエントランスホールは、入場してきたヲタク達で埋め尽くす。
人気の無い館内に人々が埋め尽くすと、ひんやりとした空間が次第にヲタク達の熱気へと変わる。
待ち受けるのは、運営側の受付と制服を着た警察官による荷物チェック。
久晴は、受付と荷物チェックを済ませ会場である東展示棟へと急ぎ足で向かう。
なんと言っても、メインは抽選で権利を勝ち取ったサークル参加者による即売会で、同人誌やグッズの販売の光景は圧巻なものがある。
今回の即売会は、最後に訪れた三年前とは比べられないくらいに規模が大きい。
なんと、左右合わせて六つのフロア全てが解放され何かの市場を彷彿されるような光景が久晴の目に入った。
以前は、右半分の三つのフロアのみで開催されたコミケ。
まさか、六フロア全て解放されるなんて思いもしなかった。
当然、抽選で通過したサークルの数は以前より倍になるのは当たり前。
その結果、東展示棟は賑やかな祭りの出店の域を超え活気に満ち溢れる市場を彷彿とさせる光景へと変貌。
サークルを行き交う人々が、混み合う立体交差点のようにも見え市場の雰囲気をより一層引き立てる。
想定外の規模の大きさ、想像以上の活気、三年ぶりで浦島太郎状態の久晴は何を言えばいいのか分からないほど頭の中がパニック。
数分位して頭の整理が追いつくと久晴は喜びを噛み締め、
「長かった……。三年間は長かった……」
と言って改めて三年ぶりのコミケに来場したことを実感する。
一応、足を運ぶことは出来なくてもネットなどで同人誌の購入は出来る。
それでも、体験する現場の雰囲気はネットやテレビで見た物とは比べものにならない興奮と出会いを来場した人々に与えてくれる。
こうなれば、三年のブランクを埋めようと歩き出す久晴。
人気サークルの出版物は、開幕して三十分で即完売で買い逃せば二度と手に入らない。
ところが、久晴は焦る様子は何一つ無く周囲を見渡し、
「今は、通販やダウンロード販売があるから買いそびれる心配は無い!」
と言って、お目当てのサークルへと人混みをかき分けながらゆっくりと進む。
かつては、即売会で買い逃したら再度購入は不可能と言ってもいいくらい流通手段のない同人誌。
唯一、手に入れられる方法は古本屋ぐらいしかない。
それが、今では専門の通販やダウンロード販売で流通するようになった。
そのため、余程の収集癖以外でない限り買い集める必要は無い。
久晴にとって、コミケは同人誌の品定めの場と思っており買い込む余裕はない。
目当ての数冊以外は、後日のダウンロード販売を待てばいいだけ。
久晴は、誰も注目すらしないSF物のロボ系やメカ関係の設定画集を数冊購入。
当然、並んでいる人は無きに等しく余裕で購入し大満足。
その後、西側の企業ブースに足を運ぶ久晴。
西展示棟では、出版社の出版物やアーティストなどのライブが行われる。
最近では大型出版社やアーティストなどは重要な宣伝の場と考えており、大型出版社は一押しの漫画や小説などの売り込みやトークイベント、特別ステージでは新作アニメの発表とアニメ主題歌を歌うアーティストによるライブが行われる。
各出版社は、週間系の雑誌は勿論のこと一押しの単行本などを売り込んでいる。
そんな中、久晴は出版物の傾向を見て、
(ここ最近は、異世界転生の関係が多いような気が……。そういえば、アニメでも流行っていたな……)
と心の中で最近の流行り物の傾向を何となく察した。
一度ヒットすれば、各社挙って関係する系統の作品を提供する世界。
しかし、ヒットしたからって必ず売れるとは限らないけど作り出すのは世の常。
それでも、出版社は頭を使って独自性のある作品を提供し人々を釘付けにさせる。
だが、鬼畜な労働を強いられテレビを見る暇すらない久晴にとって最近の流行が何なのかサッパリ分からず三年のブランクの大きさを痛感する。
さらに、地方のテレビ局の放送は同局でも放送されないことがある。
ましては、田舎の書店だと買いたい単行本やラノベが店頭に並ぶことは滅多にない。
唯一の手段、偶然入手した専門雑誌のみ。
だから、三年ぶりのコミケは久晴にとって何らかの刺激を与える。
久晴は、出会うことのない刺激を楽しんでいた。
そんな中、特設のライブ会場で思いがけない出会いを発見する久晴は思わず呟く。
「えっ、あの人って紅白に……? たしか、去年で落選したってニュースに……?」
なんと、大物歌手が紅白復帰を目指し特設ステージで必死に歌っているではないか。
勿論、この場で歌う歌手この業界では専門か担当する若手の声優がメイン。
まさかの光景に、カルチャーショックを軽く受ける久晴。
そんな、ぶらり旅のようなコミケ巡りをしていると時刻は正午を迎えようとしていたことをスマホで確認する久晴。
こうなると、「腹が減っては戦ができない」と言わんばかりにフードブースが開かれる。
今年は、全国の有名店がキッチンカーで挙って自慢の料理を振る舞う。
おいしそうな匂いに吊られたのか、それともチラシで興味が沸いたのか、お腹をすかせたヲタク達が挙ってフードブースへ集まる。
久晴は、急いで有名店の待ち受けるエリアに向かい滅多に食べることのない料理を購入すべく列に並ぶ。
そんな、午前は新たな刺激のオンパレードで終わりを迎えようとしていた。
こうして、お腹を満たした久晴は午後の部門で新たな刺激を求めようとビックサイトをぶらり旅するように再び歩き出す。
すると、女の子がアニメで出てくるキャラの衣装に着替え小さなプラカードでアピール。
そう、コミックマーケットに花を添えるコスプレ撮影会。
かつては、同人誌の売り子としておまけ要素の存在だったコスプレ。
運営側は、新たな表現の場として専用の更衣室など充実した設備を提供している。
当然だが、更衣室などの設備を利用するためには事前登録や参加費は必修。
その結果、コスプレーヤーがアニメやゲームに出てくるキャラクターの服装を着飾りヲタクだらけの重苦しさを華やかにする。
なお、企業側の中にコスプレした社員やコンパニオンは該当しない。
女性の苦手な久晴でも、遠くで見て分かるくらいにレベルの高さを痛感する。
(いくら苦手でも、離れていれば何の問題は無い……)
近寄れば、絶対に何かのトラブルに巻き込まれるに違いないと肝に銘じて遠くからコスプレ撮影会を見歩く。
ここ最近、コスプレのレベルが高く一見したらアイドルの卵か新人のモデルさんかと見間違えそうなプレーヤーも出現するようになった。
(ここ最近、有名なコスプレイヤーがグラビアに出ていたような……)
と思い出す久晴は、この中に雑誌に出ていたコスプレイヤーを探し出そうと思った。
そんな中、「きゃっ!」と声が聞こえ誰かにぶつかり合ったのか思わず後退りして、
「す、すみません! 大丈夫ですか?」
と言ってぶつかった方を見ると、なんと夢に出ていた天使のようなコスプレの女の子が目の前に尻餅をついている姿を目の当たりにする。
少女と大人の中間な顔立ち、腰が隠れるくらいはある金髪の長い髪、血管が浮き出そうな白い肌は夢に出てきた女の子そのもの。
女性が苦手でも、思わず手を差し伸べ女の子を助けようと手を差し伸べる久晴。
すると、女の子は条件反射で立ち上がり久晴の背後に回って、
「お願いです! 助けて下さい、誰かに追われて困っています!」
と訴え、怯えた表情で必死に助けを求めてきた。
一体全体、状況が把握できず困惑する久晴だが「あれって、北欧まりんじゃね?」と誰かの声が聞こえ何かを思い出す。
北欧まりん、二年ほど前に突然姿を現したコスプレイヤーで長身でモデル体型に加え白人みたいな容姿とロリ顔とのギャップに注目している新人と噂を思い出す久晴。
盾にされた久晴は、何があったのか把握できず、
「えっ、なっ、何っ? なっ、何が遭ったのですか?」
と言って、頭はパニック状態で何をどうすればいいのかオロオロしている。
そこへ、髪の色は赤茶のネオ七三カットで長身の服装はヲタクだが小綺麗で明らかに偽のヲタクな男性が歩み寄り、
「お前、邪魔だっ! 退けっ!」
と言って、久晴を強引に引き離しまりんに近寄る。
引き離された久晴は、勢いで地面に倒れ込んでしまう。
「真理香さん! こんな、ヲタク臭い場所から離れてどこか行きましょう僕と!」
「真理香って誰ですか? 私は、北欧まりんです!」
偽ヲタクとまりんが口論し、来場客が野次馬のように周囲を囲む。
倒れ込んだ久晴は、引き離した偽ヲタクの顔を確認しようとしたが眼鏡を掛けて隠しているため確認することが出来ない。
それでも、倒れ込んだ久晴が立ち上がりまりんと偽ヲタクを間に入り込み、
「どういう状況か分かりませんが、嫌がっているではないですかっ! 彼女っ!」
と大声で叫び、まりんを庇う久晴の表情は鬼の形相になる。
久晴の怖い顔に、一瞬怯んだ偽ヲタクだが眉間にしわを寄せ再び引き離そうとする。
「なんだお前、オッサンには関係はないだろうっ! 邪魔だから退けっ!」
それに対して、久晴は怒りで自分の立場が分からなくなったのか、
「いいえ、退きませんっ! 彼女、こんなに怯えているじゃないですかっ!」
と主張し、久晴の背で怯えるまりんを感じて一歩も引こうとはしない。
すると、怒りで我を忘れたのか偽ヲタクは野次馬となっていた他のコスプレイヤーのプラカードを強奪し持ち手の角材で久晴を殴りかかる。
久晴は、条件反射で自分の背中を盾にする。
偽ヲタクの振り下ろした角材は、材質の強度がなかったのか久晴の背中が硬かったのか真っ二つに折れてしまった。
まりんは背中の痛みで顔を歪める久晴を目の当たりにして、
「誰か、誰か、この人怪我してますっ!」
と必死に叫び助けを求めた。
立場が悪くなったことを悟った偽ヲタクは、折れたプラカードを捨て逃げ出す。
そこへ、スタッフの警備員達が偽ヲタクを取り押さえ連行。
偽ヲタクは、捕らえる警備員達の腕を振りほどこうと必死で抵抗し何度も訴える。
だが、迷惑を掛けた上に相手に怪我を負わせた偽ヲタクに容赦することない警備員達はスタッフルームへと強制的に連行する。
それに対して、被害者となった久晴はスタッフとまりんと共に医務室へと連れられる。
場が収束したのか、野次馬となったギャラリーは自然と解散し撮影会を再開。
思わぬトラブル、思わぬ出会い、背中の痛みに顔を歪める久晴は医務室へと消えた。
こうして、医務室で処置を受けた久晴。
幸いにも、怪我は転んだ軽い擦り傷と軽度の打撲で済んだ。
その間、まりんはスタッフに事情を話し久晴を巻き込んでしまったことを主張。
今回の一件で、長身の偽ヲタクは例え警察沙汰でなくても出禁になることは確実。
スタッフは、久晴に対してお詫びとしてビックサイトで利用できる食事券とコミケに関するグッズを提供。
最初は必死に断ったが、スタッフの粘り強さに負け好意を受け入れ貰うことに。
そこへ事情聴取を終えたまりんが久晴の元へ歩み寄り、
「誰かは存じませんが、助けていただき有り難うございます。後で必ずお礼をしますので」
と言い残しコスプレ撮影会を再開すべく医務室を後にした。
何も言えぬまま、去って行くまりんの背中を見ることしか出来ない久晴だった。
こうして、思わぬトラブルによって結局は終了時刻まで残ることになった久晴。
それを見上げると、青空の西側から夕日で赤く染まり夕暮れを告げる。
その頃になると、背中の痛みは嘘のように消えていた。
想定外のトラブルを忘れようと、背伸びをして気分転換に秋葉原へ向かおうとする。
そのとき、後ろから「待って」と女性の声が聞こえ思わず振り向いた。
すると、久晴の目の前に見知らぬ女性が立っていた。
女性にしては身長が高めで、ショーウインドーのマネキンが着てそうな洋服をおしゃれに着こなしている。
「私です、まりんです。改めて、助けていただき有り難うございます」
と言って軽くお辞儀をするまりん。
そのとき、特徴的なブロンドの髪と大人と少女の中間な顔立ちでコスプレイヤーの北欧まりんだと気付く。
(それにしても、女性って服装替わっただけで印象変わるから不思議だ……)
と思って、コスプレとは違う私服姿のまりんに驚く久晴。
だが、女性が苦手な久晴はその場から離れようと、
「それは、無事でよかった。では、俺は用事があるので失礼!」
と言って駅に向かおうとする。
ところが、まりんは逃がしてなるものかと言わんばかりに相手の裾を掴んで、
「待って、まだ話は終わってません!」
と言って久晴を強引に引き留める。
強引に引き留められた久晴は、嫌な予感がしそうで何とかして逃げたい気分。
「この後、何処かお食事でもしませんか? お礼とお詫びを兼ねて」
と言って、笑顔でまりん自ら食事に誘ってきた。
(こういうのって、男の方から誘うものじゃ……。それに、初対面だし……)
と思った久晴は、まりんからの誘いに困惑し様々な予測が張り巡らせていた。
何とかして、離れようと「あの、用事がありますので」と誘いを断ろうとする久晴。
すると、まりんは笑顔とは打って変わって今にも泣き出しそうになる。
当然、居合わせた人達が野次馬のように群がり始める。
その様子に気まずくなった久晴は、
「わっ、分かりました。えっと、何処へ?」
と思わず言ってまりんの誘いを受け入れしまった。
すると、まりんは急に笑顔になり、
「では、ここで立ち話は何ですから移動しましょ」
と言って久晴の手を握って強引にタクシー乗り場へと向かう。
対して、久晴は困惑して頭の中がパニック状態で抵抗する暇が無い。
そのとき、久晴は父から「嘘と涙は女の武器だから注意しろ」と言われたことを思い出し騙されたことに気がつく。
こうなると後の祭りで、強引にタクシーに乗せられた久晴は後悔し心の中で叫ぶ。
(あぁぁぁーっ! 三年ぶりの、三年ぶりの秋葉原が遠のいて……)
こうして、久晴とまりんを乗せたタクシーは、秋葉原とは違う方角へと向かっていった。
それから、一時間ほど経過しただろうか。
到着した場所は、ファッションやカルチャーの発信地で有名な建物が多くおしゃれや流行に敏感な若者達が行き交う渋谷。
現在も大規模な開発プロジェクトが進行中で、どのような変化をするのか誰一人として予想が出来ない進化し続ける街。
ヲタクの久晴にとって、場違いと思ったのかとても居心地が悪い。
まりんに案内された場所は、物静かで何処かこぢんまりとした落ち着きのあるカフェ。
アンティークと思われるインテリアがさりげなく置かれ、何処か落ち着きのある雰囲気を醸し出している。
「私、よく使う場所なのです。ここ、予約が殺到して中々入れなくて」
と言って、ニコッと笑顔で話し掛けるまりん。
まりんの笑顔で、ドキッとしたのか自分の耳から胸の鼓動が聞こえてくる。
さらに、対面で両者が座ると胸の鼓動が高鳴りが早まり、
(これって、恋人同士の……? 落ち着け、どうにかして落ち着け俺っ!)
と心の中で叫び、真夏でもないのに異常な汗を流す久晴は必死に冷静を装う。
だが、新人で美人な女性の前では世の男の誰もが冷静になれるのは無理難題。
緊張して、店員が提供した食事にも手が出せず会話すら出来ない状態。
そんな中、まりんはポーチから着信音が聞こえスマホを取り出し何やらチャットらしきを仕草をする。
そのとき、怒っているのか困った様子のまりんを見掛けた久晴だが何をしているのか分からず首を傾げることしか出来ない。
数分程して、スマホを小さなバックに納めると、
「友達が遅れるって連絡が……。せっかく押さえたのに、予約時間が終わるって連絡したけど……」
と言って困った様子のまりんに、どう返事すればいいのか分からず苦笑いする久晴。
そんな中、まりんが不思議そうに久晴に近寄って、
「なんで、前髪長いの? 前、見えないでしょ?」
と言った瞬間、久晴の緊張がピークを迎えそうになる。
(近い……。近すぎるっ!)
近寄ってくるまりんに、話したくない自分のコンプレックスを話し出す久晴。
「だっ、大丈夫っ、前見えますよっ。それに、自分の目付きの悪さが嫌いで……」
すると、まりんは何を考えたのか手で久晴の前髪をかき分け、
「えっ、目付きが悪い? こんなに格好いいのに」
と言って微笑んで素顔が露わになった久晴を褒めた。
そのとき、深夜バスで見た夢が正夢だと実感する久晴。
それと同時に、素顔が露わになった瞬間に自分でも分かるくらい顔全体が熱くなりパニックで何を言えばいいのか分からなくなっていた。
まりんは、真っ赤になった久晴の素顔を見て、
「ごっ、ごめんなさい! 恥ずかしかった?」
と言って、かき分けた手を退けた。
前髪は下ろされたが、素顔を見られた恥ずかしさで緊張状態が解けない久晴。
そのとき、男性のスタッフが姿を現し二人に連絡を伝える。
「お客様、後五分でお時間になります。延長しますか?」
「えっ、もうこんな時間! まだ、友達来ていないのにっ!」
と言って困った様子のまりんに、何かチャンスと思ったのか久晴は、
「すっ、すいません! これから、神田明神に行って二年参りしますので失礼っ!」
と緊張で早口になったが、会釈して脱出しようと急いで自分の荷物をまとめる。
これで、緊張から解放されると確信した久晴。
ところが、まりんは久晴の用件を聞いて瞳を輝かせて何を考えたのか、
「えっ、神田明神で二年参り? いいですわね、一緒に行きましょう!」
と言って、速攻で会計を済ませる。
そんな、まりん背中を見て彼女の行動力の早さに唖然とする久晴。
まさかの同行に、久晴本人ですら想定もしていなかった。
当然、移動はタクシーで後部座席には久晴とまりんの二人だけ。
緊張してよそよそしい久晴を尻目に、まりんはポーチからスマホを取り出しチャットを打ち込む仕草をする。
カフェの時とは違い、今度は鼻歌を歌って何かを企むいたずらっ子のような笑みを浮かべているのを怯えるような目で見ている久晴。
今度は、何を考えているのか全然予想が出来ない。
唯一分かっていること、タクシーが神田明神へ向かっていることだけだった……。
こうして、再びタクシーに乗って数十分は経ったのだろうか。
到着した神田明神の鳥居前は二年参り目的の参拝客で人集りを成している。
一応、鳥居前には多くの店が並んでいるが出店もあり異常なほど賑わっている。
その光景を目の当たりにしたまりんは、驚きの余りに久晴に話し掛けてきた。
「私っ、二年参り初めてで……。二年参りって、こんなに多く集まってくるのですか?」
「おっ、大晦日だから……。それに、正月三が日もこのぐらい混むから……」
と言って、照れながら必死に答える久晴の表情に余裕がなかった。
久晴の予定は、一人で秋葉原を散策して神田明神で二年参り。
まさか、合ったばかりの女性と二人っきりだなんて思ってもいなかった。
しかも、ちゃんとした服装で誰も分からないだろうが新人のコスプレイヤー。
(緊張する……! まだ、緊張してる……!)
と心の中で訴える久晴の胸は、今にも爆発しそうなほど緊張が最高潮。
一方、初めての二年参りに参加するまりんの瞳は子供のようで何もかも興味津々。
彼女の行動力に振り回され、目が離せず緊張の連続で血が繋がっていないのに落ち着かない子供を心配そうについて行く父親の心境な久晴。
そんな中、予想以上の参拝客の混み合いで離れ離れになってしまい人混みの中をかき分け必死に探す久晴の心境は女性に奥手とか緊張しているとか関係なかった。
(また、変なヤツに捕まったらっ……!)
と心の中は、昼間に遭った事件が再度起きるのではと思った。
十数分ぐらい探しただろうか、まりんは人混みの中でポーチを抱きしめ震える姿を発見する久晴は彼女に手を差し伸ばし思わず話し掛ける。
「大丈夫っ? 混んでるし、離れ離れになると大変だから手を繋ごう」
すると、迷子から解放されたまりんは涙目で「うん、ありがとう」と久晴の差し伸ばした手を話さないよう強く握る。
手を繋いだままの二人は、神田明神の本殿を目指し人混みの中をかき分ける。
まるで、二人の姿は恋人同士というよりも幼い兄弟のように見える。
こうして、神田明神の本殿に到着した久晴は初めて二年参りのまりんに手順を教えた後に賽銭を入れ二例二拍手で心の中で強く願い事を伝える。
(どうか、どうか、あのブラックな体質から解放されますように……)
やはり、願い事は葛谷と畠田から解放されたいようだ。
しばらくして、願い事を伝えた久晴は一礼して隣のまりんに目を向ける。
すると、キリスト教のような祈りを捧げるまりんの姿にドキッとする同時に、
(えっ、夢で見た光景と同じ……)
と神秘的なまりんの祈りに、心を奪われてしまう久晴。
同時に、普段夢に出てくる天使が祈りを捧げる光景が目の前で再現されている。
「宗教違うから、ついっ」
と言って、笑顔で可愛く誤魔化すまりん。
その笑顔に、再び緊張する久晴は紛らわそうとまりんに提案する。
「そっ、そうだ、おみくじ引かないっ?」
「おっ、おみくじっ? 何それ?」
「あるところと無いところがあるけど、神社に来たら必ずやることだよ。まあっ、占いのようなモノだよ」
と久晴の提案に、「それ、面白そうですね」と二つ返事で受け入れるまりん。
すると、おみくじ売り場に案内する久晴はお金を払って八角柱の箱を振ってみくじ棒を取り出し巫女に手渡す。
まりんも、久晴と同じように八角柱の箱を振って出たみくじ棒を巫女に手渡す。
(言ったはいいけど、くじ運あんまり良くはないからな……)
普段、おみくじのある神社に行って引いても良くて中吉が最高でひどいときは大凶が出てくることが多い久晴。
だが、今年の久晴のくじ運は違っていた。
「えっ、大大吉っ? 何それっ?」
と思わず言って驚きを隠せない久晴は頭の中がフリーズする。
おみくじの最高が大吉であることは誰もが知っているのに、大大吉があるなんて思いもしなかったから驚くのも無理はない。
しかも、内容を見ると良いことばかりで記載されていた。
あり得ないおみくじの内容に、「えっー!」と再び驚く久晴。
さらに、あり得ないことにまりんも引いたくじが大大吉で驚きが最高潮の久晴。
すると、見知らぬおじさんが大大吉を引いた二人にアドバイスを送る。
「これ、お守り代わりに財布などに入れておきなさい。必ず、良いことが起きるよ」
それを聞いた久晴は、アドバイスに従って大大吉のおみくじを財布に入れる。
まりんも、手帳型のスマホケースに大大吉のおみくじを入れてポーチに収める。
二人は手を繋ぎ、正門の鳥居から神田明神を後にする。
こうして、神田明神で二年参りを済ませた久晴とまりんの二人は出口付近の甘味処の前まで向かう。
すると、ショートヘアーの赤髪の女性が待ち構えていた。
まりんは、赤髪の女性のところへ駆け足で歩み寄り、
「せっかく、カフェの予約取ったのに遅刻した方が悪いっ!」
と言って、怒りながらも笑顔で話し掛けるまりん。
すると、女性特有の井戸端話を始める二人。
そんな中、赤髪の女性を見た久晴は絶対に関わってはいけないと逃げようとする。
だが、逃げようとする久晴を見掛けた赤髪の女性は立ちはだかって、
「あんた、彼女をたぶらかしてないわよねぇ?」
と言って、久晴の胸ぐらを掴んでカツアゲする不良みたいに恐喝してきた。
威圧的な態度に、悪いことをしていないのに何を言えばいいのか目を泳がせ抵抗すら出来ない久晴。
その状況に、まずいと感じたまりんは久晴を擁護する。
「違うのっ! この人、私を助けた恩人よっ!」
赤髪の女性は、まりんから事の顛末を聞き偽ヲタクから助けた恩人だと理解すると、
「ごめんなさい。あたし、ついカッとなるタイプだから」
と謝って胸ぐらを掴んだ手を離し久晴を解放する。
誤解が解け解放された久晴は、恐怖から解放されても足が思うように動かない。
「ところで、あなたニート? まるで、浮浪者みたいだけど?」
と赤髪の女性は、足が自由に動けない久晴に質問してきた。
「いいえ、こう見えても社会人ですけど」
と言って、財布から名刺を取り出す久晴。
すると、赤髪の女性は取り出したばかりの名刺を強引に奪う。
「ちょっと、詐欺師まがいなことしちゃダメでしょ!」
と言って、赤髪の女性の横暴に慌てて注意するまりん。
それに対して、赤髪の女性は反省する様子はなく冷静な態度でまりんに言い返す。
「言っとくけど、社会人なら名刺持って当たり前。あなたも、名刺貰ったらっ」
赤髪の女性に言われたまりんは、不安そうな表情で久晴にお願いしてきた。
「あの……、私も名刺をいただきたいのですが……」
すると、久晴は震える手で自分の名刺をまりんに差し出す。
差し出した名刺を受け取ったまりんは、会社名や名前を見て何か疑問に思う。
「くっ、黒井製作所っ……? どこかで聞いた事が……?」
そのとき、久晴のポケットから会社で支給されたガラケーから大きな音量の着信音。
久晴は、ポケットから黒いガラケーを取り出し電話にです。
「おいっ、タダ働きっ! 早く、会社に戻ってこい! 阿久井課長様から仕事の依頼が来たぞっ!」
声の主である畠田が、年末年始休暇中にも拘わらず仕事を押しつけてきた。
久晴は事情を話すが、「明日の始発で戻ってこい」とか「言い訳は聴かん」とか言われてしまい仕方なく勤め先の東北へ戻ることに。
「東京に行っているだろうっ! 上司の俺に一番美味いお土産買ってこい!」
と電話を切られ困り果てた久晴は、仕方なく彼女達二人に別れを告げる。
「すいません、仕事がありますのでこれで……」
その後、久晴は予定していた秋葉原のネカフェで一夜を明かすことに。
その足取りは、ウキウキ気分の出かけるのとは違い重くなっていた。
翌朝、みどりの駅前で始発の新幹線の切符を取ろうとする。
だが、正月元旦だけに走っている新幹線の本数は少ない上に満員状態。
結局、切符が取れたのは正午くらいで電話で上司に謝り続けることしか出来ない。
その間は、東京駅で上司の命令で好みそうなお土産を買う羽目に。
こうして、久晴の東京旅は仕事という名の押しつけで急遽終わることに。
新幹線に乗った久晴は、車窓越しから離れ行く東京の街並みを黙って見ることしか出来なかった。
元旦の夕方、久晴が会社に着く頃には畠田の命令で集まった営業支援係のメンバーが全員集まり不満そうな顔で押しつけられた資料を作成中。
久晴も席に着くなり、掛けたくない本社の阿久井に電話を掛ける。
「あっ、多田野君。正月早々で申し訳ないが、資料の作成をお願いしたいやけど」
と阿久井の声が受話器から聞こえた瞬間、憂鬱となり嫌な顔をする久晴。
阿久井の電話は異常な長電話で、仕事とは無関係な世間話が二十分近くで仕事の電話は一件で五分で計三十分程の長電話。
しかも、何度も掛かってきて口頭のみで資料必要な情報は一切送ってこない。
久晴が「メールかファックスで送ってください」と要求しても、阿久井は「言えば分かる」としか返ってこないから余計に時間が掛かってしまう。
一分一秒でも早く終わらせたい久晴にとって、三十分以上の長電話は痛いタイムロスで挽回するのに倍以上の労力が必要となる。
しかも、今の久晴が所属する部署は営業課で阿久井の管理関係の仕事は完全な畑違い。
(なんで、分かってくれないのだろう……? 阿久井さん、管理部門の延長線としか思っていないのかな……?)
と心の中でため息を吐くことしか出来ない久晴。
「では、三が日開けまで資料を完成させといて」
と言って阿久井との電話は終了した。
阿久井の理不尽で不親切な仕事の依頼に頭を痛める久晴だが、この後に起こる異常事態が起きることを知る由もなかった。
しかも、久晴にとって思いがけない好転することが裏で知られずに起きることを……。